文芸同好会 残照

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残照TOP  [ ジャンル ] 随想   [ タイトル ] 緒田士郎の或阿呆の一生(1)

緒田士郎の或阿呆の一生(1)    緒田士郎

 |  幼少〜大学 |  洗礼〜現在 |

 私がこれから書こうとしている小説は他でもない自分自身H・Hに捧げるものであり、私が世に生きていたことを後世に残すために書くものである。私はこの作品の中で意図的に自己弁護することなく真実をありのままに書き残すつもりでいる。私は言わば私自身の遺書としてこれを書くのであり、これを書いた後、心臓麻痺か何かで自然死したいものと思っている。あなたは或いはこれを読んで思わず失笑されるかもしれない。しかし大いに笑いたまえ! 私の人生など所詮単なる放蕩息子の落伍者のそれであるに過ぎない。のみならず私は畢竟単なる余計なでくの棒に過ぎないのである。
 結局この作品は出版されないだろうし、同人誌のホームページを飾るだけかもしれない。しかし私は不思議と何の遺恨も後悔の念も持ってはいない。何故なら私はもう十分に人生を生きたからであり、後は肉体の死を前にして病的な神経の世界に住んでいるからである。
 それでは始めよう。以下は私の魂の記録である。私はこの小説の主人公を「彼」と呼ぶことにする。

1.幼少期から中学生まで

 彼は1966年6月7日午前0時20分種子島の西ノ表市東町33で生まれた。身長50センチメートル、体重2400グラムであった。これは霊的に言うと身長50センチメートルとは十分なものであり、2400グラムは善と真理のあらゆるものが備わった状態であった。これが彼は後世、自分が神的な聖霊の生まれであり、神の子であるという妄想を持つ根拠となった出生記録であった。ちなみに彼の誕生時刻による四柱推命によると、彼は丙午の年の甲午の月の丁の酉の日の庚の子の刻の生まれであって、いわゆる“時支一位偏官格”に該当するが、年柱と月柱が時柱と冲の関係にあり、凶暴な性格の生まれであった。そして月柱の天干の甲が印綬で、いわゆる“殺印化格”であった。そして月柱と時柱から割り出す運命の中心的舞台を表わす命宮は己亥壬で食神―正官であり、天乙貴人、天徳貴人と大吉星がきら星の如く並んでいた。この命宮が大吉であることが後の人生で彼を増長させる悪因縁となるものであることを一体誰が予想しえたであろうか?
 彼は種子島ですくすくと成長していった。そして2歳の時、当時流行していた“ブルー・シャトー”をテレビで聞いて覚え両親の前でその流行歌を淀みなく歌った。これには両親も非常に驚き、この子は天才だとはやしたてた。因みに彼の父は中学校の教師であった。彼は環境にも恵まれ、何不自由なく成長していったが、幼少後間もなく鹿児島県本土の指宿市に父親の転勤のために引っ越した。そして“やじがゆ”という地区の狭い市営住宅に住んだが、ここで彼は運命的な出会いをした。同い年の“るみ”ちゃんとの出会いであった。るみちゃんは早熟でまだ幼いのに文字の読み書きができ、彼はるみちゃんに本を読んでもらったりした。そしていつしかるみちゃんに淡い恋心を抱くようになっていった。幼児の初恋である。
 後に(28歳の時に)彼が発狂した時、彼は“るみ”ちゃんのことを旧約聖書の最後の預言者である“マラキ”に因んで、マラキと呼び、るみちゃんを強制的に犯す幻想を抱くことになった。そのことについてはずっと後で書こう。
 彼は実に楽しい幼児期を過ごした。毎日市営住宅に住む子供たちは親から十円玉をお小遣いとしてもらって近所の駄菓子屋で豆菓子やアイスクリームを買っては食べていた。
 しかしである。この幼児期に既に彼の邪悪な性格は露呈し始めていた。彼は台所の母親が小銭をしまってあった引き出しから十円玉をこっそりと盗み出していた。そしてくすねたお金が貯まると、自転車で繁華街に行って、メロンジュースをデパートで買って飲んでいた。彼の手癖の悪さは、後世の東京での放蕩生活に繋がるとは、彼自身も含めて誰が想像し得たであろうか?
 とにもかくにも彼は邪悪な性質を隠し持ちながらも、幸せな幼少時代を過ごした。
 そしてやがて幼稚園に入園した。柳和幼稚園という名の幼稚園だったが、彼はここでも小ずるくたちまわった。毎日母親が作ってくれた弁当は温熱器の中で温めてもらっていた。この頃毎日昼寝の時間があったが、彼は昼寝できなかった。じっとしていない落ち着かない性格の幼児だったからである。
 やがて6歳となって柳田小学校に入学した。彼は牛乳が嫌いだったので最小限の牛乳しか飲まなかった。よって彼は発育が悪く身長が伸びずクラスでは一番チビだった。はっきり覚えていることなのだが、彼の小学校入学当日の牛乳はコーヒーと砂糖を混ぜたコーヒー牛乳だった。彼はこれだけはおいしく飲むことができた。
 小学校1年で読み書きを教えられて国語の教科書を読んだ。“おはよう、おはよう、さあ行こう。みんないっしょにさあ行こう”という書き出しであったと彼は覚えている。そしてその国語の教科書で握りずしを食べる物語があった。彼は握りずしなど食べたことがなく、憧れの念を抱いてこの物語を読んだ。
 しかし小学校1年の時の極めつけは作文だった。彼は勉強は全くしなかったが作文だけはずば抜けて得意だった。そのクラス代表に文集のために選ばれた作文の冒頭は以下のようであった:“僕はまた新しい自転車を買ってもらった。ライダーゼットの自転車だった。”
 そしてやがてまた父の転勤でこの柳田小学校から転校することになった。“るみ”ちゃんとの淡い恋の終焉であった。
 彼一家は指宿で生まれた2人の妹とも連れて、鹿児島市の川上町に引っ越した。彼は川上小学校に2年生として入学し、竹藪を背にしたボロボロの一軒家に住むことになった。家はボロだったが、庭は非常に広くて、様々な植物が植えてあった。しかしこの植物には毛虫がうじゃうじゃおり実に気持ちの悪い思いをした。そして指宿時代の市営住宅では家に風呂がなく毎日温泉に通っていたのだが、この引っ越した家には自家風呂があった。しかし薪をくべて火で沸かす五右衛門風呂であり、あまり快適な風呂ではなかった。
 この川上小学校時代には家から小学校まで毎日2キロも歩いて通学した。毎日の通学が嫌だった彼は、一度だけ、仮病を親に遣って学校をずる休みしたこともあった。
 因みにこの川上小学校時代は半年で終わった。彼一家は隣の吉野町に、土地を買って家を新築した。たぶん彼の親も大分貯金もしていたからだろうと思われる。そしてこの家が今現在も住んでいる家であり、彼に将来相続されるだろう家であった。
 彼は2年生の中盤で吉野小学校に入学した。そしてこの小学校を卒業することになった。ここで特筆すべきことは彼が5年生の時に処女小説を書いたことである。「南極大陸探検記」というわずか原稿用紙25枚の短い冒険小説だったが、彼にしてみれば幼い人生を揺るがす大事件であった。その後も彼は似たような短編小説を書き続けた。そして「黒い魔術師」という推理小説も書いた。またこの頃、「青い鳥」という純文学小説も書き、これは後年、文芸同人誌「残照」に掲載されることになったのである。
 と、ここまで書いてきて、この小説の題名が「或阿呆の一生」なのに、これでは阿呆ではなくて賢明ではないかと疑る読者もいると思われるので、ここで表面的には活躍していた彼だが、その内実はどんな少年時代だったかをここに暴露したいと思う。彼はその心はあくまでも嘘つきの悪人であった。なぜなら彼は小学校6年の時、計算帳の答を算盤の計算の得意だった他の児童の答を盗み見てそれを欺いて書き写したことがあったのである。また成績表が1,2,3,4,5の5段階評価ではなくて、二重丸、丸、三角の三段階評価になった時に、ボールペンで丸を二重丸に書き換え、欺いた成績表を親に渡して親からすぐに発見されて「おまえは末恐ろしい」とこっぴどく叱られたのである。この他にも彼は人の物を平気で盗むような下劣な輩であったのである。
 そんな小学校時代を終えて(終えた彼はその春休みの時に盲腸の手術を受けたのであるが)、中学校に入学した私は人生で初めて一大決心をした。それはこれまではいかさまの勉強もしない彼だったが、中学校入学を機に真剣に勉強しようという決意であった。彼は本当に真面目に勉強した。定期テストの前には計画表を作ってその計画通りに試験勉強をした。最初はクラスでトップではなかったが、次第にクラスでトップになり、学年全体でもトップになったこともあった。そして勉強だけでなく、弁論大会でもクラス代表になり、一年生で生徒会副会長にもなった。その生徒会副会長の時に、市の生徒会代表の一員として沖縄に研修旅行に行った。20時間を超える船旅だった。沖縄ではでっかいステーキを食べたり各観光地を訪れた。
 また中学生時代には途中からチビなのにバスケットボール部に所属して、毎日汗を流して練習した。
 そして極めつけは中学3年生の時の育栄社の模擬試験だった。それは何度か過去にこの模擬試験を受けて良い成績を収められなかった彼は、この試験問題の出所を研究してそれが全国高校入試問題であることを突き止めたのである。彼は全国高校入試問題を夏休み中にほとんど全部解答した。その結果、3年生の最終模擬試験で数学100点、理科100点、社会科100点の5教科合計477点の市内第4位の成績を収めたのである。彼は当日数学の解答後100点であることを確信したので思わず性的興奮が最高潮に達して射精してしまうほどであった。
 こうして彼は中学校生活を終えて、市内でも最高峰の某公立高校に入学したのである。と、ここまで書いてきて読者の皆様はやっぱり彼は阿呆ではなくて賢明であると思われることであろうが、やはりここでも彼の内実は決して賢明ではなかったのである。彼は単なるエゴイストの自己愛人間であり、当時はまだ何らの宗教も信じておらず、単なるお先真っ暗の暴走人間だったのである。彼が無宗教だったのは彼の両親が無宗教だったためであるが、それにしても中学卒業時点では、普通の本は読みあさっても、彼は聖書だけは決して読まなかったのである。つまり彼は単なるエゴイストの無宗教者の阿呆であり、彼が阿呆であることは後の彼の悲惨極まる人生が証明しているのである。結論は彼は表向きは善人の成功者に見えても、その本音は無宗教の単なる俗物の阿呆だったのである。

2.高校・浪人・大学時代まで(栄光から没落へ)

 さて高校生活が始まったが、最初からつまずいた。定期試験の成績がいつもクラス4位なのである。上には女生徒3人が常にいて全く譲ろうとしなかった。学年全体の成績もいつも20〜30位の間で、小康状態が続いていた。
 中学生からデンマーク人の女性と英語で文通していた彼は将来は外交官になるのが夢であったので、担任の先生から東京大学に入りなさいと言われていた。外交官は東大出身者が圧倒的に多いからであった。しかし東大に入るにはもう少し成績を上げなければならないと思われた。それで彼は部活もしないで勉強専門で頑張っていたつもりだったのだが、どうしても上位の壁を突き破ることができなかった。
 ところが一年生の終わりの最後の試験で猛然と勉強した彼は遂に学年トップの成績を収めることができたのである。800点満点中710点の成績であった。
 しかしこれがかえって逆効果になってしまったのである。彼は真剣になって勉強することをやめてサボり始めた。そしてアメリカのポップス音楽に現を抜かすようになってしまった。人間何事も謙虚であることが大切であるのに、当時の彼にはつける薬がなくて、成績は下がるばかりであった。そして更に悪に拍車をかけることに読みもしないのに本ばかり借りて見えを張っていた。本借り出し数トップを気取っていっぱしの読書家であるかのように他を欺いていた。これだけでもはっきり分かりませんか、皆様?彼は単なる見栄っ張りの俗物に過ぎなかったのである。彼はどんどん堕落していった。結局それが彼の正体だったのである。
 高校も3年生になってみんな進路を真剣に考えて志望大学を決定するのだが、彼は成績は低迷しているにも拘わらず、第一志望は東大一本だった。みんな滑り止めとして私立大学を受けるのに、彼と来たら早稲田を馬鹿にしていた。そして当時流行していたアメリカのロック歌手プリンスの音楽に熱中してすっかり快楽主義にかぶれてしまっていた。
 その年の文化祭では彼のクラスは演劇の出し物で世界的ブームになっていたマイケル・ジャクソンのスリラーをみんなで演じたのである。彼はマイケル・ジャクソンを演じた。
 そんなこんなで年が変わって大学受験シーズンが始まった。彼は東大の過去問もいい加減にしか研究しないのに、東大を受けた。大体当時実施されていた共通一次試験の成績が一次足切りぎりぎりだった。忘れもしない東大受験旅行の時、成績優秀で東大文三一発合格を狙っていた同じクラスの友達M・H君と夜中まで話し込んでいた彼は、「もし睡眠不足で俺が落ちたらおまえのせいだぞ!」と脅された。しかし彼は結果として東大文三に一発合格したのである。
 東大合格発表当日、母親と二人で東大の赤門をくぐった彼は、怖くて合格掲示板を見ることができず、母親が代わりに見に行った。「お兄ちゃん、番号がない」―母の悲痛な声音に頭が真っ白になった。彼はここから没落の人生を歩み始めたのである。
 東大不合格後、駿台予備校の国立大学東大コースに入学した彼は、東京での浪人生活を始めた。JR下総中山駅で降りて近くにある駿台寮に入った彼はその初めの頃こそ真面目に勉強しているかに思われたが、やはり勉強をサボり始めた。寮の同室に住んでいたT・O君と仲が良くなかった彼は、やがて中山寮を出て、慶応大学の近くの日吉台学生ハイツに引っ越した。これが更なる堕落の引き金となった。彼は慶応大学の仏教のサークルに参加して新潟まで高速バスに乗って行った。そして新潟の寺で念仏を唱えたがただそれだけのことだった。この頃だったと思うが、彼はある宗教の勧誘に引っ掛かりかけた。それは韓国の統一神霊教会だった。変なヴィデオを見せられマインドコントロールされそうになった彼はこの宗教が単なるインチキであることを本能的に一発で見抜いた。そして彼らを罵倒してこの難を逃れた。
 またこの当時鹿児島の親から仕送りもあるのに彼は日吉台で新聞配達の仕事を始めた。駿台予備校もろくに通わないで受験勉強もほとんどそっちのけであった。しかもその新聞配達の仕事もいい加減にしかしないですぐに辞めてしまった。
 ところでこの当時、彼は一つだけ楽しみを見出した。それは駿台の中山寮仲間の友達であった広島出身の東京女子大の女学生S・Oさんとの交際だった。彼は彼女にひと目ぼれした。そして何度もデートに誘って、すっぽかされ、それでも結局彼女は彼と夜の渋谷でデートしてくれた。その時彼女は当時流行っていた映画「アマデウス」を見ようと言ったのだが、彼は「いやロッキーにしよう」と言い張った。結局ロッキーを見た二人は、その甘いラヴストーリーに感激して、夜の原宿の街を彼女の女子寮まで、歩いてデートした。しかしその別れ際がまずかった。彼は本当は彼女を誘惑できたのに、単に握手をしただけで、そのまま帰ってしまった。その結果、彼女から手紙が来て、「男女の一線を越えることができない」と別れの言葉を食らってしまった。
 これはほんのちょっとしたしかし大事な余談であるが、中山寮で男性器の皮をむくことをみんなでした彼だったが、剥いた皮が戻らなくなってしまい、亀頭に血液が流れなくなり青くなったので、近くの泌尿器科に慌てて駆け込んだところ、真性包茎と診断され包茎手術を受けた。これは彼に衝撃を与えた。生まれつきの真性包茎だったことが初めて露呈したからである。つまり彼は生まれつきセックスできない男性器を持っていたということだった。
 先を急ごう。一浪の結果、彼は再び東大に落ちて、早稲田も全敗してしまった。彼の学力は勉強不足で底をついていたのである。しかし、東京で私は姓名判断をしてもらい、占いの知識を学び始めた。早稲田は一文東洋哲学科出身の野末陳平の姓名判断にはまり込み更に四柱推命の研究も始めた。彼が東京で得た価値あるものはこの占いの研究であった。彼は何度も改名した。いつも総画数23画ばかりを好んで命名していたが、最終的には独立独行運である総画数37画の現在のペンネーム緒田士郎に落ち着いた。また内画法という中身の画数を調べる独特な姓名判断を研究した。
 しかし占いがいったい何であろう?私は二浪目に入ってしまった。鹿児島に帰郷して地元の予備校に通い、もう東大はあきらめて分相応の大学にするしかなかった。彼は二浪目で早稲田大学の第一文学部に何とか合格した。
 しかしまたもやしかしである。彼は合格しただけで入学式に出ただけで、大学には一切行かず、警備員のアルバイトに没頭した。親からの仕送りもあり早稲田を卒業しさえすれば就職の道はいくらでもあるのに、それでも彼は警備員に没頭した。この辺から彼の阿呆人生は本格的に始まり出したのである。浪人生活も十分に阿呆生活だったが、早稲田時代のこのアルバイトのみの生活は更に拍車をかけて非常な阿呆生活であった。彼は親からの仕送りプラスアルバイト代で非常に金回りのいい豪奢な東京生活を送った。真面目に早稲田で勉強して正式な就職をすることを何とも思っていなかった。大枚を持って新宿は歌舞伎町で朝まで飲みまわって放蕩生活の限りを尽くしていた。
 ところがその警備員としての生活も暗礁に乗り上げてしまった。ほとんど彼には仕事が来なくなってしまったのである。その当時、鹿児島の妹が上京して女子大に通い、彼と同居生活を送っていたのであるが、彼は銭湯で「ホスト募集」という広告を見て、女性相手のホストだろうと思って、妹から交通費だけをもらい、このホスト広告の住所まで出かけたのである。そして「カレッジの王様」という看板の店をくぐると何とそこに見たものは居並ぶ紅顔の美青年たちであった。そうである。それは女相手のホストではなく男性客相手のホモのホストだったのである。いわゆる新宿二丁目であった。彼は所持金もなくてどこにも行くあてがなかったので、仕方なしに住み込みで男相手のホストの仕事を始めた。それは地獄の毎日だった。彼は客からいわゆる肛門セックスを強要された。不潔極まるこの肛門セックスは、彼の阿呆人生の頂点に位置するものだった。彼はある日、指名してくれた客とホテルに泊まったが、その客が寝ている隙に、客の財布からおよそ13万円を盗みとった。そして歌舞伎町に繰り出して豪遊した。本当なら窃盗罪なのだろうが、元々客の目的も不合理な男色であることから、店にはクレームがつかなかった。
 彼のホモホスト生活は3カ月続いた。それは妹の住むアパートからの失踪生活であった。そして先にホスト店をやめて外国娼婦売春の仕事をしていたH・Mから彼に連絡が来た。ホストをやめてそこで仕事をしないか、という言葉だった。彼は渡りに船ですぐに店を辞めて、H・Mの仕事場に行った。そして毎日売春婦宅配のピンク・ビラを都内で配って回った。しかし、ピンク・ビラを配っているところを警官から呼び止められ、彼の早稲田の学生証から失踪中の当人であることが露呈して、彼は妹の待つアパートまで搬送されることになった。しかし、それと相前後して、彼はピンク・ビラ配りの仕事の最終日に、エステーラというエクアドルの娼婦を与えられた。彼らは、まるで新婚初夜のような甘いセックスに溺れた。そして社長からもらった給料を握ってかりそめの新婚旅行に繰り出した。
 そして結局彼は警察からパトカーで妹の住むアパートまで送ってもらった。およそ3カ月の失踪生活の終りであった。
 それから親との真剣な話し合いで大学に戻ることになった。彼はサビ切った頭で、大学での勉強を再開し始めた。特に中国語の勉強は苦しかった。なかなか中国語を理解することができなかった。そして東洋哲学科で仏教と神道という東洋哲学を学び始めた。元々彼が早稲田の一文に入学した動機は野末陳平氏の姓名判断のためだったが、もちろん占いの教科など一切あるはずもなく、楽しくない大学生活を送っていたが、彼は警備員やホストに加えて、社会部の新聞記者という職業も前歴として持っていた。
 しかし、そんな精彩のなかった彼に人生一度きりの大事件が起こった。聖書を23歳ぐらいから読み始め悔い改めの生活を送っていた彼だったが、死後の世界の研究も始めた。丹波哲郎の霊界物を読み始めたのだ。そしてその中にエマニュエル・スウェーデンボルグという異色の人物による霊界の記事を読んで、これはいったい何だろうか?と彼なりに不思議な好奇心に駆られた。そしてそんな霊界研究中の彼は早稲田の古本屋を物色していた。するとある古本屋で足がとまって、本棚を見上げるとそこに彼は見つけたのである!!!。「天界と地獄」エマニュエル・スウェーデンボルグと。彼は歓喜してその本を買って、むさぼるようにして一挙にその本を読み切った。彼は叫んだ。これは真理だ!。
 こうしてスウェーデンボルグと出会った彼はその出版社静思社を訪れ、以後スウェーデンボルグの28巻ある天界の秘義を熟読した。しかしまだその当時、霊界日記と黙示録講解は一部しか拾い読みせず、全巻を読むことはなかった。この中途半端な姿勢が後の精神病(統合失調症)発病の布石となることをその時の彼は予想だにしなかった。
 そのスウェーデンボルグに出会ったのは26歳の時であったが、その神秘主義キリスト教にかぶれた彼は早稲田で毎日仏教批判を授業中に繰り返し、遂には早稲田を中退することになったのである。ここだけがスウェーデンボルグだけが彼の阿呆人生の中で唯一真珠の宝石だったのである。

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