文芸同好会 残照

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『残照』その成り立ち    Will Being

文芸同好会の設立


 文芸誌『残照』は平成11年5月7日に創刊を迎えた(と、創刊号のあとがきに記されている)。
 いまその創刊号を手にしながら、この文章を書いている。中身はというと、11作品が薄っぺらの小冊子の中に、拙いながらも元気にひしめき合っていると言った感じだ。おそらく、この冊子が編集・製本され、各自に配られ、その後数人の教授に進呈されたあと、どんぐり横丁にでも繰り出して、酒盛りに明け暮れたに違いない。とにかく初の出版(極めて内々ではあるが)に舞い上がり、夜が更けても文学談義をぶっ続けたのだろう。もうあまり記憶にないが。
 とにかく、文芸誌『残照』は、平成11年5月7日、鹿児島で産声をあげた。しかし、これにいたる道のりは、決して平坦ではなかった。
      *  *  *  *  *
 平成10年の春、ちょうど創刊の1年前だ、2人の男が鹿児島大学講義棟2階のバルコニーに小さな床机をならべ、ぼんやりと下を眺めていた。当誌寄稿家の斜窓氏とスペイン亭降面戸氏である。その日は大学のサークル勧誘週間の初日だった。階下から、新入生たちに声をかける先輩学生たちの賑やかなざわめきが聞こえる。2人はだるそうに床机に掛けたまま、誰かが貼り紙を見てやってくるのを待っていた。
 この2人が、文芸同好会を設立したのはその10日ほど前のことだった。
 2人の在籍する大学には、10年来文芸サークルはないらしかった。とある教授の言によると「大学における文学の文化は当の昔に消失した」ということだった。そんな大学で、本当に人は集まるのか、2人の頭は不安でいっぱいだった。しかも、部の運営や、文芸好きが集まって一体何をするのか等、疑問は山積だった。二人はバルコニーの床机に掛けたまま、部は立ち上げたものの、一体何から初めてよいのか検討もつかずにいた。ただ、いつの日か、同人誌を出そうとだけ思っていた。
 しかし彼らは、来る日も来る日もバルコニーで待ち続けた。この2人にしても、思いつきで旗揚げしたわけではない。彼らはこの日を向かえるために、その一年前から互いに書いては読ませあい、読ませては批判し合う日々を送ってきた。また、どんなジャンルにも挑戦し、純文学ばかりでなく、SF、ファンタジー、コメディー、エッセーなどにも取り組んだ。そもそも2人は大学入学以前から、「一緒に文芸部を作ろう」と約束する仲だったのである。そう簡単に諦めるわけにはいかなかった。
 やがて、勧誘週間が終わった。最終的には以前からの友人にも声をかけて定員を補充し、10名ばかりの集団になった。その中には、修辞に富む名文家、杜若(かきつばた)氏といった、現在でも在籍する人物がいた。また、新規に入った人物は3人。が、実際、集会にやってきたのは、うち1人。それが現在まで会長を務める水原氏だった。
 こうしてメンバーを揃えた残照は、次の段階へと進む……。
 
 ……とまあ、「文芸同好会の設立」について、小説風の味付けで紹介してみた。何分当時のことはあまり記憶にないし、第一、特別に細かいことなど何もなかった。こういう書き方でもしなくては、うまく説明できない。
 どんな文化の歴史もはじまりは神話だし、ということはつまり小説みたいなものだ。
 
当時の『残照』の機構体系
 
 こうして文芸同好会は誕生したわけだが、ここで設立当初の文芸同好会の2つの意外な点、例えて言うところの「残照トリビア」を紹介しよう。
  @『残照』は結成以来一年間、活動らしい活動はしていなかった。
  A『残照』は結成当時、会費500円を徴収していた。
 別に「へえ」というような事でもないが、設立当初の文芸同好会の機構に触れるにあたり、上げてみた。それぞれについて、解説してみたい。
 
  @『残照』は結成以来一年間、活動らしい活動はしていなかった。
 文芸同好会は当初、先の章で述べた通り、身内仲間で固めたサークルだった。だから必ずしも「文芸好き」が集まっていたというわけではなかった。当時の同好会は、執行役員に水原・斜窓・スペイン亭が並び、会長(当時は「主宰」といっていたが、定着せず)はスペイン亭が務めていた。会は毎週水曜日か金曜日の5時ごろで(毎回不確かだった)、部室がないので大学の食堂を溜まり場としていた(創刊以降、学生会館なるサークル棟のロビーに移る。結局最後まで部室はなかった)。しかし、集まっても特にすることもない。だらだらだべって、バイトまでの時間潰しの意味しかなくなり、バイトをしていない連中にとっては、単なる無為の時間帯だった。
 このままではいけない。とにかく文芸部なのだから、文芸活動をしなくては。ただの飲み系サークルにも劣る。執行役員は危惧した。そこで、全員が何某かの作品を持ち寄り、互いに見せ合うということになった。これは定期的ではなかったが、持ち寄る時には強制であった。みな、ワープロなり原稿用紙なりに、書いた物を持ち寄った。そういう中で、ある種の淘汰が起こったのも事実である。つまり、結成当初よりは「文芸好き」の陣容に絞られた。書き続ける者は、次第に質量とも増していった。多くの書物に触れ、文体を模索し、身に馴染ませた。こうして1年、互いの批判を糧にある程度の成長を経た部員たちは、ようやく同人誌の製作に入っていった。つまり、雌伏の時を過ごしていた、というわけである。
 
  A『残照』は結成当時、会費500円を徴収していた。
 当初、文芸同好会には「他人の集まりである」という緊張があり、設立当初のスペイン亭・斜窓の理想とする「サロン」とは程遠かった。今、回顧するに、それは無理もないことだった。なぜなら当時2人の抱いていた「サロン」とは、当時の若者学生にそぐわぬ「デカダン」だったからである。集まった連中は2人の友人が大多数とはいえ、連中同士の中では初めてな人間もあり、初対面の間柄で、デカダンによって満足感を抱く関係を築くのは、土台不可能だったのである。
 そんなわけで、同好会はただダラダラだべるにも話題すらなく、お互いを関心の対象とするには何かをし続ける必要があった(とは言っても飲み会くらいしかないのだが)。それには資金が必要だった。また、結成当初から「いつかは同人誌を」という思いが強かったので、資金を積み立てておく必要があった。こうして文芸同好会は、毎月ひとり500円の会費制を採用したのだった。
 しかし、この企画、集まった金で何をしたという記憶もない。それに、うやむやになってすぐに廃止になってしまった。実際、創刊号の製作から第8巻までの制作費は、きっぷのいい奴が払う(基本的には割勘だが)という風潮で進んできた。つまりその頃にはある程度当初の理想である「サロン」が出来上がっていたということなのかもしれない。「デカダン」というより、ただ「ルーズ」なだけなのかもしれないが。
 
多派参入と「残照」人員過多の時代
 
 「残照」が創刊号を完成させた頃のこと、とある近代文学の教授は、こういった。
 「過去、幾多の文芸同人会が日本中で誕生したが、その多くは、機関紙を2冊ほど出した後、うやむやになり消滅していった」
 なぜこのように、文芸同人が続かないのか考えてみるに、いくつかの理由を想像することができる。一つ「小説は、同人でやるうちには自己満足の範疇であり、別に集まらなくても独りでできる」、二つ「社会に出ていれば、仕事が忙しくてそれどころじゃない」、三つ「文学好きは偏った価値観の人間が多く、彼らが集まって話し合いをしても、何も決まらない」等など......。
 ところが「残照」は、増刊を含め、現在までに9冊も上梓しているのである。社会に出たあとにも2冊出している。これは一体どういうことなのか。
 現会長・水原 友行氏は、「残照8・『残照』雑考」で、「残照」がコンスタントに発行されていた当時を回顧し、こう語っている。
 
 ――私は、残照が以来五冊(当時)もの雑誌を上梓できたことは、残照の中に多様な分派が生まれたおかげだと考えている。集団が分裂によって胡散無償するときには、結局、その分裂自体を集団の構成要素にすることによって、難を逃れるのは、精神病者の自我でも集団の自我でも同じだと思う。この時期に、甲南学派はその姿を消し、残照の外的自己といえる残照画廊派が成立し、あるいは、個々のメンバーにおいて、「友人過多」による集団への不信感から高踏主義が試みられた――
 
 つまり、文芸同好会は分裂をアイデンティティとする団体になれたため、存続が可能となった、ということを氏は述べているわけだが、私はこの意見に同意しつつも、「常に新しい風が吹き込み、吹き抜けていった」という軟らかい表現で当時を回顧したい。
 
 甲南学派とは、文芸同好会を設立したスペイン亭・斜窓・7号まで前書きを提供した猿鳥敢人、その他彼らの旧来の知己のことである。彼らは当初、会を「羅針盤」という名に据えたが、大学自治会の機関紙名が同一だったため、「残照」と改めた。すでにこの妥協を許した時点で、甲南学派は気分的に併呑され、全体の一部と成り下がった。それに伴い、甲南学派の部員たちの多くは、自然消滅していった。これが最初の「吹き抜けた風」である。
 その後は「新たな風」が次々と吹き込む。
 杜若氏の開拓したルートからは「画廊派」が流入した。「画廊派」とは、市中のとある画廊のお抱え絵師たちのことである。「残照」に表紙絵やカットを寄稿したり、新しい人脈を提供してくれたりした。中には詩を寄稿する者もあった。「残照」は彼らとつながることにより、学内サークルの枠を超え、一般の同人集団となった。
 水原氏の引用にはなかったが、「聖E派」と呼ばれる緒田士郎率いる一派も登場した。彼らは強烈なインパクトで「残照」に接近し、スペイン亭・斜窓以外の甲南学派の残党を一掃した。また、既存の「残照」部員の中に、親「聖E派」と「バルコニー派(「聖E派」と距離を置く)」を生みだした。
 この他にも、個々の参入があった。「ボディビル講座」の執筆者ニッキー・トミー、斜窓氏と旧来のつながりのある他県の詩人ルリオ、「残照」が学内で募集した新入生、耳心・ハナの2人、風来坊らである。
 こうして「残照」は、その在籍数が40人超となり、互いに顔を見たこともないというくらい膨れ上がった。水原氏はこの状態を皮肉り、「人員過多」と呼んだ。できあがる同人誌の紙面は詩と小説であふれ、「画廊派」の挿絵が華を沿えた。「残照」の名で催される宴会は常に予約を要する人数となり、学祭における二度の「ゲリラ出店」では二度とも完売の成績を収めた。「残照」は黄金時代を迎えていた。
 ところが、華やかな「残照」の隆盛とは裏腹に、「残照」執行部の数名は、ごった返す部員のだべりを嫌い、個々で行動するようになりはじめた。大勢で賑やかにやるよりも、自室なり図書館なり海辺なりで、独り小説のネタを考えているほうが有意義だと気づいたのだ。または、他者に対する不信感から軽蔑が生まれていたのかもしれない。これが水原氏のいう「高踏主義」である。
 部を設立して2年、念願だった同人誌も数冊出し、目的を遂げた「残照」は、設立メンバーにとって、その存在理由を失いかけていた時期だった。
 
「残照」とは何か?......「残照学」のはじまり
 
 高踏主義が横行する間、「残照」がどういう状態だったのか、私もよく知らない。というのは、私自身が高踏主義者の一人として、集団から距離をおいていたからである。おそらく、集団はただのだべり集団となり、無為の時を送り続けていたのだと思う。
 さて、数ヶ月を経た後、高踏主義者たちが「残照」のたまり場に戻ってくると、かつて常に10数名がたむろしていた空間には、ほんの2.3名がいるだけで、閑散とした空気が漂っていた。高踏主義者たちはこの変化を心ひそかに喜んだ。なぜなら彼らは、残った数名の顔から、単に賑やかさを追求する連中だけが、ろ過され、消えているのを察知したからである。こうして「残照」は、それと気づかれぬまま、短い黄金期を終えた。
 「残照」は設立から早3年、メンバーもすでに大学4年をむかえていた。
 彼らは大学生活を振り返ると共に、「残照とは何だったのか」ということを、仲間内で問うようになってきた。この風潮は、各々が社会に出るなり、留年するなりして、人生のコマを一つ前に進めるにあたり、さらに顕著になった。なぜなら、「残照」メンバーは、卒業後、ひとりとしてまっとうな人生行路を歩んでいなかったからである。自分たちのうまくゆかぬ根拠を、「残照」を通して知ろうとしたのだ。
 こうして「残照学」が生まれた。
 そもそも「残照学」は、会長・水原と佐々波との間で、「『残照的』という形容詞はどういう意味を持つか」、という会話がなされたのが、発端であると言われている。この時、両名の間で一致した答えは、「家族的」……必然的なつながりでありながら、そこに重大な根拠というものはない、つまり、もはや「くされ縁」といっていい段階にまで発展して(堕ちこんで)いるというものだった。しかし、これは状況を分かりやすく伝えるだけの、いわば解釈としての謂いにすぎず、「残照的」という言葉の全貌に迫っているとは言い難かった。
 この後、「残照学」は部員それぞれの立場でいろいろな形に語られていった。
 杜若氏は、個々の部員の性格を検討し、各部員の根底にあるコンプレックスが、似た者同士集まることによってますます自己に根付き、各々の社会性を閉鎖的にしているとした。また、佐々波氏は、残照部員の多くに見られる周囲に対する無関心さから虚無を指摘し、さらに杜若氏のコンプレックス論をとりこんで、「残照的」という形容詞に「ひらきなおり」という意味を据えた。
 このように「残照学」が部員たちの間で盛んになる中、平成14年11月、文芸同好会は「残照」第8巻を完成させた。会長・水原はこの巻頭エッセーで「『残照』雑考」を発表し、史上初めてとなる「残照」の客観的かつ繊細な解釈を行い、現段階の「残照学」にピリオドを打った(その詳細は、第8巻「『残照』雑考」で確認していただきたい)。
 「残照学」はこれ以降、かつてほど人口に膾炙しなくなる。「Mr.残照」と呼ばれる会長・水原氏の洞察力が、部員たちの心に大きな納得を与えたからであることは、言うまでもない。
 
「文芸の火は消えず・・・」残照サイト立ち上げと新同人「sora」の誕生

 文芸同好会のメンバーは、あるものは就職し、あるものは故郷に帰り、一時期その活動を交流のみに特化し、文芸活動を終息させた。とはいえ、個々の精神の内面には、つねに創作や思索への強い執着があったようだ。Will Beingが職業訓練で習得したHTMLで、文芸同好会「残照」が過去に上梓した作品をインターネット上で公開(2004.10.23)したことに端を発し、再び活動を開始したのである。これにより、メンバーは距離や時間を超え、作品を互いに閲覧することが可能となった。また、純文学小説サイト「猫草」のオーナー・猫ん氏など、新たな同好の士とも出会うことができた。2004年のリニューアル時に展開された「リレー小説」は、これまでにない残照の在り方を一瞬ながら垣間見ることができた、第2の黄金期といえよう。その結果、大手検索サイト「google」において、抽象単語「文芸同好会」でのI'm feeling lucky(最上位)を実現するにいたった(2008年現在)。
 また、2006年には会長水原友行とWill Beingが会談し、会員拡大キャンペーン「枠なんか捨てちゃエ」を始動。残照発祥の地・鹿児島大学にB3サイズのポスターを複数枚掲示した。この結果、鹿児島大学内から2名の応募が浮上。相談の末、大学生サークル「鹿児島大学文芸同好会『sora』」が、新たな文芸同人としてスタートした。鹿児島大学の文芸は1998年に約10年ぶりに復古し、残照メンバー卒業の2002年、一旦は消滅したかと思われたが、かくして火種は受け継がれた(現在「sora」は独立した文芸同人として活動を続けている)。
 こうして残照は、設立から10年を迎える2008年、第3回目のホームページリニューアルを迎えた。

残照9号上梓と新たな展開への模索
 
  2008年10月、残照は実に6年ぶりとなる同人誌「残照9」の発刊を実現した。「10年目・10冊目(増刊号を含む)」を記念し、装丁を実際に印刷業者に委託するという大盤振舞で、全176ページという圧巻となった。
 巻頭では同人対談「ルーマニアの憂鬱」が復活。水原会長、Will Beingという創立以来のメンバーに加え、純文学サイト「猫草」オーナー猫ん氏が登場。旧来メンバーが社会生活において文芸感覚を鈍磨させていたところに新たな感覚が交わったことで、残照はいまいちどかつての活気をとり戻した。
 残照は制作した同人誌を用いた活動として、当誌を鹿児島県立・市立図書館の蔵書に寄贈。まったく問題なく受け取っていただいた。気を良くした残照は、残った雑誌を大手出版社「角川パブリッシング」「文藝春秋社」「講談社」など数社に挨拶状付きで送付。いまのところ、いずれの出版社からも音沙汰はない。
 このように2008年から2009年初頭にかけて、残照は同人誌を中心とした活動をおこなった。
 同人誌事業にあたり、ひさかたぶりに連絡をとりあった仲間が幾人かあった。制作打ち上げ兼忘年会には鹿児島大学文芸同好会「sora」からも同志の参加をいただいた。その集まりでは残照をNPO法人化しようかといった話が出たりもした。残照はこの熱気をそのままにあらたなステージへ駆け上がるかと思いきや、相変わらずの停滞状態へ戻っていった。無理もないことで、残照メンバーはそれぞれ、進学・就職・資格取得など多忙を極めていた。ほとんどの人間が三十路にさしかかっていた。一般の人間であれば、大学時代のサークルのことなど忘れかけている年齢である。むしろこの年で同人誌を仕上げられたことの方が奇異であるといって過言ではない。

 残照は再び静かになった。
 そうしている間に、残照WEBサイトのアップロード先のプロバイダが、サーバ機能の一部をカットしたため、掲示板および司書機能が使用できなくなった。これにより残照のコミュニケーションはますます狭まってしまうことになった。
 久方ぶりの同人誌上梓の夢を叶えてとりあえずやることを失った残照は、活動の熱量を失わないために別の方向性を模索する必要が生じた。2010年7月、残照のWill Beingと杜若が別のペンネームで小説の代筆を専業とするゴーストライティング事業を開始。これは当初残照とは全く関係のない動きであったが、その後、残照の中でも小説を専門とする水原・斜窓、そして猫んが加わり、事業を推進。残照とは異なる活動とはいえ所属メンバーのほとんどが参加する形となり、文芸を稼業とする新たな動きが活発化した。
 そして2011年12月、残照WEBサイトで停止していた司書機能と掲示板が復旧。残照は再燃の準備を整えた。
 
      *  *  *  *  * 
 
<後記> 
 
 以上、設立から現在にいたるまでの「残照」の歴史・イデオロギーをつらつらと述べてみた。綴れば綴るほど様々なことが思い出され、いくら紙(html?)があっても足りないくらいだ。こんな小さな同人集団でも、10年以上続くと何らかの歴史が生まれるものなのだなと関心させられる。
 さて、「残照」はこれからどうなってゆくのだろう? みな社会に出て、いろいろと忙しいにも拘らず、失われることなく続けられているということは、「残照」が冷たい意味で「家庭的」と言われながらも、やはりファミリーなのだと実感され、無性に嬉しい。このサークルをつくって本当に良かったと思う。みなさん、ありがとう。こころより感謝します。
 
 「『残照』とは」 は、これで一先ず文章を終える。これから先、当文芸同好会で何か面白い事件・際立った思想が生まれたりした場合、また続きを書くとしよう。
 「残照」に参加する全員が、素晴らしい人生と、意義ある文芸生活をおくられんことを祈念する。

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