文芸同好会 残照

View Master

背景色:

文字色:

サイズ:

残照TOP  [ ジャンル ] 随筆   [ タイトル ] 『残照』雑考

『残照』雑考    水原 友行

 この度、残照について何かエッセイを書いてくれと頼まれ、冷や汗かきながら、苦心惨憺し、例外なくエッセイストが陥る毀誉褒貶における技術の未熟さの中で、痛々しいながら、自らの裸体をさらけ出すことになった。
 私は、残照の名誉編集長だが、すべての名誉がそうであるように、単なる名目だけの編集長である。小学校の頃の新聞編集委員長から、さまざまな肩書きを経てきた私だが、私だけなのかもしれないが、肩書きとは活動の見学者たちに与えられる一つの兵役免除に過ぎないように思われる。私は全く残照のことを知らないし、成り立ち、存続要件、構成員、実質的な活動のほとんどにおいて、タッチをしていない。それでも、彼らは、私を歓迎してくれている。歓迎する理由とは、他ならぬ、私が名誉編集長であるからである。ほとんどトートロジーのようなものだが、それでいいと思ってくれるなら、私としても、これほど「名誉」なことはない。私は、1残照を創成し維持している人たちの勇気ある活動、奇跡的な孤高に敬意を辞する理由を持たぬし、2定職も持たず愛する人たちや祖先の偉業の結果を侮辱する無為な生活を送りながら、それでも私が残照の編集長であるという主張を許してくれるみんなの寛大な気持ちを利用して何とか生きて来れたことに対して、はじめに感謝の花束を贈っておきたい。第一、残照がK大の一サークルであった頃、私はK大にすら所属していなかった身である。私は、生活するための努力を何もしていないことについて、しばしば自分にとって大事な人たちから批判を賜るのだが、そんなときに、みんなに甘えて、自分は「あの」残照の名誉編集長であることを相手にほのめかすという策略を使う。同じようにして、私は、バス停で偶然隣にいた婦人に自分は無職で住所不定の生活を送りながら祖先の財産を食いつぶし続けている神経の通っていない人非人であることを暴露する恥ずかしい瞬間を避けられる。私は、残照が雑誌の名前であるのかも知らないが、名目上でも残照にタッチしているように思い込むことによって、どれだけの街路を自信持って闊歩できたことだろうか。エッセイを始めるにあたって、私がどれだけ残照に世話になったかを言いたかったのだが、意図が達成されたであろうか。批判を受け入れ、怒りを甘受する気持ちでいる。
 私の手元には、計八冊(増刊号を含めて)の残照の雑誌があるが、今後の話題においては、それに何とか注釈をつける準備的な試みをしようと思う。それだけでも私の自尊心をかなりくすぐる。偉そうなことを言うことができる機会を見逃したくはない。
 最後に、エッセイというのは、残照外の人たちにも分かるような、内輪の話題を避けて書かれるべきものであるらしいが、1私自身がその「内輪」に入っているのだろうか、2「内輪」がそもそも存在するのだろうか、という二つの疑問に出足から絡めとられて、私は一文さえ書き出すことができなかった。だから、私は1物事を「」入れして説明するように心掛け、2それを語る権利が果たして自分にあるのかどうかという問題はさて置くことによって、エッセイを進めていくことにした。事実の隠蔽や歪曲に関して、批判を受け入れ、怒りを甘受するつもりだが、出来れば、私の言うことなど他愛もないことだ、と考えてもらうことを勧めたい。どうせ、私は、誰かさんによれば、「嘘しか言ったことがない」らしいし、しかも、「複雑に仕組まれた嘘しかついたことがない」らしい。そんなことを言われてしまえば、私は生涯黙り続ける決心をするしかないわけだが、エッセイを頼まれたことにより、誰かさんには悪いが、貝の口を開くことにした。「すべての言明は近似的である」という伝家の宝刀を頼む。誰かさんによれば、「後ろめたい者ほどよく語る」らしいが。
 
 残照紹介
 
 残照について、枝葉を論ずるにしても、批判するにしても、栄誉を与えるにしても、肝心要の「残照」そのものが分からない読者にとっては、単なるチンプンカンプンに過ぎない。存在していないタイムマシンの存在を二重に否定することによってタイムマシンの実体が現れるといった話も聞いたことがない。残照は、きっと、あらゆるものの複合体なのだろうが、歴史的には、恐らく、八冊の雑誌と、幾人かの関与者によって証言立てられよう。ここでちとそれらをまとめた残照創世記なるものを試みてみることにする。
 残照の前身である「羅針盤」は、後に甲南学派となる二人の人間、ロマンティカ浜崎氏と斜窓氏、によって発案されたものと考えてもよい。それは、後の雑誌の前書きを書いた猿鳥敢人氏の協力があって、文芸同好会として始まったのである。彼の前書きによると、「『残照』は文芸サークル『羅針盤』の発行する同人誌です。」と説明されている。つまり、残照は、はじめは同好会の発行する雑誌の名前として使用されていたことが分かる。ところが、後になると、文芸部『残照』と呼ばれることになり、羅針盤という前身は失われてしまった。その経過には、羅針盤が後に「甲南学派」と分類される人間によって創立された趣味縁で成り立つサロンのようなものから、活動が多岐に広がっていったことが含まれるのである。羅針盤でくくれる関係は、後には、甲南学派として残照の一分派となったのである。文芸同好会羅針盤への勧誘(私自身は、そのポスターで残照の存在を知った)により、その多様性が現れたのではない。そこには、I氏などによる残照画廊派の台頭や、後に整理された「友人過多と孤高主義」が現れたことが要因としてあるのである。以来、残照という名は羅針盤を超えて一人歩きしていくことになった。また、単純に甲南学派とくくりえぬことになる派閥の誕生があるのだ。ちなみに、羅針盤という名はK台の学食において創立者たちにより創案されたものと聞くが、残照という名は出暦不明である。居酒屋のキープの瓶に書かれたのが始まりだと言われているが。
 残照の消息をたどるために雑誌しか資料が残っていないことは、探索において非常な制限とならざるを得ない。それによる推測をすると、残照甲南学派すなわち羅針盤が雑誌のメインを飾ることができたのは、第三号の雑誌までであり、その経過を見ると、いかに彼らが没落して行ったかが明瞭となる。彼らは、幾人かは抜けてしまい、幾人かは遠くの地に新たな生活を求めて旅立ったのである。要するに、執筆者が激減し、または変遷し、文芸誌として成り立っている残照の活動は、あまりにも多岐に渡り、または限定されていったのである。私が知る限り、この時期に至っては、非執筆者である残照のメンバーが増えに増え、雑誌は、残照内における少数派の主張によって占められることとなり、いわば文芸同好会としての残照は形骸と化していた。羅針盤は、当初、「無気力同好会」として作られることとなったと聞く。要するに、昼寝をして駄弁る会であり、その創立の失敗によって、羅針盤が誕生することになったのだが、はじめから私には羅針盤には無気力無目的という致死遺伝子が蔵していたのではないか、と思われてならない。実際、文芸という活動がその頃どのように思われていたかというと、「別に残照がなくなっても可能な究極一人でもできる活動」であり、文芸同好会という用語自体がその頃から形容矛盾であることは気付かれていた訳である。したがって、残照はそれ自体、羅針盤からの脱却を図るしか、生存の可能性がなかった。そして、残照の中には、文芸派と非文芸派の分裂が生まれたのであるが、その時期こそ友人過多と呼ばれた時期に他ならない。大学の学生会館と呼ばれる二階部分は、彼らによって占領され、それにより、残照内では残照に対する反感や拒絶が育っていったと思われる。ともあれ、別の視点で見れば、これは、大学をさぼるということであるが、要するに、残照は、模索されていた。結局、この時期の残照は無きに等しかったからである。
 私は、残照が以来五冊もの雑誌を上梓できたことは、残照の中に多様な分派が生まれたおかげだと考えている。集団が分裂によって胡散霧消するときには、結局、その分裂自体を集団の構成要素にすることによって、難を逃れるのは、精神病者の自我でも集団の自我でも同じだと思う。この時期に、甲南学派はその姿を現し、残照の外的自己といえる残照画廊派が成立し、あるいは、個々のメンバーにおいて、「友人過多」による集団への不信感から高踏主義が試みられたのである。甲南学派は、甲南高校出身者が形作る縁によって結びついた分派であり、残照画廊派は、K画廊の関係者たちが残照と結びつくことによって形成された縁である。また、忘れてはならないのが、四号の最初にある「カルネアデスの船板」を寄稿した緒田氏(ロマンティカ氏とは別人である)に代表される聖E教会の人たちが、残照に対して懇意になったことである。このように、残照は一つの集団とは言い切れぬほどの多様性を獲得することとなったが、それには先に言ったように、残照にはじめからあった致死遺伝子の存在ともたげた集団への不信と派閥化の波を乗り切って残照が存続するための唯一の解決策だった。四号・五号で形成されたこのような縁は、結局、さまざまな変遷はあったが、今まで特に変化はしていない。私はそう考えている。ところで、私自身は、ここに述べられたいかなる分派にも当てはまらない。そもそも、この分類自体が私の独断によって為された仕事であり、自分の孤高を正当化するための手段に過ぎなかろう。恐らく、個々のメンバーも私を含めた自分以外の斯くような分類を持っているだろうことは疑いない。
 私は、この創世記はここで終わりにせざるを得ない。これより詳しく論じるには、個別的な出来事を瑣末に議論することが必要になるからである。それは、次からのエッセイにおいて、行おうと思う。
 最後に、名目だけの編集長から、斯くような歴史を形成した幾人もの人間たちへ感謝をささげようと思う。感謝する機会を持たず消息不明になってしまった人たちがあまりにも多い。残照編集長として、私は、すべての人間の望みに目を向け、個々の人々に自己表現の場を与えるという義務をあまりにも疎かにしてきた。遠くの地からわざわざやってきてくれた人たちが、どんなに残照が冷たい集団と考えたかを思うと、背筋が凍る。いや、これは、私がやったことであり、皆は、そうではない、稀に見る高潔の士であった。両者に私は感謝したい。語りきれぬ事柄がまだあまりにも多い。また、控えめに表現せざるを得なかったことや隠蔽された真実も幾らもあろう。私の無責任な態度と他人然とした欺瞞的表情がどれほど冷たく映り、迷惑をかけたかを、私が最も良心的になる時刻、就寝前には、考える。皆がそれぞれ、いかに気高かったかを書きたくて、筆を執ったはずなのに、無機物でもうつしとっているかのような文章になってしまっている。後ろめたいのだ。この水原、後ろめたくてたまらない。
 
 残照批判と文芸誌の未来
 
 前エッセイを読み返し、私は、自分の説明不足にびっくり仰天した。残照画廊派の成立や、さまざまな派閥の具体的な説明が抜け落ちて、歴史の年表のように表面的になってしまっている。そこで、今度は、残照の文芸誌としての存在に対する批判を試みながら、説明を補いつつ、文芸誌の未来に思いを馳せてみたい。
 さて、すべての文芸誌は、既に寿命が来て、がたがたになっていると思う。世には、さまざまな現代文学や現代文学誌が満ち溢れているが、(また、私は、その一つたりとも手に触れたことなく、それに対する知識は皆無だが)、当人たちの意思と熱意とは裏腹に、すでに文学そのものが墓場に入っていると思う。哲学が墓場に入っていることは明瞭だが、私は、文学(純文学のみならず、ミステリーでもSFでも何でもござれ)全般が、墓場に入っていると思う。だから、文学者というものは皆、墓堀人夫であるか、墓荒しの類だと思う。これは、本離れや雑誌・書籍の売れ行きの減少や文化の黄昏や物書きの人格が畢竟人非人であることへの理解からも分かるが、それだけでなく、そんな誰でも知っていることによる理由よりも、文学そのものが蔵している致死遺伝子によるのだと思う。それは何か、と聞かれても、答えに窮するけれど、残照を考察していくことにより、文芸活動の本当のところを探り、文芸誌の未来が残っているのならそれを吟味することにより、以下に考えていきたい。
 世には、私たち残照だけでなく、非常に熱意を持った(驚くことに読書好きではなく、自己表現好きという意味での)文芸愛好者が溢れていると聞く。私は、その実態を知らないが、大体、私たち自身を見れば、それが証拠となりえるのではなかろうか。私たちは、文芸同人という形で、その嗜好を顕しているわけであるが、世には同人の嫌らしさを通暁しきって単独になった物書きや、物書きで飯を食うための物書き学校なるものがあり、そこに金を払って通っている者さえいると聞く。彼らの間での一般的な評価としては、文芸同人は、己の自己満足の気持ちのよい自慰的活動であり、そこにいては文章がうまくならず非生産的なうぬぼれ議論をして互いに険悪になるぐらいが関の山であり、自閉的であり、一生物書きにはなりえないと言う。つまり、文章で身を立てるには、ナルシスチックな文芸同人にかかわるのをよし、世間の冷たい風を受け入れ、専門的に文章なるものを学び、批判を受け入れることだというのだ。なるほど、と自分のことを思い、確かに思い当たる事実があるが、そもそも、私としては、文章で身を立てようとは思っていないから、別に構わない。だが、この専門的物書きなる人種に対しては、少し、思うことがある。この時代に大量に出現した物書き志向人種は、専門的物書きになるためにこつこつと努力しているのであろうが、そもそも、物書きは、職業なのであろうか。専門的な文章とは、(恐らく)出版されるに値する文章であろう。ところが、出版に値する文章とは誰が決めるのであろうか。科学や学問の論文であれば、その根拠を、歴史的にも判断でき革新性を見ることによっても見ることができる。しっかりとした基盤を持っている。ところが、出版に関しては、そんなものはない。文学にはそんな基盤はない。私には、文学史というものがあるとは思えない。つまり、文学にはなんら専門的な基盤がないし、ましてや、文学的洗練や文学における世間や文学の職業性は、全くないと思う。文学者というものが結局批評を始めたり、知識人となったり、文化を論じたりするようになるのは、文学に全く職業的な基盤がなく、何も基盤がない証拠だと思う。だから、文学における物書き要するに職業としての文学は、ないと思う。よって、文学は無償の文芸同人としてしかありえないし、結局の所、それを職業にすることを目指す人たちは、イカサマ師の類に見えてしょうがない。あるいは、職業でありえないもので生計を立てる採集生活的希代の奇術師に。
 だが、私は、それが悪いものだとは思わないし、それを主張しない。どんな時代にも、サーカスや道化師の類はいたし、彼らを(ジプシーのような)現代の放浪の遊牧民としてみれば、むしろ、格好がいい。文学が、落語家のように、芸のようであれば、私はすばらしいと思う。ただ、職業でもないものを、無理に職業と偽って、文芸同人はナルシスチックだと言われては、むしろ、自分たちは詐欺師の専門家を目指しているのだということを故意に無視しているように見え、腹を立ててしまうのである。控えめに言っても、文章でお金を得るなんて、恥ずかしい行為だと思う(私はそう教わり育ってきた)。
 要するに、文芸活動の本質は、どんなに偽っても、文芸同人であるしかなく、それが一人であるのか、大人数であるのか、生計を立てているのか、世間あるいは文化なりと対話しているかとは関係せずに、それらの多様性は文芸同人がさまざまに形を変えたものに過ぎないのではないか。それらの間で、自分らが本当の物書きなのだ、と主張しあっても、目くそ鼻くそを笑うだけであろう。自己表現を、仲間内で見せ合っても、出版者に見せに行っても、文化あるいは大衆と対話しているつもりになっても、(それで金を貰っている)文章の専門家に見せても、どうやっても、同じようにナルシスチックであり、自閉的であることには変わりなく、文芸活動には全く客観的な基盤がないから、文芸活動そのものが、ナルシスチックなのである。
 さて、残照は、文芸同人として始動した訳だが、確かに自閉的ではあったのかもしれない。だが、今では、何人かは出版社に送りつけたり、出版を希望したりしている。また、私が残照画廊派と呼ぶ者たちのおかげで、文章を少なくとも書いてみたい、ひょっとしたらそれで身を立てられはしないか、と考える者が、私たちの周りに、冗談じゃないほどいることを知ったのである。私が画廊と出会ったのは、残照のメンバーであった杜若氏の紹介による。画廊が、求人雑誌に、文章を寄せてほしい、という広告を出しており、それがいいバイトにならないか、と考え、私たちは、彼らに会いに行ったのだ。結局、それがバイトとなることはなかったが、彼らとの関係はI氏を通して続き、今に至っている。I氏は、途方もない人格を持った一人物であり、私の生涯に彼に比することのできる「人物」という言葉に値する人間は数人しかいない。彼は、絵描きと文章書きの絵と文章を、自分の厚意から買い取ることをしている。件の広告は、彼のものであったのである。そこで、彼は、金になると思ってつい文章なるものに手を染めてしまった女学生から、文章で身を立てたいと考える男、または、貧乏絵描きや趣味として絵や文章を制作する主婦まで、多様な人間たちを知っており、紹介してくれたり、寄稿された絵や文章を譲ってくれたりと、私たち残照の中身を豊かにしてくれた。自己表現なるものは、人間に不可欠の要素ではないか、とまで思うほど、星の数くらい文章家や絵描きは存在することを、私は、彼らとの付き合いで、はっきりと知るに至った。
 私は、今でこそ、かなり特殊な社会の部分を見たのだ、と控えめに考えはするが、インターネットを見ると、恐るべき量の日記や随筆や小説作品に圧倒されることからも、少なくとも、今の時代には、ほかの時代とは比較にならないほどの、自己表現欲なるものが溢れているのだ、ということは、明らかだと思う。私は、自己表現は罪であるか良くてもわがままであるという土地に育ち、少なからず、驚きを覚えたことは疑いない。私自身が持っている自己表現欲なるものは、生来の本好きにより、私を唯一純粋に受け入れてくれた本に対する恩返しをしたい、それは、私自身があの素晴らしい古典たちに返答をする以外にはない、という思いから始まったのであり、私の生まれた地方においては、それ以外に罪深い自己表現欲が出現する方法はあるまい。ところが、この並居る物書き軍は、聞くところによれば、本はあまり好きではないらしいのである。とすると、これこそ本当の自己表現欲の現われなのだろう。無論、(たぶん)本好きではないイエーツがノーベル文学賞を取っているのだから、読書キチガイであるか否かが物書きであるかの要件ではないことは、今でこそ理解しているが、読書と表現が一体となっているものだという偏見を蔵していた当時の私には、相当奇妙に見えたことは疑いない。でも、医者が、自分が診察されることを拒むようなものであろうし、むしろ、そのほうが当然なのかもしれない。
 残照のメンバーの文芸活動は、雑誌を出すという脅迫によってのみ、行われていた。すなわち、四号ほど出した後には、残照自体の存続が危ぶまれるほどの無気力に陥ったのだが、結局、画廊への恩義や、原稿を寄せてくる方々への返答として、結局、自分たちも文章を書かざるを得なくなり、それによって無理やり書いた原稿をつなぎ合わせた感のある雑誌が少なくない(無論、杜撰だったのは私だけである可能性が非常に高いが)。しかし、残照は、多様に広がったおかげで続くことができたし、書き続ける気力を充填できた。いくつか、誰の目から見ても素晴らしい詩や小説が載せられていることは、恐らく、疑いないが、それは残照という部が、単なる大学の一サークルで終わらなかったおかげであると思っている(私は、小説で言うなら、六号に載っている「小説・2」、「無傷」、「処刑場の掃除屋」を挙げたい)。これらのことは単なる賛美や感謝の気持ちの表れでなくて、事実である。少なくとも、残照のメンバー個々の表現欲は、あったとしても微々たる物であったことを私は主張したい。残照を、ざっと一読してみて、詩の数が非常に多く、恐らく傑作の数も詩のほうが多いであろうことに気づく(ただ、いかんせん、私には、詩の読解能力が全くない。私にはほとんどの詩を解釈することができない)。そして、詩のほうに関しては、私は、まだ、表現欲によって書かれたに違いないというものをいくつか見ることができる。ところが、全体として、熱意なくばらばらな感がある(特に、私のものに関してはそうである)。未完のものが多い。雑誌の本分たる連載に成功した例は、微々たる物だ(『閑人調』くらいであろう)。私は、そこに、追い詰められて書いたという証拠を見たい。残照は、表現欲によって製作されていない。残照は、残照そのものによって、書かれたのである。
 私は、文芸活動は、すべて同人的であるしかないことを言った。では、文芸活動を支えるべき自己表現欲なるものの基盤は何なのであろうか。私は、それは、文芸同人においては、文芸同人そのものだけであることを言いたい。締め切りがあることだけが、表現欲を掻き立てるのである。この締め切りは、文芸同人が変装するごとに、形を変えて変装する。雑誌においては、文字通り締め切りだが、文章を金にするものにとっては、生活そのものが締め切りとなる。文化人としての執筆家は、文化の変遷を締め切りとするのであろう。文芸活動においては、普遍的な永続する表現欲があるはずもないし、一日そのものを締め切りとする日記のように、締め切りを習慣化することぐらいが関の山である。表現欲は、一見、欲望の体裁をとってはいるが、結局、ただ脅迫的に追い詰められているか、強迫的な習慣となっているかのどちらかであろう。とすると、自己表現欲を持った物書き志向人種は、何によって追い詰められているのだろうか。インターネットを見たり、自分たちを見直したりしてみると、文章に駆り立てられる理由というのは、基本的には、不適応によるようだ。要するに、自分たちの根幹となる欲望を表現するのに、社会的には多大な困難があり、よって、フロイト的幼児が満たされぬ性欲を多形的倒錯によって満たすがごとく、より持って回った方法で欲望を表現せざるを得なくなり、社会の抵抗をかいくぐって犯罪者になるのも嫌だから、自慰的に文章として検閲した欲望を書きたてるというのが、主要な場合であると思える。夢でやっていることを、文章でもやるのだ。あるいは、沼正三やサドがやったことの延長なのだ。分かりやすく楽しい読み物を書いている者は、実際、分かりやすく楽しいもの以外の文章を文章だと認めない傾向がある。それは、自分が分かりやすく楽しい人間であり、同じような人間しか人間だと思えないと告白するようなものだ。偏愛する形式に対し、普通、そうでなくてはあれこれ、と理屈をつけているが、実際難解な本もたくさんあるのだから、単なる自己正当化であろう。新しいもの、時代を超越したもの、事実に基づいた空想を排除したもの、などなど、どんなものを志向するにしても、文章には物理学のようなはっきりとした基準がありはしないから、結局、自分の好みに過ぎない。そのような満たされぬ欲望が変形して症状となったものとしての文章を考えると、はっきりと、自己表現欲の正体が分かると思う。技術的な意味での文章はこうあるべきだ、という基準はない。無論、童話作家が、お家芸として童話を書くようなことはありうるし、芸としてなら、それは、自己表現欲とは全くかかわりない文芸活動(あるいは仕事)ではある。ところが、純粋な文芸活動を動機付けることはできない。自己表現欲は、存在しないようだし、神経症的症状であるか、追い詰められた時の奇怪な行動であるかしかないと思えるからである。むしろ、症状であるからこそ、文芸にはたくさんの分派があり、趣味縁があり、文芸同人があるのだ。それは、同性愛者が互いに群れるようなものなのだ(無論、こんな言い方をすれば、同性愛が神経症的症状であるといっているように誤解されそうだが、「それは症状ではないが、かなり満たされにくい欲望を持っている者たちは集まる傾向がある」という意味である)。症状によって形成された集団としての文芸同人は、周期的に締め切りを設定し、強迫的に願望を歪めた症状を噴出さずにはおれない。残照の場合には、個々人として、自覚的に、自己表現欲がないことを知っていた(要するに、本当は、書きたくないのだ)。だが、文章により表現するということそのものを証明するために、いうなれば、自己表現能力が存在することを証明するために、強迫的に雑誌を刊行し続けたのではあるまいか。私は、その潜在内容は、自分たちの無力さだと思っている。自分たちの真実の無力さを否定するために、逆を言うと、欲求を持っていることを証明するために、雑誌を刊行したのでないのか。同人誌は、われわれの空っぽになった欲望の代わりに、われわれの欲望そのものとなって、われわれを駆り立てたと思える。私は、残照の前身の前身の名前が、「無気力同好会」であることに多大な示唆を受ける。私もまた、残照に入る前には、自分の空虚さに途方に暮れていた(付け加うるに、入ってからも、そして、今も)。
 近頃、私には、家族から国家までのあらゆる集団が一つの症状に思えてならない。フロイトは、宗教を、集団的神経症と言ったらしいが、私には、関係そのものが、神経症的症状に思える。アンドロギノス説ではないが、われわれは、個々人として欠陥商品であり、したがって、その欠陥が人間関係として神経症的症状となるのだ。仏陀の悟りは、一切の人間関係を超越しきった途方もなく孤高なものであるが、それは、人間関係はそれだけでも病的なのだ、という仄めかしではないか。
 すなわち、文芸同人は、文芸活動の唯一の基盤であるのだが、文学そのものが、一つの症状のように思えてきて、私はしばしば書く手が止まらざるを得ない(果たして私だけであろうか)。残照でも私に親しい者たちの間では、呪文のように、文章とは病的だ、と言われてはいるが、果たして、私にも、どれほど自分が病んでしまっているのか、見当が付かない。佐々波氏のキルケゴール哲学によれば、「われわれは文章によって規定されている」らしいが、規定されるにしても、なぜ文章なのか、未だに分からない。私には、近頃、文章を書かなかったら、快楽殺人犯になったのではないか、という思いがあり、また、私は、クラップ氏に暴かれたとおり(注、『増刊号』参照)、自慰とは神との性交だとの強迫観念がある。私は、文章に対して、呪いもし、感謝もする。この論は、文章が病的であるなら、どのように病んでいるのか、という返答の意味でも書いたが、まだ結論には至れないようである。
 いうなれば、私が言いたいのは、文章を書いている者たち(特に私)は、地獄落ちだということであるが、最後に、文芸誌の(いかな地獄を選択するかという意味での)未来を、予告に応じる形で、述べて終わろうと思う。
 古くは、活版印刷機によって始まった文芸活動だが、実際、そのとき、それ以前のフォークロアや宗教書や哲学書・科学書とは全く違ったものが始まったのだと思う。いまや、ほとんど始まった頃の文芸同人の形は残っていないであろうし、そんなものがなくても、たった一人の部屋で文芸活動が始まる時代になりさえしたのだ。私は、現代の文芸は、すべて、墓場に入っていると言ったが、どんな墓場かといえば、暗い個人主義のプライベートな墓場だと思う。文芸の中身そのものも個人主義の墓場に入っているし、その活動はまさに個人主義である。結局、物書きは、既に、仲間を必要としていない。われわれは、すでに、自分のこの上ないプライベートな事柄を、難解な手段で包み、ようやく表現できるに過ぎない。西洋において、人と人の途方もない距離を神様が埋めたように、われわれにおいても、代弁する作品や集団や事象を挟んで、ようやく人と人がつながることができるほどに、われらの交流能力は衰えたのである。それを象徴するのが情報化であると私は考えない。むしろ、それは、教育そのものなのだと私は思う。現代の子供たちは、上手に孤立する方法を系統立てて学んで行くのである。われわれの祖先は、今しも尊重されているような自己表現能力や議論能力をほとんど必要とせず、互いに交流しあっていたのだ、と私は時々夢想する。われわれが、それらの必要性を声高に主張するのは、それらが必要なほどにわれわれが途方もなく孤立したからではないのか。文芸は、私には、交流の代価物に思えてならない。活版印刷機が発明された当時から、いきなり、文芸活動が活発化したことはあるまい。それが、必要になったとき、われわれのそばに偶然活版印刷機があったのである。そして、代価物として登場した文芸活動というものは、現代に至って、沈黙の墓場に入っている。それが代価物としての機能を全く果たさなくなったからではないか。すでに、おのおのがそれぞれ、個別的な文芸を必要とするほどに、われわれは孤立化したのであろう。すべてが、個人主義という結末によって、理解されてくる。ところが、この個人主義、「主義」と銘打っているが、どんな主義もそうであるように、特に個人主義がそうであるように、選択の余地はない。皆が孤立してあり、個人主義でない者が独りもいないときに、どうやって、それ以外の主義を発明できうるだろうか。われわれにとって、文芸活動は、既に、不十分なのである。われわれは、時々、やむにやまれぬ欲求を感じて、本や漫画やゲームの海にザブンと飛び込んで、長い時間の後ようやく顔を出すのであるが、読書活動がかつては交流の単なる手段であったことを考えてほしい。今では、それが交流の目的物、唯一の交流の相手となっているのである。奇妙に説教じみてきたが、私は、それ以外の方法を勧めるわけではない。というのは、われわれの肉体に交流として響くのは、既に、それしかないからである。昔の習慣や儀式を再現しても、決して、同じ実感は得られない。というのは、交流の実感は、深く肉体に刻まれていく歴史を必要とするからであり、われわれの持つ唯一の実感ある儀式は孤立した観念の海に飛び込むことだけなのである。ところが、それが、今、墓場に入りつつあることは明らかであるようだ。既に、その儀式は空々しくなってしまったのだ。とすると、文芸活動は、もう、墓場に入っているのである。その他の学問のことは知らないし、教養としての文学のことも知らない(ちなみに私は、教養としての文学はよくて自己矛盾、明瞭には自己欺瞞だと思う)。ただ、実感としての文芸活動は、既に、黄昏時期であるように思える。
 文芸誌の未来、私は、(名目上としても)ひとりの編集長として、強いてはひとりの本好きとして、時々夢想する。私は、かつて、SF雑誌が子供たちに果たしたような役割を持つ新しい本が現れないだろうか、と時々考えるのである。われわれは、本にジャンルをつけ、それに応じて、たくさんの作品を生産していくように心がけているが、それは、私には、一刻も早く文芸すべてを自殺に追いやりたい、という無意識的な願望に見える。悲しいかな、今の文筆家は夢見る孤立者に向けて文章を連ねることしか、出来えないであろう。恐らく、文芸の賞が、巷に溢れるほど、文芸が実感なき領域である証明になるだろうし、賞は、逆説的に、文芸から価値を剥ぎ取っていくであろう。ますます、孤立していくことだろう。いまや、サドですら、大衆文学に過ぎない。文学には既に衝撃がない。中学生の少女の本棚に「新ジュスティーヌ」が置かれ、ニーチェを読む少年が殺人を犯す時代だ、われわれは、そこに、文字そのものの肉体性が失われていく兆候を見出さざるを得ない。どれほど強烈な文字の連なりとて、われわれには、ほとんど、響くことがない。われわれは、いまや、新しい儀式を模索する、歴史の最も苦しい段階に位置しているように思える。文芸誌の歴史の存続は、その新しい儀式の中にどのように這い蹲って位置を占めることが出来えるか、という課題に最後がかかっていると思われる。私は、そう思うのである。私は、時々、このような胡散臭い考えが、実は本当であるのではないか、と悲観する。夢想であれば、いっとう、嬉しいことなのだが。
 
 雑誌『残照』の作品の、小さな断発する独りよがり的紹介の試み
 
   我が雑誌において、不思議なほどに互いの批評が飛び交わないのは、いかなる理由によるのだろうか。さまざまな嫌らしい推測は抜きにして、私は、面倒臭いからである、という理由を第一に挙げようと思う。そこで、折角エッセイを頼まれた縁だ、私が、いっちょ、少しずつ、有限個だけ片付けてやろうではないか(そして、今、私は、雑誌をぱらぱらめくっている)。
 創刊号における隠れた名作であるやなぎ氏による『いっせん』は、創刊当時の私には、一言の批評の言葉すら浮かばなかった。私は、今でも、優れていると思うし、感動するのだが、言葉に詰まってしまい、「好きだ」と一言で終えたくなってしまわざるを得ない。駄菓子屋のばあさんとの、子供時代の僕と六年ぶりに入った僕の比較、そして言うにやまれぬ郷愁が言葉すくなに語られており、私は「あのばあさんは亡くなったらしい」という文章において、私の実家の近所にあった駄菓子屋とばあさん、そして、やなぎ氏の優しい人柄を思い出さずにはおれない。やなぎ氏は、ふと以来駄菓子屋にぷっつりと行かなくなり、六年ぶりに訪ねたときにばあさんが「閑散とした」店内でかつての面影なく元気なく「小さなただのばあさん」になっているのを発見するわけであるが、わたしが幼稚なのかもしれないが、私は大学生になるまでずっと、その近くの駄菓子屋でお菓子を買い続けており、ばあさんと話すことを楽しみにしていた。また、そのばあさんは、私の地方の常として、店をやりながら農業も営んでおり、盗むなら盗め、というほどぶっきらぼうに店を放っておき、畑に精を出しているばあさんを呼び出すのを私は楽しみにしていた。小学生の頃、私は、学校や部活をサボってまで、友人とその駄菓子屋に集って無価値なシールを集めていたものだが、後々にはばあさんに対する親しみの気持ちが強くなり、適当にお菓子を選んでばあさんがそろばん勘定をしているあいだの会話を目的に訪ねていたと思う。大学を卒業し、久しぶりに行ってみると、『いっせん』のばあさんのように、私のばあさんも亡くなっていた。店は「雑貨屋」ではなく、一面の畑になっていた。私は、この話を読み返してみて、私には書けない作品であるが、私にも確かに理解できる作品だと思い、感動するのである。
 二巻の杜若氏の『気だるい日々の午後』は、氏の作品の中では一風変わった、かつ、処女作である。氏の作品においては、最後に誰かが誰かを殺すのであるが、この作品においては、途方もなく肉体的な描写がただ気だるい日々の午後を記述するためだけに使用されている。この作品に関しても、私は、一切批評をしたことがないし、当時は、出来ようもなかった。今も、それが好きなのだが、言葉に詰まりそうになって、私はポツンと立ちすくむ。この作品は、ジェシカというヒロインが、あらゆるものの被害者のような気がして、わがままに振舞っていくのであるが、最後に、子供との交流を通して、心の余裕を取り戻し、他の人の気持ちを考える力を得る非常に正統的な物語である。思えば、氏の作品においては、自分の欲望の思うままに振舞うことによって、悲劇的な結末に至る場合が多い。同号における『蜜月の塔』においては、完全に幸せな夫婦が、早くも新婚旅行において愛の絶頂に達し、男は妻の首を絞め、女は笑いながら死ぬという結末を経るのだが、これは、完全な愛は互いの死によってしか表現されえないという至って正統的なメッセージを伝えていると私には思えてならない。また、傑作の呼び声がある『取替えっ子』においては、子供の家族に対するわがままな欲望がピエロによってかなえられ、その結末は、家族惨殺に終わる。氏においては、欲望がかなえられたり、幸せになったりすることは、誰かの死に、極限的な不幸に結びつくのであり、私は共感して飽き足らない。ところが、この処女作においては、ジェシカのわがままな気持ちは、子供に癒されて、世界に対する感謝と愛の気持ちに打って変わる。私には、戦慄的な音がいまだ聞こえてくるような気がする。私は、主張したい。このジェシカの物語は、いまや、未完であるに違いなく、当の子供は、後にジェシカによって惨殺されることでしか、作品の中での善悪の秤がつりあわないのではないか、と。私は、誠実な氏の横顔を想像し、時々、今の氏の行っているだろう活動を想像する。私は、今まで黙っていたが、氏の人格が好きだったし、彼の作品を愛していることを、今ここで、言っておきたい。
 増刊号のロマンティカ氏の『幸せの踊り』は、彼の中では過小評価されているようだが、一番よく言及されることからも、最も核心的な中身なのだと私は思う。老執事とその妻の執拗なほどの愛し合いがそこには描かれているのだが、私は、要約的に、それを解釈しようと思う。彼ら夫婦の主人である王と女王は、私によれば、フロイトの言う超自我ではあるまいか。彼らは、自分たちが正しいことを主張するがために、王が無罪であることを証明した老執事に呪いをかけてしまう(説明しにくいので、是非、読んでほしい)。無罪であることを画したために呪いをかけられるのである。老執事は、恐らく、自我であろう。自我は、不合理な超自我に振り回されて、訳の分からない踊りを強制させられる。氏は、この頃、「仮面」とか「ナルキスト」といった問題を抱えており、私は、老執事の呪いの踊りは、演技性の自意識への過剰なこだわりのことだと思う。この執事は、自分を無条件に愛してくれる妻を持っていたが、確かに、氏も、自分を愛してくれる者に無条件性を期待してかかっていたと思う。結局妻は、老執事の永遠の呪いに耐え切れず、白骨化してしまい、それでも彼らは共に踊り続けるのだが、私には、これは、彼自身の愛が、白骨と踊ることにならざるを得ない、極めて純粋に過ぎるものであったことを、自分で暗示していたのではないか、と思われてならない。
 次に、私は、はじめて読んだ頃には、感想自体が不可能に思えた十七歳の詩人の詩、『日本国方程式』を、今、未知の領域に踏み入る覚悟で、論じてみたい(私の詩を読む力は、かえって、逆の意味にとってしまうほど未熟なものであり、その幼稚さをさらけ出すのには、今でも、勇気がいる)。短いので全文引用しよう。「我々日本人は皆自己中心的である 自己中心的な事は良いとも悪いとも言えないが 自己中心的に自由に生きることが出来るこの国で最低二つは 守らなければいけない事があるような気がした 一つ目は他人の生活を侵してはいけない事 二つ目は自分の言動に常に責任を持つ事 こんな事を考えてしまう今日この頃」私は、近頃、『甘えの構造』という本を読み、曲解して日本人は甘ったれた民族だという偏見を持つに至った。それこそ、自己中心的という言葉で彼女が伝えたかった意味ではあるまいか(そう、この詩人は、活発で行動的な少女である)。私は、寂しいほどプライベートを重んじる性格に生まれ付いており、他人に生活を侵された経験といっても僅かしかないが、いろいろな人と話すうちに私も日本人間の問題は、他人が自分の分を弁えずに誰かの領域をずかずか侵し、全く自分では責任を持たずに、他人事に口出ししてくることから発生するのだ、と思うに至った。私は、この詩が言いたいことは、そのようなことではないか、と思う。日本人は今でも沈黙の民、あるいは話さなくても理解する天性の才能を持つと言われてはいるが、このような詩が書かれ、私の経験も進み、いまや、そのような能力は少なくとも忘れられかけており、失われかけているのではないか、と考えるに至った。議論とあらばどんな議論でも中立の立場で出来ると思い込み、どこにでも口を出し、反感をかったらあいつらは感情的すぎると文句を言う人間が、確かに増えつつあることを私は感じている。彼らにとっては、いかなる場合も、旅の恥は掻き捨てであり、自分の領域にはきっと誰の侵入も許さないのであろう。しかし、私は、この詩を解釈しようと思ったが、自分の意見に停滞し、やはり、不可能であった。一番、分かりやすいのを、短いのを選んだのだが、私が反対の意味にとっていないかどうかは、神のみぞ知る。彼女の消息を私は知らないが、今ここで、寄稿してくれたことを深く感謝しようと思う。また、わざわざこちらにまでやってきてくれたのに、何も出来ずに、本当にすまなかったと思う。彼女は、誰もが認める、「何か今の時代を本当に表現している」詩人であったと思っているし、私は、彼女が詩作を続けていることを蔭で期待している。
 最後に、今に渡って、長々と寄稿してもらっている祥さんの『近頃の夢のはなし』について、私の思うところを書いてみたい。彼女もまた詩人であり、また、出版した著作もあると聞くが、私は、ただでさえ苦手な詩の読解に、著作を持つ作者の書いた詩という重みが加わり、耐えかねて、今にも、沈黙を選びそうである。だが、どんなに下手な読解でも、きっと、容赦してくれるだろうという「自己中心的な」甘えた気持ちをむき出しに、読んでみたいと思う。一読してみて、私にすぐに分かることは、少なくとも、私の今までの経験を超越した事柄であるということである。作者は、四十の独身女性であり、「週一位の割で出てくる」男性の同級生の夢に、(楽しみながら?)困惑している。その男性は、学生当時には、なんでもない男であり、作者には一体何ゆえに執拗にその男の夢を見るのかがさっぱり分からない。そこで、自分の恋愛感情をでっち上げようと試みたり、会いに行くことを考えたりするのである。私は、女性心理に疎いものだから、会いに行った後「夢でよく見たから」と説明するときの心理をうまく想像することが出来ず、私としても「笑って『何でやろうか』」と言ってしまいそうである。フロイト氏によると、とある夢に出てくる事柄を「くだらないものだ」とか「何でもないことだ」と説明することは、夢を見た人間に、その夢の潜在内容に対する「抵抗」があるからであるらしい。この詩だけでは、人間心理の通暁者でない私には、それ以上の解釈は出来そうもないが、その男性のことを「家庭持ち」であり、「立派な研究者」であり、嫁さんは「東北の造り酒屋のお嬢様」であり、恐らく、子供もいることだろうと説明していることから、いくらか邪推できることがあるだろうか。いや、フロイト氏によると、夢と当人の自由連想が組み合わさってこそ、夢の解釈が成り立つらしいから、それ以上は、本人の連想がさらに必要になることであろう。それに、フロイト流に解釈すると、解釈者も夢を見た者も気分を害する可能性がある。そこで、私自身が、夢を非常に重要視してきたものであるから、それについて、少し、語ってみよう。実は、私は、ある女性に対して、「あなたを昨日の夢で見たし、しばしば見ることがある」と言った事がある。ところが、その女性の反応こそ、「笑って『何でやろうか』」という種類のものであった。私の感情としては、運命的であるとか、性格的であるとかの一致点でないのが惜しいのだが、あなたと私には、夢を通じて、何やら不思議なかかわりがあることを指摘したかったのである。また、私は当時、自分が見た夢で見た人物がその夜見た夢は、同一であろう、という夢想を抱いており、それを確かめたい気分でもあったのだ。しかし、どちらも否定されてしまったようだ。どうやら、必要なのは、夢以外での心の一致らしい。それがあれば、夢での一致も着いてくると思われる。つまり、私の夢は単なる願望夢に過ぎなかったのだ(何の願望かは未だに分からないのだが)。
 以上、私は、勝手に気分的に抜粋し、感想を連ねてみた次第である。気分としては、攻撃的な批評を目論んでいたのだが、生来の優しさゆえか、あるいは技量の未熟さゆえか、結局、感想になってしまった。詩の感想に至っては途方もない混乱で終始したが、許されたい。気軽に楽しく感想が書け、それを論じた作品作者共々に感謝したい。誤解は、私の幼稚な知能を形作った教育にある。私のせいではない(「無知は罪だ」とは分かっているし、よく言われるのだが)。
 
 たったちょっとのことで
 
 きっと、人は誰しも、たった一つの言葉だけを求め望んで暮らしているのだと思う。どう見ても堅気でない人が、私の隣に腰掛けると、私の胸に緊張が走るが、その人が「おまえを殴っても得はしない」と一言言えば、ああそうなのか、と思って、渋い顔でがさつに振舞うその人の存在すべてを、私は許容してしまう。あるいは、(耳の形などの)たった一つしかない意地らしい性質のせいで、私は喜んで、わがままで高慢で浮気な婚約者のために、自分の一生涯を棒に振ることさえ辞さないし、その他の性質を以来ずっと簡単に我慢できるだろう。われら日本人は「自己中心的」ではあるのだろうが、たった一つの言葉や仕草で、すぐに、普通なら許せないほどの暴虐を、簡単に我慢してしまうことは疑いない。物分りがいい上司のためになら、私は、命を賭しても惜しくはない。我慢が我慢でなくなり、私は、その人のための苦労なら、いかに不合理で非生産的な苦労でも、喜んで背負ってしまうだろう。私は、日本人は、皆そうである、と思う。たった一つの恩義しかなく、それが大した恩義でなくても、日本人ならどんな性格悪い者にでも忠義を尽くさざるを得ない。また、その人が普通に振舞っただけで、感謝するほどであり、かえって、更なる恩義を蒙った気分にさえなることだろう。日本人の親なら、ただわが子だというだけの理由で、いかなるゴンタもかわいい。日本人は、自己中心的だが、たった一つの基点が与えられれば、すぐに、その人と自分との区別が付かなくなるのである。わずかであり、相手にすら気づかない理由によって、私は、相手を好きになる。そして、そのわずかな出来事のために、私は相手の人格すべてを誤解し、すべてを信じ、すべてを許容するだろう。孤独な私にさえ、そんなことがありふれてあるのだから、普通の人にとっては、ほとんど自明のことに違いない。その言葉が、「お疲れ様」であろうとも、「頑張った、よくやった」の類だろうとも、単なる沈黙であっても、私たちは相手の意図を超えてその言葉(あるいは行為)を解釈し、その言葉(あるいは行為)によって救われた気持ちとなる。その一つの言葉が言えず、相手のほのめかす許しの言葉も聞こえないようなA国主義には、われわれは無縁だ。  私は、エッセイを書くに当たって、そのような言葉が何とか書けはしないかと邪な気持ちで文章を練っていた。ところが、そんな言葉は、きっと、理屈でもなく、考えて放てるようなものでもなかろう。私は、残照を歪め、ありもしない論点で難詰し、思いもしない外れっぱなしの感想をひねり出し、自分の誠実さに関して、深い失望と落胆を覚えた。でも、そんなことを言っても、私の誠実さが直ることはなく、かえってひどくなるのが関の山であるし、誰かさんは「後ろめたい者ほどよく語る」と言うし、私は、そろそろ、沈黙することにしたい。
 最後に、結局、悩み続けるうちに、例によって例のように、私が一夜漬けで文章をやっつける羽目になったことを、深くお詫びしたい。文章とは、特に人に読ませる文章とは、そんな書き方で出来上がるはずがあるまい。つらつらとまだまだ弁解し続けたいのだが、量もそろそろ限界であろう。まだまだ、エッセイの議題は残っていたが、それらは、別の機会に。
 今、私は、すさまじく寒いし、すさまじく眠いし、すさまじく一人だ。また、すさまじく匂っているし、このままでは誰にも会えまい。この文章がコピーされる音を聞きながら、残照のことなどすっかり忘れ果てて、眠ろうと思う。
 
 「おお、人間よ! しかと聞け! 深い真夜中は何を語るか? 『わたしは眠りに眠り――、深い夢から、いま目が覚めた、――この世は深い、『昼』が考えたよりもさらに深い。…

岩波の『ツァラトゥストラ』より、「もう一度」の歌の冒頭。

▲ページトップへ

文芸同好会 残照