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残照TOP  [ ジャンル ] 小説   [ タイトル ] 霊界通信(2)

霊界通信    緒田士郎

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第十一日
 十一日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストはウルフギャング・アマデウス・モーツアルトである。
 昨日は積雪のため、会社(ラグーナ出版)は休みだったが、今外に出てみると路面は残雪で凍結している。今日はバスが走行する予定らしいので、会社は出勤するかもしれない。
 しかし、問題は水道である。昨日の昼から、極寒と積雪による水道管破裂のため、水道の栓を止めているため、水道水が使えない。仕方がないので外で小便をして、コーヒーを作るための水はペットボトルのミネラルウォーターを代わりに使用した。台風の時の停電もそうだったが、自然災害というものは非常に不便で厄介であると思わざるを得ない。くりごとばかりを言っていても仕方がないので、もう始めることにする。今日のゲスト・モーツアルトが口を開いた。
「こんばんは、緒田士郎さん、僕はモーツアルトです。僕は「天の呼び声」第16日で述べたように、第1の天界の天使です。そして今でも作曲家をやっております。そして今日は僕の世での経歴については述べません。そして僕は世では35歳という若さで死んだため、また僕は3歳で既に楽器を弾き始め、5歳のときにはもう処女作を作曲していたので、今日はこれから後に天界の小さな子供たちについて話そうと思っています。そして僕の世での生活について一言述べることをお許しください。僕は子供の時から父と共にヨーロッパ中を旅行してまわり音楽活動をし、オーストリア人だったため、神聖ローマ帝国の宮廷音楽家をやっていましたが、僕の生活は収入も少なく、苦しいものでした。僕は26歳で結婚しましたが、子供を6人作って、4人は夭折してしまい2人しか成人しませんでした。僕の略歴についてはこれでやめることにします。」
 私・緒田士郎はモーツアルト自身が言っているように今日は天界の小さな子供たちについて彼に語ってもらおうと思う。それでは彼に語ってもらおう。
「教会の内に生まれた子供たちのみが天界に入りますが、教会の外に生まれた者たちは天界には入らないと或る者から信じられています、なぜなら教会の子供たちは洗礼を受け、洗礼により教会の信仰へ入れられると、彼らは言っているからです。彼らは何人も洗礼によっては天界も信仰も得ないことを知りません、なぜなら人間は再生しなくてはならず、教会には聖書があって、その聖書の中には神的真理があり、その真理により再生が行われ、またそこに主イエス・キリストが知られていて、主から再生が行われるということのしるし、また記念が洗礼であるからです。すなわち、子供は全て教会の内であれ、外であれ、何処に生まれようと、敬虔な両親から生まれようと、不敬虔な両親から生まれようと、死ぬと、主により受け入れられて、天界で教育され、神の秩序に応じて教えられ、善に対する情愛にひたされ、そのことを通して真理の知識にもひたされ、その後理知と知恵が完全になるに応じて、天界へ入れられ天使となるのです。誰でも理性から考えるなら、何人も地獄のために生まれておらず、全ての者は天界のために生まれており、人間が地獄に入るのはその人間自身の責任ではありますが、しかし小さな子供たちには、未だ責任があるはずはないことは明らかです。
 死んで行く子供たちはあの世でも同じように子供であり、同じように幼児のような心を持ち、無知の中に同じような無邪気さを持ち、あらゆる事柄にも同じような優しさを持っており、ただ天使となる能力の初歩の段階にあるにすぎません、なぜなら子供たちは天使ではなく、後に天使となるからです。各々の者はこの世を去ると、以前と同じような生命の状態であの世に入って行きます、すなわち小さな子供たちは小さな子供の状態で、少年は少年の状態で、青年、壮年、老人はそれぞれ青年の、壮年の、老人の状態で入って行きますが、しかし後に各々の者の状態は変化します。幼児たちの状態は、幼児たちは無垢[無邪気]であって、実際生活から悪が未だ彼らの中に植えつけられていないという点で、他の全ての者の状態に優っています。無垢はまた天界のあらゆる物がその中に植えつけられることのできるものです。なぜなら無垢は信仰の真理と愛の善とを容れる器であるからです。
 小さな子供たちは、肉体の死後蘇るとすぐに天界へ挙げられ、婦人の天使たちの手に委ねられますが、その天使たちは身体の生命にいた頃優しく子供たちを愛したと同時に神を拝した者たちです。この婦人たちは、世では母の優しい心根から子供たちを全て愛したため、彼らを自分たちの者として受け入れ、小さな子供たちもまたかの婦人たちを本能的に自分たち自身の母として愛しています。その婦人の各々のもとにはその婦人が霊的な親の情愛から望むだけの子供たちが与えられています。
 子供たちは色々な気質を持っており、ある者は霊的な天使たちの気質を持ち、ある者は天的な天使たちの気質を持っており、天的な気質を持っている者たちはその天界の右に、霊的な気質を持っている者たちは左に見られます。天界である巨大人の中の幼児たちは全て目の領域におり、霊的な気質を持った幼児たちは左の眼の領域に、天的な気質を持った幼児たちは右の眼の領域にいますが、これは主は霊的な王国にいる天使たちによっては左の眼の前に、天的な王国にいる者たちによっては、右の眼の前に見られたもうためです。
 多くの者は、小さな子供たちは天界に子供としてとどまり、天使たちの間に子供として生きると考えるかもしれません。天使とは何であるかを知らない者たちは、教会の絵画や像の中に天使たちが幼児として表わされていることからそうした見解を確認しているかもしれません。しかし事実は全くそうではありません。理知と知恵とが天使を作るものであって、小さな子供たちも、理知と知恵とを持っていない限り、実際天使たちと共にいても、天使ではなく、理知的になり賢明になる時初めて天使となるのです。実際彼らはその時は子供として現れないで、大人として現れるのです。なぜなら彼らはもはや幼児の資質を持たないで、更に成熟した天使の資質を持っており、理知と知恵とがそうした結果を生み出すからです。子供たちはその理知と知恵とが完全なものになるにつれて、更に成熟した者となって現れ、引いては青年として、若者として現れるという理由は、理知と知恵とは真の霊的な栄養であるということであり、そのため彼らの心に栄養を与える物はまたその身体にも栄養を与えており、これは相応から起こっているのです。なぜなら身体の形は内部の外なる形にすぎないからです。天界の子供たちは年齢では青年時代の初期以上には進まないで、永遠にその中に止まることを知らなくてはなりません。
 幼児の頃死ぬものと大人になってから死ぬ者との相違はどのようなものであるかもまた述べてみます。大人となってから死ぬ者たちは地的な物質的な世界から一つの面を得てそれをあの世へ携えて行きます。この面とは彼らのその記憶の自然的な情愛であり、これは変化はしませんが、しかし死後は静止します。しかしそれでもそれは死後彼らの思考に究極的な面として役立っています、なぜなら思考はその中へ流れ入るからです。従って、その面のあるがままに、またその面の中にある物と合理的な物とが相応しているままに、死後の人間はなるのです。しかし幼い頃死んで、天界で教育を受ける子供たちはこうした面は持っておらず、霊的自然的な面を持っています。なぜなら彼らは物質的な世と地的な身体からは何ものもあの世に持って行かないからです。そのため彼らはそれほど粗悪な情愛とそこから生まれる思考とにいるはずはありません、なぜなら彼らはあらゆる物を天界から得ているからです。更に、子供たちは自分たちが世で生まれたことを知らないため、自分自身は天界で生まれたものと信じています。かくして彼らは霊的な出生以外の出生は何ら知っていません、その霊的な出生は善と真理とを知る知識により、また理知と知恵により行われ、そこから人間は人間となるのですが、これらの物は主から発しているため、彼らはそれは主御自身のものであることを信じて、またそのように信じていることを愛しています。しかしそれでも地上で成長する人間の状態でも、もしその人間が自己と世への愛である形体的な地的な愛を遠ざけて、それに代わって主への愛と隣人への愛である霊的な愛を受け入れるならば、天界で成長する子供たちのように完全になるのです。
 以上が天界の小さな子供たちの実情です。」
 モーツアルトは詳細に天界の子供たちの実情について語ってくれた。ここで私・緒田士郎は天界での彼の生活について彼に訊いた。
「僕はここ第1の天界でも作曲家です。ベートーベンと同じように、クラシックのみならず、ポップスやロックや讃美歌なども作曲しています。そしてビートルズの守護天使を務めていました。僕はポール・マッカートニーに“レット・イット・ビー”を作曲させた張本人です。また“イエスタデー”や“ヘイ・ジュード”なども僕が彼に流入して作曲させたものです。
 僕の結婚生活についてですが、僕は自分の妻を心からまた肉体的にも愛しています。僕の生活の全てが妻を中心に回っているといっても過言ではありません。僕は世では神童とか天才とか呼ばれたけれど、僕は本当はごく平凡な人間にすぎません。ただ幼児時代から英才教育を受けたから幼くして作曲の才能が開花したに過ぎないのです。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「地球の皆さん、僕モーツアルトは心の奥底から皆さんに申し上げます。邪悪な生き方をして安易に悪魔に騙されて地獄へ行くのはやめましょう。皆さんも、私達天使のように、主イエス・キリストのみを天の太陽エホバとして崇め十戒を守って、死後は天界の天使になりましょう。地獄なんて実にくだらない世界です。死後の霊界での生命は永遠です。この霊界での永遠の生命に較べたら、わずか数十年余りの世での生命などほとんど取るに足りないものです。皆さんも我々天界の天使と共に永遠の生命を謳歌しようではありませんか!
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとモーツアルトは立ち去った。
 第十一日目はこれで終わった。

第十二日
 十二日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストはアメリカの詩人、作家のエドガー・アラン・ポーである。また“モルグ街の殺人”や“マリー・ロジェの謎”や“盗まれた手紙”のような名探偵デュパンを主人公とする、今日推理小説の歴史を語る際誰もがその歴史を開いた最初の記念碑的な作品としてみる一連の推理小説があり、そこではパリが物語の舞台となっていて、時間的・空間的限定の欠落の印象を与えない。あるいはまた“群衆の人”におけるロンドン、“リジーア”や“ウィリアム・ウィルソン”における英国の田舎、“メールシュトレエムの底へ”におけるノルウェーの辺境ロフォーデン地方、“落とし穴と振り子”におけるスペインの都市トレドなどといった具合に、アメリカ以外の土地を舞台とする作品が多くある。このようにエドガー・アラン・ポーの作品は通常の意味での時間的及び空間的限定がほとんど完全にと言っていいほど欠けていると思われる。
 しかし、今日は私の鹿児島大学法文学部人文学科アメリカ文学在学中の卒業論文としてそのテーマ作品とした“アッシャー家の崩壊”という名作を取り上げたいと思う。この作品では語り手である“私”(匿名である)が陰鬱な雰囲気を漂わせているアッシャー家を訪れ、ロデリック・アッシャーと共に、スウェーデンボルグの“天界と地獄”などを読んで、最後はまだ生きていたロデリックの妹・マデライン姫を埋葬して地下牢に安置したが、彼女が最後に彼らの前に血にまみれた姿を現し、“私”は恐怖のあまりアッシャー家から逃げ出して、その館が沼に呑みこまれて沈んで崩壊してしまうという物語が展開されている。
 それではエドガー・アラン・ポーに登場してもらおう。
「やあ、はじめまして。エドガー・アラン・ポーは私だ。私はわずか40年の人生の中で、推理小説の分野を創設し、夥しい短編小説を書き、アメリカ文学の先駆者となった偉大な作家である。私は自分のことを稀代の天才作家であったと完全に自負している。なぜなら私は地獄の悪魔だからだ。」
 私はエドガー・アラン・ポーが、この霊界通信の第十九日に登場の予定である−私の宗教である新エルサレム教会の主イエス・キリストの御再臨の膨大な啓示書を書いた−エマニュエル・スウェーデンボルグの“天界と地獄”を取り上げているので、恐らくそれを読んでいたと思われ、従ってポーは天界にいるのではないかと密かに期待していたので、彼が地獄にいることを聞いて、少なからず衝撃を感じた。私・緒田士郎は恐る恐るポーに彼が本当に地獄の悪魔であるのかを訊いた。
「さよう、私は地獄の悪魔である。私は世で確かに短編小説家、推理小説の創始者、詩人、ジャーナリストとして活躍したが、大酒呑みの乱暴者だった。私は世で1836年の私が27歳だった時に当時13歳9カ月だったヴァージニア・クレムと結婚したが、ヴァージニア・クレムはその11年後1847年に死んだ。私はその後、初恋の女性だったセアラ・エルマイラ・ロイスターと1849年、20数年ぶりに再会して婚約したが、同年10月私は酒場で呑んだくれて不慮の事故で死んでしまった。つまり私の人生は栄光と不幸が背中合わせになった二律背反人生であり、それゆえ私はやはり天才であるのだ。」
 ポーが地獄の悪魔であることで、この霊界通信の登場人物が今までずっと天使であったという流れが止まってしまった。私はそこで覚悟を決めて、ポーが地獄でどんな生活を送っているのかを彼に訊いた。
「おい、緒田士郎よ!私はお前が当時霊界でも地獄でも話題になっていた「天の呼び声」を書いて、主イエス・キリストの再臨を自称していた時も、お前には目もくれなかった。私は世で確かにスウェーデンボルグを読んでいた。なぜならスウェーデンボルグは1772年にロンドンで死去し、私はその37年後1809年に生まれたのであり、私の時代では知識人の間ではスウェーデンボルグは非常に注目されていたからだ。しかし私は確かにスウェーデンボルグは読んだが、それは“天界と地獄”と“神の愛と知恵”と“神の摂理”というきゃつの入門書ばかりであり、その教説に関しては、私は一種の侮蔑の念すら抱いていたのである。いわんやきゃつの大著と云われている“天界の秘義”という膨大な著作などは読むべくもなく、私はスウェーデンボルグの主張している“主イエス・キリストのみを天地の神として認めることと十戒に従った生活”などという平民的教義には反発していたのであり、単なる大酒呑みの放蕩生活者であるに過ぎなかったのだ。
 おい、緒田士郎よ!私はおまえのような偽キリストの偽預言者など最初から馬鹿にしていたし、いわんやおまえを主イエスの再臨として認めておまえから洗礼も受けはしなかったことはおまえもよく知っているはずだ。にも拘らず、おまえが大学の卒業論文で私の作品“アッシャー家の崩壊”をテーマにしたのは、おまえが単に精神分裂病患者(統合失調症患者)であり、その卒業論文を書いた当時も、その精神病を再発して、何と保護室から大学に親の車で送り迎えをしてもらってその論文を書いたのであり、おまえがその当時、単に主の再臨を自称している悪魔にすぎなかったからだ。またおまえが“アッシャー家の崩壊”を卒業論文にしたのは、その小説の中でスウェーデンボルグに言及していたためであり、当時、28歳の発狂のために親からスウェーデンボルグの本を全部没収されていたおまえは、“天界と地獄”くらいしか図書館で借りて読むことができなかったからだ。おまえは今でこそ、親から自由になってスウェーデンボルグの宗教的全著作を買ってほぼ読了し、のみならず、“天界の秘義”や“真のキリスト教”や“啓示による黙示録解説”に至っては12回も繰り返し読んではいるが、当時の大学卒業当時は全くスウェーデンボルグを読むことができず、霊的真理に対しては飢餓状態であったのだ。だからおまえは再発狂して主イエス・キリストの再臨を自称していたのだ。
 何度も言うがおまえは単なる偽キリストの冒涜者の悪魔であり、のみならず人間ではあるはずもなく、単なる物としての“それ”だ!!!。
 おまえなんか死後、おまえが「天の呼び声」で悪魔を亡霊として霊界の外に追放しようとしたように、おまえ自身が亡霊として霊界の外へ追放されてしまえ!!!。」
 以上、私・緒田士郎はポーから罵詈雑言を浴びせられて、ただ戦慄するのみであった。私はポーに今地獄での生活について彼に訊いたのであり、ポーがそれに一言も答えなかったので、再び彼に地獄での彼の生活について訊いた。
「私の地獄での生活など言う必要もないほど歴然としている。それはただ主の冒涜と娼婦との姦淫生活だ! 私達地獄の悪魔には、何の手かせ足かせもない。私達はただ日々主に対する冒涜の言葉を天に向かって浴びせて酒に呑んだくれて娼婦いわんや他の男の妻いや愛人と姦淫生活を送っている。
 私達には天界で守られているような宗教的教義など存在しない。私達地獄の悪魔の信仰箇条を強いて言えば次のとおりである:1)人間としての唯一神など存在しない、ましてや主イエス・キリストを神として信じることは天界のあほ天使どもが自己増長してほざいているだけである、神とは私達悪魔自身である。2)十戒などという生活上の戒めなど民衆を権力者の服従の下に繋ぎとめておくための手段にすぎない、我々地獄の悪魔はあくまでも自分の好きなように勝手気ままに生きていてよろしいのである、十戒などという言葉をもし他の悪魔が口にするなら、そいつは我々悪魔たちから集団リンチに遭って、強制労働収容所のある呪われたベッドに縛り付けられて、もう二度と十戒という言葉は使いませんと言うまで監禁されておかれるのだ。」
 以上、ポーは彼の地獄での生活について朗々と語った。ここで私は地獄の実情について彼に訊いた。
「地獄は天界と同数の社会に分かれているため、天界の社会と同数の地獄の社会がある。地獄には全般的に3つのものがある、すなわち、最も内なる、または第3の天界に対立した最低の地獄、真中の、または第2の天界に対立した真中の地獄、最低の、また第1の天界に対立した高い地獄があるのだ! 地獄は個別的には天使たちを通して支配されており、その天使たちに地獄を凝視して、その狂気と暴動とを抑制することが与えられており、時にはまた天使たちは彼らのもとに遣わされて、そこに現にいることによって、その暴動を鎮めているのだ。しかし、全般的には地獄にいる全ての者は恐怖により支配されており、彼らは刑罰の恐怖により支配されて、主としてそのことによって悪の実行を思いとどまっているのだ。地獄にいる者は全て、天界にいる全ての者のように、人類から来ており、そこにいる者らは、創造の初めから現在まで、巨億の数に達しており、その中の各々は世で神的なものに反抗した度に応じて悪魔となっているのだ!
 世で悪を欲し愛する者はあの世でもそれと同じ悪を欲し愛し、その時はもはや自分自身が地獄から引き出されることを望まない。ここから悪にいる人間は地獄に縛り付けられ、同じくその霊の方面では実際地獄におり、死後はその悪のある所にいることを何物にも勝って願い、従って自分自身を地獄に投げ込むのはその悪にいる人間であって、主イエス・キリストではない。また悪に突入する者はまた悪の刑罰へも突入するのだ。なぜならこの世では悪は隠れることもできるが、霊界では悪は隠れることはできないからだ。
 そしてこれは結論であるが、地獄の悪魔は全て自己のみを愛する自己愛におり、また世を愛する愛である貪欲な愛にいるのだ!。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「世に対するメッセージは山ほどあるが、以下のことをおまえたちに言明しておこう。
 すなわち、人間は全て自分の好きなように自分勝手に生きていて大いによろしいのである。主に対する愛とか隣人に対する愛とか神父や牧師は説教でがなり立てているが、そんなものなど我々地獄の悪魔には全く通用しない。
 ここ地獄で我々悪魔は自由に神にいわんやキリストの再臨になって大いによろしいのである。今この文章をパソコンに打ち込んでいる緒田士郎自身が、主イエス・キリストの再臨を自称していた最低の地獄の悪魔なのである! この緒田士郎は地獄の悪魔であり人間性のほとんどを剥奪された単なる物である“それ”なのだ!!!。
 読者のおまえども、主イエス・キリストなど天の太陽だと言われているが、俺たちにとってはただの暗闇の影にすぎない。俺たち地獄の悪魔は永遠に主イエス・キリストなど闇に葬り去って自分自身が神であることを主張し続けるのみだ!!!。
 ましてや最低の地獄の悪魔であるこんな緒田士郎を信じて主のみを神として崇め十戒を守るなど言語道断であり全く笑止千万である! 読者のおまえども、決してこの脳足りんの緒田士郎など信じてはならない。
 お前たちの死後の運命は永遠の地獄であり天界などは始めっから存在しないのだ!!!。
だから俺たち地獄の悪魔を信じて、主イエス・キリストなど十字架上に磔にしてしまえ!。
 俺たちはおまえら人間が死んだらお前らを地獄に落として永遠の堕地獄の苦しみを味あわせるつもりだ。何度も言う、決して主イエス・キリストなど信じてはならない!!!。」
 以上を述べるとエドガー・アラン・ポーは立ち去った。
 第十二日目はこれで終わった。

第十三日
 十三日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストはロシアの文豪、ヒョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーである。
 今日の朝もT型ステンレスかみそりでひげを剃った。なぜなら電気カミソリが刃がボロボロで壊れてしまっているからだ。また今日は久しぶりに生卵を二つ飲んだ。そしてバナナを食べた。バナナは高カロリー食品で、ハードな執筆活動には欠かせない。そして柿の種をボリボリ食べながらコーヒーをすすった。今日のゲストに関しては私はドストエフスキーの小説をほとんど読んだことがないので取材不足である。それで今日は書ける範囲で彼の作品にも簡潔に触れてみたい。
 それでは今日のゲストに登場してもらおう。
「こんにちは、ドストエフスキーです。今日は霊界の実情について話すことが主に求められているため、私の作品については特に触れませんが、私自身の根本思想については話したいと思います。それと私は生涯に亘ってギャンブル癖に悩まされていました。負けることは分かっているのにあらゆるギャンブルに私財を投じ、多額の借金を抱えて、友人たちに借金の申し込みをしまくっていました。その癖、私は生涯に亘ってキリスト教を信仰する敬虔なクリスチャンでした。私の根本思想とはまさに神が存在しなければ我々人間は生きられないという思想でした。」
 私・緒田士郎は彼が天使なのかどうかについて彼に訊いた。
「私は第2の天界の天使です。つまり隣人への愛に生きている天界です。そして私はここ天界でもやはり作家を仕事にしています。主に人間の罪と神による贖いをテーマとする小説を書いています。それから緒田さん、今日は私の世での作品、特に5大作品と言われている『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾフの兄弟』には特に触れないで、天界の実情について私から話しましょう。あなたたち日本人の国は、キリスト教圏からは異邦人の国と思われているので、今日はまず“天界における異教徒または教会の外にいる人々”について話してみます。」
 私・緒田士郎も彼の意見に賛成したいので、彼に異邦人について話してくれるように頼んだ。
「教会の外に生まれて、異教徒、または異邦人と呼ばれている者は、聖書を持っておらず、引いては主イエス・キリストを知らず、主がいなくては救いはないため、彼らは救われる ことはできないと普通考えられています。しかしそれでも、彼らもまた救われることは、ただ以下のことのみからでも知ることができます、すなわち、主イエス・キリストの慈悲は普遍的なものであり、各々の者に及んでおり、彼らも教会内の、比較的少数しかいない者と同じく人間として生まれていて、彼らが主イエス・キリストを知らないのは彼らの責任ではないのです。何人でも何らかの明るくされた理性から考えるならば、誰一人地獄のために生まれていないことを認めることができるでしょう。なぜなら主は愛そのものであられ、その愛は万人を救おうと願っておられるからです。それゆえ主イエス・キリストは全ての者が宗教を持ち、その宗教によって神的なものを承認して、内的な生命を持つように定められたのです、なぜなら自分の宗教的な信念に従って生きることは、彼はその時神的なものを仰ぐため、内的に生きることであり、そして彼はこの神的なものを仰ぐに応じて、世をかえりみないで、世から、引いては外的な生活である世の生活から自分自身を遠ざけるからです。
 異邦人もまたキリスト教徒と同じく救われることは、人間のもとに天界を作るものは何であるかを知っている者たちには知られることができるでしょう、なぜなら天界は人間の中にあり、自分の中に天界を持つ者は死後天界に入るからです。各宗教の最初の、また主要なことは神を承認することです。異邦人もキリスト教徒のように道徳的な生活を送り、その中の多くの者はキリスト教徒よりも良い生活を送っていることは知られています。道徳的生活は神的なもののためか、世の人間のためか、その何れかのために送られますが、神的なもののために送られる道徳的生活は霊的な救う生活です。その道徳的生活が霊的なものである人間はその者自身の中に天界を持っていますが、その道徳的生活が単に自然的なものにすぎない者はその者自身の中に天界を持っていません。その理由は、天界は上から流れ入って、人間の内部を開き、内部を通して外部へ流れ入りますが、他方世は下から流れ入って、外部を開きはしますが内部を開かないということです。なぜなら自然界から霊界へ流れ入ることはできませんが、霊界から自然界へは流れ入ることができ、そのためもし天界が同時に受け入れられないなら、内部は閉じられるからです。これらのことから誰が自分の中に天界を受け入れるか、また誰が天界を受け入れないかを認めることができるでしょう。そして異教徒は世では純粋な真理にはいないものの、それでも霊界では愛からその純粋な真理を受けるのです。
 神的なものに服従し、従属して道徳的な生活を送り、自分の宗教に従って相互的な隣人愛に生きて、かくして多少なりと良心を受けた異教徒たちは、霊界では主から受け入れられ、そこで天使たちから細心の注意を持って信仰の善と真理を教えられます、彼らは教えを受けている時は、つつましく理知的に、また賢明に振る舞い、容易に真理を受け入れて、これに従って生きるのです。彼らは信仰の諸真理に反していて払い落してしまわねばならない誤った主義を自ら形作ってはおらず、まして主イエス・キリストを普通の人間としか考えていない多くのキリスト教徒のように主に対して恥ずべき考えは持っていません。それどころか異教徒は、神は人間となられて、御自身を世に示されたことを聞くと、すぐにそれを承認して、主を認め、神は天と地の神であられるから、また人類は神のものであるから、神は御自身を完全に示されたのであると言うのです。主がおられなくては救いはないということは神的真理ではありますが、しかしそれは以下のように、すなわち、主によらなくては救いはないという意味で理解されなくてはなりません。宇宙には多くの地球があって、その全てにそこに住む宇宙人たちが満ち満ちていますが、彼らの中で主イエス・キリストが我々の地球で人間的なものを着けられたということを知っている者はほとんどいません。しかも彼らは人間の形の下に神的なものを崇拝しているため、主から受け入れられて、天界に向かって導かれているのです。
 キリスト教徒と同じく異教徒の間にも賢明な者と単純な者がいます。私は両方の者とも時には数時間または数日話すことができたのです。しかし現今では古代に、特に古代教会にいたような賢人はいません。古代教会とはアジア世界の大部分に広がっていて、そこから宗教が多くの国民へ広がったのです。
 しかし現今の異邦人については、彼らはそれほど賢明ではなく、その大半は心が単純ですが、それでも彼らの中で相互愛に生きた者たちは霊界で知恵を受けるのです。そして天界に入って天使として生活するのです。
 主の教会は全地球に広がっており、かくして普遍的なものであり、自分の宗教に従って隣人に対する仁慈の善に生きた者はその中におり、聖書があって、それにより主が知られている教会は、その教会の外にいる者たちに対しては、人間の身体の心臓と肺像のようなものに相応しています。
 結論を述べますと異教徒でも一人の人間としての神的なものを信じて善良に生きた者は全て主イエス・キリストから留められて天界に入ってくるのです。」
 以上ドストエフスキー氏は異邦人の霊界での運命について詳しく話してくれた。
 ここで私はドストエフスキー氏の天界での生活について話してくれるように彼に頼んだ。
「天界は3つの階層に分かれていて、主イエス・キリストへの愛に生きる天界は第3の天界と呼ばれており、私が住んでいるところの第2の天界では隣人に対する愛に生きている者が住んでいます、そして最低の第1の天界には信仰の善に生きている霊的・天的自然的天使が住んでいます。
 私はここ第2の天界でも作家なのですが、時々主から人間の守護天使を務めるように命令されることがあります。それは世の人類を天界に向かって導くために大切な仕事であり、私はこの任務を忠実に果たしております。そして人間の守護天使を務める時、その人間の記憶を全部身につけることができ、またその人間の目を通して世のものを見ることができるのです。ですから人間の守護天使を務めることは楽しい仕事です。
 それから私の結婚生活についてですが、私の妻は私がまだ精霊界にいた頃出会って、天界で結婚しました。私はこの妻を初めて見た時、“この女性は自分の永遠の配偶者に違いない”と直感しました。そして即刻プロポーズしたのです。そして今でも新婚生活のままのような初々しい結婚生活を送っています。」
 私・緒田士郎は最後に人類に対して何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「私は世でも敬虔なキリスト教徒でしたが、死後も主イエス・キリストのみを神として信じて十戒を守って生きております。ただし私は世でギャンブル狂だったため、精霊界で悪の苦しい剥奪を受けました。ギャンブルは一種の罪です。なぜなら金銭への執着は世への愛であり、これは天使になるためには剥奪されねばならないからです。日本人の皆様、あなたがたの世にはパチンコとか麻雀とかのギャンブルにとりつかれている者が多いことを私は知っています。こういう類のギャンブルは精霊界で剥奪されなければ天界に入ることができません。みなさん、ギャンブルはできるだけやめましょう。こういった類のものは地獄で盛んに行われていることなのです。
 天界に入る条件は主イエス・キリストのみを天の太陽唯一神として信じて十戒を守ることです。毎日天使たちがこの同じことを主張し続けているのもそれが永遠の真理だからです。日本人の皆さん、現在永遠の教会である新エルサレム教会はここ日本で築かれつつあります。少しづつですが、その構成員は着実に増えつつあるのです。日本はこれからです。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとドストエフスキー氏は立ち去った。
 第十三日目はこれで終わった。

第十四日
 十四日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストはドイツの文豪、ヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテである。今日のゲーテの執筆に備えて、昨日は第十三日の原稿を書いてから、勤務日であるにも拘わらず、時間が空くとゲーテの取材のために、インターネットや筑摩書房のゲーテ集の解説と略歴を研究して、今日のゲーテの執筆に備えた。そこで今日はゲーテの数ある名作の中で“若きウェルテルの悩み”と“ファウスト”について若干書いてみたいと思う。
 それでは今日のゲスト、ゲーテ氏に登場してもらおう。
「こんばんは、僕はゲーテです。今日は僕の作品についても言及してもらえると聞いて恐縮です。僕は第3の天界の天使です。」
 私・緒田士郎はゲーテの25歳の時の作品『若きウェルテルの悩み』について書いてみたいと思う。この作品は青年ウェルテルが婚約者のいる美しい女性シャルロッテに恋してしまい、彼女にとってはお似合いの婚約者アルベルトのために、身を引くが、苦悩のあまり最後は自殺してしまうという物語で、友人ヴィルヘルムに宛てた数十通の手紙で構成されている。この小説が出版された時、ドイツにセンセーショナルな衝撃が走るほど大反響を呼び、実際に自殺者が相次ぐほどの大きな影響を与えたが、実は私・緒田士郎もこの小説と似たような経験をしている。それは私が28歳の秋であった。東京の某私立大学を中退して、正式な就職をしていなかった私は、手に職をつけるために専門学校で学んで資格を取ろうと思い、色んな専門学校を物色した結果、司法書士という法律の専門家を目指して、ある法律の国家資格専門学校に入校した。その内容は、民法、商法、刑法、民事訴訟法、不動産登記法、商業登記法等の多岐にわたり、司法試験にも匹敵するほどの難関の資格であったが、無鉄砲で無謀な私はこの資格に身の程も知らないで挑戦しようとしたのであった。ところがである。この専門学校で私は一人の美しい女性と出会うことになった。その女性の名はFとしておこう。私はFさんに一目ぼれした。そして“この女性こそ私の永遠の妻に違いない”といういつもの自分勝手な思い込みをし始めた。彼女に親しく話しかけた私は、専門学校の建物の1階にある喫茶店で彼女と二人で話をした。非常に彼女と気が合ったし、これならうまくいくと思った私はある日、授業の休み時間に教室で彼女を呼んで、階段の踊り場まで彼女を連れてゆくとおもむろに彼女に愛の告白をした。
 ところがである、彼女ははっきりこう私に言った:「私には婚約者がいます。あなたとは結婚できません。」
 これが悲劇の始まりであった。彼女のことを諦めきれない私は、彼女への思いを募らせ、遂には彼女からテレパシーで話しかけられていると思い込み始めた。精神病でいういわゆる“幻聴”である。そしてギターを抱えて車で放浪してまわり、遂には彼女の住んでいるマンションまで押し掛けた。そして玄関で出てきた彼女と一言も話すことができず、心配した彼女は私を近くの喫茶店まで連れて行って、私にアイスコーヒーとサンドウィッチをおごってくれた。私は司法書士試験を受けてもいないのに、自分は合格したと彼女にうそぶき発狂した姿を彼女に見せつけたのであった。私の幻聴の始まりは実にこの時であったのだ。結局私は最後に交通事故を起こし精神病院入院という結末を迎えたのである。
 つまり私もまた『若きウェルテルの悩み』のように婚約者のいる女性に片思いを抱いた不幸な人間であり、現在の私も未だにこの霊界通信で述べられているように“幻聴”という統合失調症の十字架を背負って生きているのである。
 私の“ウェルテル“体験談はこれくらいにして、次に『ファウスト』について簡単に言及しよう。ファウストはドイツに現実に存在したと云われている学者であり、ゲーテはこのファウストを題材にして、膨大な物語を戯曲形式で書いている。
 15世紀のドイツでファウスト博士は学問の研究に日々打ち込んでいたが、遂には「私は結局何も知らない。」と神に向かって叫び、メフィストファレスという悪魔を呼んで、自分に若い時代に戻らせてくれるなら地獄で悪魔に魂を売ってもいいと誓い、実際に若返らせてもらうとグレートヒェンという女性と恋に落ち彼女に子供を身ごもらさせるが、彼女は気が狂ってその生まれた赤ちゃんを殺し逮捕され死刑囚になる。彼女の兄は妹の堕落を知りファウストと決闘するがファウストに殺されてしまう。以上が第1部の内容であるが、これが文豪ゲーテの最高傑作であり、82歳で完成させるまで60年近くを要したという事実は私を唖然とさせる。なぜならこういう地獄の悪の権化のような小説のために人生の大半を文豪ゲーテが費やしたことを私は不可解に思うからである。私はゲーテに『ファウスト』に関する彼の正直な気持ちを訊いた。
「僕は今第3の天界に住んでいて、『ファウスト』のような悪にまみれた戯曲を書いたことを本当に後悔しています。また私の小説一般に言えることですが、私は常に人間の苦悩とか欲望のような闇の部分をテーマにしたものを書いていました。
 私は世でプロテスタント派のキリスト教徒だったため、聖書を読み、自分なりにイエス・キリストを神の一人子として信じていましたが、裕福な家庭に育ち何不自由なく暮らしていたため、本業である弁護士をそっちのけで文学にうつつを抜かし、放蕩三昧な生活を送っていました。私は生涯に亘って何度も女性と恋に落ちて、70代になっても17歳の小娘に求婚するほど異性愛に生きていました。そんな放蕩三昧の私がなぜ第3の天界にいるのか自分でも不思議に思うことが多いのですが、それは私が生活に全く困ったことがなかったため、神である主イエス・キリストに対しても常日頃からよく思索していて主を愛していたからだと思われます。
 私は世にいた頃、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトとも会ったことがあるし、またベートーベンとも会ったことがあります。私の生きた時代はシュトルム・ウント・ドラングという疾風怒濤の時代でした。この18世紀から19世紀にかけて歴史的偉人が多く輩出したことは当然の歴史の流れの結果だったと思います。」
 私はここで天界の喜びと幸福について彼に訊いた。
「天界はそれ自身では楽しさに満ちたものであり、祝福された歓ばしいもの以外の何ものでもありません、なぜなら主の神的愛から発出している神的善はそこの各々の者のもとに、全般的にも個別的にも天界を作っており、神的愛は全ての者が救われて、その最も内なる部分からも、完全に幸福になることを切望するものであるからです。従って天界と言うも天界の喜びと言うも意味は同じです。
 天界の楽しさは如何に大いなるものであるかは、ただ以下のことのみからでも明白になるでしょう、すなわち、天界の全ての者には自分の楽しさと祝福を他に伝えることが楽しいのです、こうした伝達は主に対する愛と隣人に対する愛である天界の二つの愛から流れ出ています。自己と世への愛はそうではありません。自己への愛は他の者から喜びを引き出し奪い去ってそれを自分自身の中へ引き入れます。なぜなら自己への愛はそれ自身の幸福のみを望み世への愛はその隣人のものが自分自身のものとなるように望んでいるからです。それゆえこれらの愛は他の者の楽しさを破壊します。 
 天界にいる者たちは絶えず生命の青春に向かって進んでおり、数千年生きれば生きるほど、その到達する青春は喜ばしく、また幸福になり、しかもこれは永遠に続き、彼らの愛、隣人に対する仁慈、主への信仰が進むに応じ、またその度に応じて増大しています。年を取って、老齢のためやせ衰えて亡くなった婦人たちも、もし主に対する信仰と隣人に対する仁慈とに生き、夫と幸福な結婚愛に生きたならば、年の経過につれて、益々青春とうら若い女性時代の花盛りに入り、地上の美からは考えることもできない美に入って行きます。善良と仁慈とが彼らの中にその善良と仁慈そのものの姿を形作り、また示しており、仁慈の喜びと美とをその顔のあらゆる線からも輝き出させ、かくて彼らは仁慈そのものの形となっています。仁慈の形は、天界ではそのあるがままに見られますが、それは仁慈そのものが表現し、またその表現されたものであり、しかもそれは天使全体が、特に顔が、いわば仁慈であり、それが明らかに目に見え、また明らかに認められるようになっています。この形は目に映じると、言うに言われぬほど美しく、その最内部の生命そのものに仁慈を覚えさせます。つまり結論すると、天界では老いることは若くなることです。主に対する愛と隣人に対する仁慈に生きた者たちは霊界でこうした美になります。天使たちは全てこうした美の形であって、それは無限に変化しており、天界はこの美の形から成っています。」
 以上、ゲーテは天界の喜びと幸福について語ってくれた。
 ここで私・緒田士郎はゲーテの天界での生活について彼に訊いた。
「私はここ第3の天界でも、作家の仕事を主にやっておりますが、世でそうであったように、植物の研究にも従事しており、また我々の社会の政治家も同時にやっております。私は毎日忙しい日々を過ごしておりますが、活動そのものが天界生活であり、怠惰は悪魔の枕なのです。よって私は自分の能力の及ぶ限り、ありとあらゆる仕事に励んでおります。
 私の結婚生活についてですが、私は世での華麗な恋愛彷徨は卒業して、ただ一人の女神のように美しい妻と幸福な結婚生活を送っております。この妻は非常に情熱的で私をそれこそ火のような炎の愛で愛してくれます。新婚生活のような常に新鮮な結婚生活を送れるのもただ主イエス・キリストの愛の賜物です。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「地球の皆さん、私ゲーテは心から皆さんに申し上げます。自己への愛と世への愛に生きる人間は死後地獄行きですが、主イエス・キリストを神として何物にも勝って愛し隣人を自分のように愛する人間は永遠に天界の天使です。死後の永遠の生命を地獄で過ごすこと がどれほど馬鹿げたことであるかは考えてみれば誰でも分かることです。
 皆さん、ただ主イエス・キリストのみを父なる神エホバの肉体化された天の太陽として崇め十戒を守って生きていこうではありませんか!。天界は最高に楽しくて喜ばしいユートピアです。できれば聖書を読んで自分の罪を悔い改めて天界に入ろうではありませんか!!!。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとゲーテ氏は立ち去った。
 第十四日目はこれで終わった。

第十五日
 十五日目の幻聴が始まった。 
 今日のゲストは“キング・オブ・ポップ”、マイケル・ジョゼフ・ジャクソンである。彼は“人類史上最も成功したエンターテイナー”(ギネス記録世界記録)であるアメリカの偉大なシンガーソングライター、ダンサー、俳優、慈善活動家である。それではまず彼の華麗なディスコグラフィーから紹介しよう。
 1969年兄弟5人組で結成したジャクソン5で、いきなり“Twant you back”、“ABC”,“The love you save”、“T’ll be there”で4曲連続全米チャート1位という華々しいデビューを飾った。その後も1972年“ベン”で全米一位を獲得し、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた1979年のソロアルバムの中から、“Don’t stop ‘til you get enough”と“Rock with you”がこれまた全米一位を獲得した。そして1982年、自身最高の成功作となったThrillerから“The girl is mine”(全米2位)、“beat it”(1位)、
“Billie jean”(1位)、“Thriller”(3位)、“Wanna be startng something”(5位)、“human nature”(7位)、“P..Y..T(Pretty Young Thing)”(10位)、その他、ポール・マッカートニーとのデュエット“Say Say Say”(全米1位)。その他、アルバムBADから5曲全米1位というギネス記録も達成した。
 彼のこれまでのCD、レコード総売り上げ枚数は10億枚以上を超え、単にTHRILLERだけでも1億500万枚の売り上げを記録し、史上最も売れたアルバムとしてギネス記録となっている。こういった数字だけでもマイケルの超人的偉業が物語られている。
 ところで、なぜ彼がこんなに大成功したか、その原因を四柱推命によって分析してみようと思う。彼が生まれたのは1958年8月29日午後4時頃であった。彼の元命(中心星)は食神であり、しかもその食神が命式上に4個もあるという従児格という外格の特別な生まれであった。食神とは文字通り食べ物の星であり生活必需品全般に亘って恵まれた運勢を持っている宿命星である。彼は月柱と時柱に文昌貴人という学問芸術の特殊性を持っているが、とにもかくにもなぜ彼がこれほど成功したかを証明しているのは、月柱と時柱か ら割り出される運命の中心的舞台となる命宮のゆえである。彼はこの命宮に天乙貴人、天徳貴人という最高の吉星を持っており、それは癸丑己であり、彼の生まれ日の日柱の天干である彼自身を表わす戊が、命宮癸丑の天干である癸と干合しており、天乙貴人が干合するとその吉性は増大し、大成功する宿命を持っていることになる。そして彼の十年毎の運である大運は、20歳の時に北方水運をめぐり、これは彼にとって財星旺運と言って財産に恵まれる大運であり、また20歳から30歳まで、癸亥壬の運でこれは天徳貴人と月徳貴人であり、この大運の時は彼にとって最高に幸運な時期であったので、24歳の時、彼はスリラーで大成功を果たしたのである。
 また姓名判断からも分析してみよう。外人の名前を占う場合には大文字表記で基本的に画数を数える。彼の総画数は32画であり、これはチャンスに乗って一躍大成功しやすい画数である。しかし、姓名判断には表の画数だけで占うのではなく、その内容である内画法というやり方を用いて占うことが不可欠である。それによると彼は9という凶数ではあるが芸術家には欠かせない数をBクラスの人格とCクラスの外画に持っており芸術家として大成する生まれつきの宿命を抱えていたことになる。
 前置きが長くなってしまったのは、今日のゲストがマイケル・ジャクソンという不世出の大成功者であったからであり、その大成功の原因を東洋占いの観点から分析するためであった。本当は私はマイケルの西洋占星術も実際にホロスコープを割り出して占ったことがあるのであるが、これまで述べると大変な作業になるのでここでは割愛する。
 それでは今日のゲストである、マイケル・ジャクソンに登場してもらおう。
「みなさん、こんばんは、僕はマイケル・ジャクソンです。今まだ夜中の1時半なので、こんばんはです。僕は死後、3年ほど精霊界にいたのですが、そこで世で身に付けた悪の生命を剥奪するために、苦しい精神的生活を送っていました。何しろ僕はあまりにも大成功して少なからず自負の念が非常に強かったため、この自己愛の悪の生命を剥奪される必要がありました。 
 僕は世で聖書は幼い頃から読んでいたので、イエス様のことはよく知っていました。そしてイエス様は神に違いないと自分なりに思っていました。しかし、僕は父から音楽の英才教育を受けて幼い頃から音楽に打ち込んでいました。ジャクソン5で活躍して全米ナンバーワンヒットを連発していた僕は飛ぶ鳥を落とす勢いであったため、次第に神なんて関係ないと思うようになってゆきました。そしてソロ活動も若いうちから始め、20歳の頃“オフ・ザ・ウォール”が大成功して、続く24歳で“スリラー”で完全に人気が爆発すると、完全に自分を見失って行きました。またその後の“バッド”でも5曲連続全米ナンバーワンというギネス記録を打ち立てて、僕の自負心はいやがうえにも高ぶって行きました。僕はエルヴィスの一人娘リサ・マリー・プレスリーと結婚しましたが、高ぶった自負心のため結婚生活をうまく送ることができませんでした。
 しかし、僕は死後精霊界で世で身に付けた悪の自負心を剥奪されて、3年ほど前に第1の天界に入ることができました。」
 私・緒田士郎はマイケルが天界に入ったことをうれしく思い、彼に天界での生活について訊いた。
「僕は世で別に傲慢で鼻もちならない人間というわけではなかったので、精霊界で3年準備するだけで、無事に天界の天使になることができました。ここ第1の天界でも、僕は世であったと同じようにシンガーソングライターです。僕の音楽はここ天界でも流れています。ただ天界という所にはお金がないので、音楽で稼ぐと云うわけではありません。ただ職業として無償で作詞作曲してレコーディングしてコンサートも開いています。エルヴィスにも会ったことはあるのですが、エルヴィスは僕よりも数段勝った人格者です。僕なんてただ歌とダンスが得意なだけのつまらない人間です。またジョン・レノンにも会いました。ジョンは地獄にいたけど、悔い改めて天界に入れたと僕に自慢していました。
 僕は小児性愛者だったから、結婚はしていないだろうと思っていらっしゃる方も多いと思いますが、僕も立派な妻をもらいました。僕は別に女嫌いというわけではなく、ただ無邪気な子供が好きなので、子供を生んでくれる女性を尊敬しています。しかし、ここ天界では子供は生まれません。僕は幼児で死んで天界の眼の領域に住んでいる子供たちを引き取って育てています。僕はやっぱり子供が好きです。その点、子供が嫌いな緒田さんとは正反対です。僕が子供を好きな第1の理由は実は聖書にあるのです。主イエス・キリストはその御言葉の中で“このような子供を私の名前により受け入れなさい、この子供たちのように自分を低くする者が天界では偉大なものと呼ばれます”と言っておられたからです。だから緒田さん、あなたもいつまでも子供を嫌っていないで受け入れないなら天界に入ることはできませんよ。」
 私は自分の欠陥である痛いところをマイケルに突かれたので、慌ててしまった。そしてマイケルにこう弁明した。
「僕は子供を受け入れようとは思っていたのですが、僕が子供を甘やかすと子供が暴れ出すので、もう子供を相手にするのはやめようと思ったのです。それに子供の無垢は単に表面的なもので、真の無垢は知恵の中にあります。知恵の無垢こそ真の無垢です。」
 私は苦しい言い訳をしたが、マイケルはどう思ったであろうか、彼に訊いた。
「緒田さん、天界の子供たちは暴れたりしません。あなたも天界に入ったら子供を引き取って育てることになるのです。」
 ところで、私は四柱推命の話に戻って、なぜマイケルが50歳で急死したかを解説した。
「マイケルは食神格だから、凶の印星である偏印は大敵です。しかもマイケルの命式にはこの偏印が大運や歳運で回ってきた時、それから食神を守る偏財もなければ偏印と干合してその狂暴性を抑える傷官もありません。そしてマイケルは50歳の時、丙寅甲という偏印−偏官の運である東方木運を迎えました。この偏印の食神への攻撃によってマイケルは遂に帰らぬ人となったのです。」
 以上私・緒田士郎はマイケルの急死の原因について私見を述べた。
 ここで私はマイケルが世で大金持ちであったことから天界の富んだ者と貧しい者について教えてくれるように彼に頼んだ。
「天国は富んでいようと貧しかろうと主に対する愛と信仰の生活を送っている全ての者のためにあります。富んだ者も貧しい者と同じく容易に天界に入り、人間は豊かに生活しているために天界から閉め出されることはなく、また貧しいために天界に迎えられもしません。天界には富んだ者も貧しい者もおり、富んだ者の多くは貧しい者よりも更に大きな栄光と幸福を得ているのです。
 人間は内面的に神を承認しその隣人の益を願っているならば、外面的には他の者のように生活することができ、富むことができ、豊かな食卓を備え、その地位と任務とに従って優雅な家に住み、立派な着物を着、歓喜と満足を味わい、勤めと仕事のために、また身体と心の生命のためにも世のことに携わることができる以上、天界の道に入ることは、多くの者の信じているほど、困難なことではありません。
 天界における富んだ者の運命は豊かさにおいて他の全ての者にも勝るものであって、その中には宮殿に住んでいる者もあり、その宮殿の中ではあらゆる物は金銀で輝いています。彼らは生活の用のためにあらゆる物を豊富に持ってはいるものの、自分の心をそうした物に置かないで、用に置いています。それゆえ世における彼らの用の如何に天界における彼らの豊かさは応じ、また彼らの歓喜と幸福とが応じています。貧しい人間が送っているところの怠惰な生活では人間は自分の中に植えつけられている悪から悪を考えるのです。
 貧しい者はその貧しいためではなくてその送った良い生活のために天界に入るのです。富んでいようが貧しかろうが各々の者の生命が死後その各々の者について行くのです。人によって特別な慈悲があるのではなく、良い生活をした者は天界に迎えられますが、悪い生活をした者は斥けられるのです。更に貧しいこともまた富と同じく人間を誘惑して天界から引き離すのです。貧しい者の中には、自分の運命に満足しないで、多くの物を求め、富が神の祝福であると信じて、それで富を得ないと怒って神の摂理を悪く考える者が多くいます。彼らもまた富んだ者の良い物をねたみ、機会があると同じく彼らを欺き、また同じように汚れた快楽の中に生きています。しかし自分の運命に満足し、入念にまた勤勉に仕事をし、勤労を怠惰よりも愛し、誠実に忠実に行動すると同時に、キリスト教徒として生きている貧しい者は死後天界に入ります。
 これら全てのことから僕のように世で大金持ちであった者が天界から閉め出されることはなく、かえって貪欲な貧乏人の方が地獄に行きやすいことが分かると思います。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかとマイケルに訊いた。
「僕マイケルがこの世で大成功者の大金持ちだったから、僕を地獄行きだと思っている人も多いと思いますが、決してそんなことはありません、なぜなら僕はこの世での財産を何一つ霊界に持ってくることはできなかったのであり、従って、僕は無一文の状態で霊界に入ってきたからです。人間の死後の霊界での生命を決めるものはその人間の支配愛である目的です。僕はここ天界ではもう大金持ちじゃありません。必要なものは全て主イエス・キリストから無償で与えられるので、金持ちである必要など一切ないからです。
 皆さん、ただ天地の神主イエス・キリストのみを天の太陽エホバの化身として崇め十戒を守って生きてゆきましょう。
 ああ、天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとマイケル・ジャクソンは立ち去った。
 第十五日目はこれで終わった。

第十六日
 十六日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストは旧約聖書の5書“創世記”“出エジプト記”“レビ記”“民数記”“申命記”という『モーセの5書』と呼ばれている聖言を書いた当人であるモーセその人である。この聖書を通して最大の予言者と呼ばれているユダヤ人の英雄は私は過去の作品の中でただの一度も取り扱ったことはない。それは私がかつて天地の神主イエス・キリストの再臨を自称していた最低の地獄の悪魔であり、旧約聖書の律法を書いたこの聖なる予言者を軽々しく取り扱うことは決して私には許されないことだったからである。
 今日は旧約聖書を基にしてこのモーセについて徹底的に論じてみたいと思っている。
 それではモーセに登場してもらおう。
「こんばんは、はじめまして。私はモーセです。私の出生についてまずは簡潔に述べます。私はレビの家系のアムラムが同じくレビの家系のヨケベデを妻として生まれた者で、ここからは他に私の兄であるアロンと姉妹ミリヤムが生まれました。このアロンもミリヤムも旧約聖書に登場していることは皆さんもご存じのとおりです。私の兄アロンはナダブとアビフとエルアザルとイタマルを生みましたが、ナダフとアビフとは主の前に異なった火を捧げたので天から火が降って死にました。
 さて早速私モーセが書いた出エジプト記から引用します。私は上記のとおりレビの家系から生まれてきたのですが、当時エジプトの王パロはヘブル人であるイスラエル人が多産で夥しく増えていたので(この頃はイスラエル人はエジプトに住んでいたのですが)、生まれた男の子は全て殺して女の子は生かしておくようにヘブル人の助産婦たちに命じていたので、私も出産直後から母から隠されていて、ナイル川の葦の茂みの中にパピルス製のかごの中に入れられて置かれていたのです。そしてそこでパロの娘が水浴びをしようとしてナイル川の川辺を歩いていた時、赤ん坊の私を見つけたのです。こうして私はパロの娘の息子になりました。そして彼女は私を「水の中から引き出したことから」モーセと名づけたのです。
 私が大人になった時、私はイスラエル人同胞の所へ来て、その苦役を見ました。その時自分の同胞であるヘブル人をあるエジプト人が打っているのを見て、あたりを見回し他に誰もいないことを見届けると私はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠したのです。ここからもはっきり露呈するように私自身も殺人を平気で犯すような単なる罪人であったことが分かります。その後私はミデアンの祭司からチッポラという娘を与えられてこの女と結婚し、男の子ゲルショムを彼女は生みました。
 イスラエル人はエジプトで労役に呻き神に向かってわめきました。彼らの労役の叫びは神に届きました。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。ここからイスラエル人のエジプトからの脱出である出エジプトへと繋がっていくのです。
 私モーセはミデヤンの祭司しゅうとであるイテロの羊を飼っていました。私はその群れを連れて神の山ホレブにやって来ました。するとエホバの使いが私に現れました。柴の中の火の炎の中でした。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きませんでした。私は言いました。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
 エホバは私が横切って来るのをご覧になりました。神は柴の中から私を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられました。私は「はい、ここにおります。」と答えました。神は仰せられました。「ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」
 またエホバは私に仰せられました。「私はエジプトにいる私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。私は彼らの痛みを知っている。私が下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ぺリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びは私に届いた。私はまた、エジプト人が彼らをしいたげているその虐げを見た。今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
 ここから神・エホバによる私・モーセを介してのイスラエル人の出エジプトが始まったわけですが、この出エジプトが文字上の意味ではなくて、内的な霊的意味で意味していることを申し上げます。ここではイスラエル人により霊的な教会に属している者たちが意味されており、出エジプトにより霊的な教会に属していた者たちが地獄から解放されることが意味されているのです。霊的な教会に属していた者たちとは、その当時霊界で天的な教会であった最古代教会の後に続いた古代教会の中で、地獄からの誤謬により悩まされ、天界の下にある霊界の低地に隠され守られていた古代教会人の末裔であるユダヤ・イスラエル教会人が意味されているのです。
 私はこの霊的な教会人を地獄を意味するエジプトから解放するために、イスラエル人を導いたのです。」
 以上モーセは自身の誕生から、イスラエル人のエジプトからの脱出である出エジプトの意味について述べてくれた。モーセは続けて述べた。
「出エジプトの詳細な記述は旧約聖書の出エジプト記に書かれてあるので、これ以上は同書から引用しませんが、その霊的な意味に隠された天界の秘義について申し上げたいと思います。ユダヤ・イスラエル教会である古代教会の後に続いた教会は天界の天的霊的なものを表象する単なる表象的な教会にすぎなかったのであり、霊的な教会そのものはイスラエル人のもとには存在しませんでした。これは後に生まれることになっていた主イエス・キリストによるキリスト教会を表象的に表わすものにすぎませんでした。
 その当時、天界のほとんどは最古代教会と呼ばれている神エホバへの愛に生きていた天的教会である天的天界からしか構成されていませんでした。古代教会であるその後の霊的教会は地獄の悪魔による誤謬の流入により、地獄からの拘束状態に置かれていました。主イエス・キリストはその地獄の拘束状態に置かれていた霊的教会人を救うために主にその理由のために世に来られました。主は神エホバが乙女マリアの中に宿られて処女懐胎により生まれられたエホバ御自身の肉体化された神人でしたが、世で伝道の末、ユダヤ人によって十字架処刑されました。主は死後三日後に全肉体を持って復活されて天の太陽エホバと合一されましたが、その時霊界の下に匿われていた霊的教会人を連れだって天界に戻って行かれたのです。主はこうやって霊的教会を地獄の魔の手から救い出されました。そしてキリスト教会を創設されましたが、西暦1757年にこのキリスト教会の中でもカトリック教会と改革派教会を霊界での最後の審判により裁かれたのです。
 その最後の審判により新エルサレム教会という永遠に続く教会が天界で創造されて霊界と地上に降って来たのです。その後に登場した主イエス・キリストの再臨を自称していた緒田士郎による誤謬の宗教も自然消滅してしまいました。
 現在天界は地獄からの攻撃から完全に解放されて平安の状態に置かれているのです。」
 以上モーセは霊界と天界の実態について述べてくれた。ここで私は霊界でのモーセの生活について彼に訊いた。
「私は古代教会の天使です。私は世で行った私の偉大な業績により傲慢になることもなく、自己卑下の状態で生きており、ここ古代天界で平凡に生きています。私の天界での仕事は、伝道師です。私は日中は精霊界に降りてきて伝道の毎日を生きています。私が世で旧約聖書に記されているように奇跡をたくさん行ったため、霊界でも奇跡を行っているのではないかと思う方も当然いらっしゃるとは思いますが、私はもうここ霊界では奇跡を行うことができません。なぜなら奇跡の時代はもう終わっているのであり、人々は奇跡により信仰するのではなくて、神の聖書に基づく信仰を持つことを神は定められておられるからです。
 ユダヤ人が死後私モーセを探して彼らの王にしようと企ててきたのですが、そのことは神によって完全に禁止されていることであり、私モーセはもう偉大なる予言者でも何でもありません。私は一人の妻と共に平凡な結婚生活を送っています。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「地球の皆様、私モーセはユダヤ人でしたが、世ではユダヤ人を地獄から救うために予言者の仕事を神から任じられていました。だからあなた方地球人にも、心の底から申し上げます。天地の神イエス・キリストは天の太陽エホバ御自身です。この方は乙女マリアにエホバの霊が宿って処女懐胎から生まれられたエホバ御自身の肉体化された唯一神なのです。
 現在この世の地球上ではこの神が受肉されたイエス・キリストを唯一神として信じている者はごく少数です。ほとんどの人間が聖書を真の新エルサレム教会の教義に従って読んでおらず、自分勝手な好き放題の人生を歩んでいるのが実情です。
 しかしです、死後の霊界での生命は永遠です。人間の生命は肉体の死により終わるものではなくて、霊界で永遠に続くのです。
 ですから、地球人の皆様、主イエス・キリストのみを神として崇めて十戒に従った生活を送りましょう。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとモーセは立ち去った。
 第十六日目はこれで終わった。

第十七日
 十七日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストはバルヨナ・シモン、すなわち、主イエスの12弟子の一人、ペテロである。私は昨夜、午後6時に寝たのであるが、9時前に目を覚ましてしまった。非常に眠いのだが、無理やり起きて、髭を剃り、バナナを食べて、コーヒーを淹れた。それから、サムエル記T22章を読み、マタイ伝7章を読んで、パソコンの前に座って、今日(明日?)の分を打ち込み始めた。今日の分を書き終わったら、また寝直すつもりである。
 それではペテロに登場してもらおう。
「こんばんは、僕はペテロです。緒田さん、僅か2時間半の睡眠で大丈夫ですか? 無理しなくていいんですよ?」
 私は無理を押し通す性分であるから、とにかく今日の分を終わらせないとまた寝る気になれない。よって無理やり続行する構えである。
「緒田さん、今日は新約聖書を基にして、私の言行録を引用して下さい。僕たち主の12弟子の言行録はただ新約聖書によってしか知ることはできないからです。」私は眠いのだが、それでも何とか書き終える強い意志を持っている。それでは本格的に始めよう。ペテロは語り始めた。
「僕は元々漁師でしたが、僕の兄弟アンデレと湖で網を打っていた時、イエス様の“私に従いなさい、あなたたちを人間をすなどる漁師にしてあげよう”という言葉に従って、父も網もそのまま残してイエス様に直ちに従いました。私達がイエス様に直ちに従ったのは、そのイエス様の言葉があまりに威厳に満ちていたからでした。」
 以上、ペテロはイエス様に初めて会った時に、イエス様に直ちに従った経緯を話してくれた。ペテロは更に続けた。
「イエス様はまた少し行かれると、ゼベダイの息子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になると彼らをお呼びになりました。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、直ちにイエス様に従いました。私達の他にもイエス様は全部で12人の弟子を呼び集めましたが、皆が直ちにイエス様に従いました。」
 私・緒田士郎はまず新約聖書のマタイ伝の主の山上の垂訓について彼らに訊いた。
「イエス様は群衆を見て、山に登り、お座りになると、弟子たちがみもとに来ました。そこでイエス様は口を開き、彼らに教えて言われました。
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受けるからです。心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子供と呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言を言われたりする時、あなた方は幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなた方より前に来た予言者たちも、そのように迫害されました』。私達は以上の御言葉をほとんどその文字上の意味のまま理解しています。それは実際この霊界で実現されていることだからです。続いて主は言われています。
『あなた方は、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。』ここでは塩は霊的意味で、真理の持つ善に対する情愛を表わしているのです。続いて主は言っておられます。
『あなた方は世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。またあかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなた方のよい行いを見て、天におられるあなた方の父をあがめるようにしなさい。私が来たのは律法や予言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことにあなた方に告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。』この御言葉もわたしたちはほとんどその文字上の意味で理解しています。また続いて主は言われています。『昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなた方は聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は最高議会に引き渡されます。また『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。だから、祭壇の上に供え物をささげようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼と一緒に途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。』この御言葉は隣人愛に関する教義です。またこれらの御言葉のほかにも『誰でも情欲を抱いて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。誰であっても不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また誰でも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのである。』と言われています。」
このようにペテロは山上の垂訓に触れたが、この最後の『情欲を抱いて女を見る者はすでに心の中で姦淫を犯したのである。』という戒めは、私・緒田士郎自身、ほとんど全然守っていないと言える。なぜなら私はアダルトビデオを見て、情欲を抱いて裸の女を見て,射精しているからである。私は毎週の安息日の礼拝で、この姦淫に関する戒めを私が全然守っていないので、その礼拝の冒頭で「私は情欲を抱いて女を見て精液を流している最低の地獄の悪魔です。」と告白して自慰行為をやめるように自己断罪しているのだが、全く一向にやめる気配がなく週に一度は必ずマスターベーションをしてしまうのである。私はいつかマスターベーションをやめて結婚して妻と性行為をする以外にはこの戒めを守ることができないと半ばあきらめている。つまり私・緒田士郎はまだまだ再生していないのである。
 ちなみにここでペテロの霊的意味について言及しよう。ペテロとは「岩」という意味で霊的には“愛の善から発した信仰”という意味を持っているのである。 
 ペテロは主イエス様が十字架にかけられる前に、こう言っている。
「私はたとえ今夜主のために皆がつまずいても決してつまずきません。たとえ主とごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
 しかしペテロは主の予言通り、主が十字架に掛けられている時、皆の者から「あなたもガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」という皆の言葉を否定して「何を言っているのか私には分からない。そんな人は知らない。」と言って呪いをかけて誓い始めたのであり、主を完全に否定したのであるが、これはペテロの霊的意味から分かるようにキリスト教会の信仰が最後に主の神性を完全に否定したことを表象しているのである。つまりカトリック教会とプロテスタント教会が、主イエス・キリストが父なる神エホバの肉体化された神御自身であられることを完全に否定して主を単なる人間としてしか認めなかったことを表象しているのである。
 この他には、ペテロはヤコブとヨハネと一緒に主と一緒に山に登った時、主の体が変容して、その顔は太陽のように輝きその御衣は光のように真っ白に輝いたことも目撃したのであるが、これは主が栄化(神化)されたエホバ御自身の化身であられることを表わしているのである。
 またヨハネの福音書第21章で、主は以下のようにペテロに言われている:彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 ペテロはイエスに言った。「はい主よ。私があなたを愛することはあなたが御存じです。」 イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」 ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することはあなたが御存じです。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」 ペテロはイエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことを御存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」 イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これはペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
 以上の御言葉が霊的意味で意味することは、教会の信仰が最後まで主への愛に基づいているが、その信仰は次第に誤謬の方向に逸れてゆくことを表わしています。
 私・緒田士郎はここでペテロが霊界でどんな生活を送っているかについて彼に訊いた。
「僕は第2の天界の天使です。僕は主への信仰を司っているので主への信仰に生きる第2の天界にいるのです。ちなみに主を最後に裏切ったイスカリオテのユダも含めて主の12弟子は全員天界の天使になっています。ユダは当時のユダヤ教会を表象しているのでユダヤ教会が主を十字架処刑して斥けたようにユダも表象的に主を裏切ったのですが、その直後後悔して自殺したように本当は主を愛していたし、主を裏切ることは彼の本音ではなかったのです。
 僕ペテロは世でそうであったようにここ霊界でも伝道に従事しています。主の12弟子はみんな伝道に従事しています。精霊界に入って来る霊たちに主が天の太陽であるエホバ御自身であることを教えて、十戒を守るように霊たちを導いています。
 僕の結婚生活ですが、僕は主から与えられた妻を心から愛しているし、妻以外の女を愛することは僕には不可能です。妻の結婚愛の力で僕は姦淫の罪から遠ざかっているのです。」
 私・緒田士郎は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「地球の皆様、僕たち主の12弟子はユダヤ人でありながら主への愛と信仰に生きています。しかしユダヤ人が主を十字架にかけたように、幼児を除いてほとんどのユダヤ人は主を神として認めておらず、主を憎んでさえいるのです。こんな不信仰なユダヤ人のようになってはいけません。ただ主イエス・キリストのみを天の太陽唯一神として信じて十戒を守って生きてゆきましょう。子供のように純粋な心を持っている人なら主を神として認めることは決して難しいことではありません。地球の皆様、天界での永遠の生命を生きることしか主は人間に望まれておりません。主の人類に対する愛は永遠無限です。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとペテロは立ち去った。
 第十七日目はこれで終わった。

第十八日 
 十八日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストは主の12弟子の一人、ヨハネである。ヨハネは12弟子の中でも主に特に愛された弟子である。ヨハネは霊的意味では仁慈の業を表わしている。だからヨハネの福音書を書いたのは彼であり、またヨハネの黙示録も彼の作にされている。
 それではヨハネに登場してもらおう。
「こんばんは、僕はヨハネです。今日はヨハネの福音書とそれからヨハネの黙示録について可能な限りその内的な意味を解説したいと思っています。それでは始めます。まずヨハネ伝の冒頭です:『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』ここでことばとは神の知恵の真理を表わし、神とは神の愛の善を表わします。つまり神の真理と善は最初から一つであったということです。次に:『ことばは肉となって、私達の間に住まわれた。』これは神の真理である霊が、乙女マリアの中で肉体となられ、神が実際に人間となられたことを意味します。
 それではヨハネ伝第3章の解説です:『まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。』これは人間は霊的に再生しなければ天界に入れないという意味です。続いて:『まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』ここで水とは神の真理であり、御霊とはその真理に従った生活を表わします。続いて:『御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく神の怒りがその上に止まる。』これは父なる神を信じるのではなくそれが肉となったイエス様をエホバの化身として信じる信仰が救う信仰であるという意味です。第4章と第5章の記述は文字どおりの意味なので解説しません。第6章では以下のようにあります:『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』これはイエス様ご自身が神の善であり、また神の真理であり、イエス様を愛し信じる者は善と真理が無限に与えられるという意味です。つづいて:『まことに、まことに、あなた方に告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』ここで言う命とは主を神として信じる者が持つ天界での永遠の生命を意味しています。続くイエス様の言う肉とはイエス様が神の愛の善そのものであることを意味します。続いて:『まことに、まことに、あなた方に告げます。人の子の肉を食べ,その血を飲まなければ、あなた方の内にいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの内にとどまり、わたしも彼の内にとどまります。』ここで言う主の肉とは神の善であり、その血とは神の真理であり、永遠のいのちとは死後の天界での永遠の命を意味します。第7章は文字どおりの意味です。第8章も通過します。第9章では:『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』これは主の神の真理は世を裁き、真理を知らなかった者が真理を理解するようになり、真理を知っていた者がそれを理解しないことを意味します。第10章では:『わたしと父とは一つです。』これは父なる神であるエホバは主の霊魂であり主はその霊 魂が肉体を取った神的人間性であるという意味です。第11章では:『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。』これは主は永遠の生命であられ、主を神として信じる者は死後天界に入って永遠に天使として生きることを意味します。第12章では:『自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』これは自己を愛する者は地獄に行くことになり自己を愛しないで主と隣人を愛する者は天界に入るという意味です。第13章では、主が弟子たちの足を洗ったことは、足は自然的なものを意味し、再生する者は最後に自然的なものを悪から清めることを意味しているのです。第14章では:『主が道であり真理でありいのちなのです。わたしを通してでなければ誰ひとり父のみもとに来ることはありません。』これは主が神の真理そのものであり、主を信じることは主の霊魂である父なる神と呼ばれる神的なものそれ自身を信じることになるという意味です。続いて:『主であるわたしを見た者は、父を見たのです。』これは父なる神とは主の霊魂そのものであり、主は父と呼ばれる神的なものそれ自身と子と呼ばれる神的な人間的な者であられ、主こそ父なる神御自身の権化であられることを意味します。続いて:『主から発出する真理の御霊とは』主から父なる神を通して発出する神的活動である神的真理を意味します。
 第15章では:『わたしはぶどうの木で、あなた方は枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなた方は何もすることができないからです。』これは主が霊的教会であるいのちそのものであり、主を信じる者は主から善をなすのであり、主を離れては何も善をなすことができないことを意味します。第16章と第17章は通過します。第18章と第19章は主の十字架処刑を取り扱っているので通過します。第20章は主の復活である肉体の栄化が取り扱われています。21章も通過します。
 以上がヨハネの福音書の概略です。」
 ヨハネは以上ヨハネ伝の霊的意味について述べてくれた。それではヨハネの書とされるヨハネの黙示録について彼に解説してもらおう。
「ヨハネの黙示録は霊的意味が分からなければ全くほとんど理解されることができません。そこでまず全体として黙示録には何が書かれているのかを申し上げて、次に特に解説を必要とする特定の語句の意味を述べたいと思います。まず黙示録にはキリスト教会がその揺籃期から誤謬に見舞われ最後には主イエス・キリストによる最後の審判によって終結に至る経過とその後に創設された新しい天界とそこから地上に降って来る新しい永遠の教会である新エルサレム教会のことしか記されていないのです。誤謬に見舞われたキリスト教会とはローマ・カトリック教会であり、それに続いて起こった改革派教会であるプロテスタント教会のことです。この2つのキリスト教会の教義について一言述べます。
 ローマ・カトリック教会は主であられる神を、父、子、聖霊の三つに分割し、その3者が分離した3人の神々であるという全くの誤謬を法王と枢機卿会議による詔勅で宣言し、その聖職者は信仰のカギをイエスから与えられた継承者であるとして神的な権威をことごとく自分たちに移譲したのです。彼らは一般の信者が聖書を読むことを禁じ、一般信者をその誤謬の教義によって奈落の底に突き落としたのです。
 その後、ルターらによる宗教改革で生まれたのがプロテスタント教会でした。彼らは人間は子なる神キリストが十字架処刑されたことによって父なる神をなだめられたのでありこの信仰を持つ者はただこの信仰のみにより十戒の戒めを守る必要もなく義とされ救われるという、いわゆる信仰義認説を発明したのです。この教会の教義は黙示録第13章の最後に登場する666の内的意味であり、666とは愛の善と信仰の真理が完全に不善化されまた誤謬化され単なる冒涜された悪と誤謬そのものとなったことを意味しているのです。
 主イエス・キリストによるこれら2つの悪と誤謬の教会が裁かれた最後の審判により、新エルサレム教会という永遠に存続する天界の教会が創設されたのであり、それは黙示録第21章に記されているとおりです。すなわち引用すると:また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第2の死である。」
 以上が黙示録の霊的意味です。」
 私・緒田士郎はここでヨハネ自身について、彼が天使なのか、また彼の生活について彼に訊いた。
「僕は第3の天界の天使です。そして僕は精霊界で伝道の仕事をしています。僕は第3の天界に住んでいるので、この我々の地球の霊界だけでなく、宇宙の他の惑星の天界や霊界にも旅行して伝道しています。主イエス・キリストはこの我々の地球に聖言を啓示されこの地球に生まれられたので、我々の地球は非常に大切な意義を持っています。確かに、その一方では、我々地球人のほとんどは邪悪な宗教感情を持っているので宇宙の嫌われ者ではありますが、それでも少数の正しい宗教と生活を持っている選ばれた民はこの地球人なのです。だから私達第3の天界の天使たちは誇りを持って日々伝道に励んでいます。
 僕の結婚生活についてですが、僕は世で生涯独身だったので、女性という存在にあまり近づきませんでした。しかし、2000年前、天界に入って初めて妻という貴重な宝を主から与えられました。僕はもう2000年間、この僕の唯一の妻を心からまた肉体からも愛し続けています。」
 私は最後に地球人に何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「地球人の皆様、私ヨハネは世でも心から主を愛していましたが、ここ天界でもあいも変わらず主を愛し続けております。主イエス・キリストという方はエホバご自身の肉体化された神なのですが、人間的な人柄の点から言っても完全無欠な人格者です。主以外には人間と呼ばれるに値する人間はいないということは我々天界の天使たちの常識です。
 皆様、とにもかくにも主イエス・キリストのみをエホバなる神として崇めて十戒を守って生きていきましょう。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとヨハネは立ち去った。
 第十八日目はこれで終わった。

第十九日
 十九日目の幻聴が始まった。
 今日のゲストは十八世紀の偉大な科学者、哲学者、予言者、人類永遠の教会である新エルサレム教会の創始者エマニュエル・スウェーデンボルグである。彼は1745年、57歳の時、天地の神主イエス・キリストの顕現に接し、以来、上は天界より、下は地獄に至る霊界の事象をことごとく主より示され、爾来、1746年著者58歳より1772年[84歳]に他界するまで、和訳書A5判に換算して約2万3千ページにも達する、驚嘆に値する厖大な宗教書を公刊した。この主の御再臨の書と呼ばれている宗教書に私・緒田士郎が出会ったのは26歳の時であり、27歳で洗礼を受けた。
 それではエマニュエル・スウェーデンボルグ氏に登場してもらおう。
「人類の皆様、こんにちは、私はスウェーデンボルグです。まず何から話しましょうか? 言いたいことは山ほどあるのですが、まずこの霊界通信を書いている緒田士郎君のことを述べましょう。私スウェーデンボルグは主イエス・キリスト自身から主の霊界での最後の審判に伴って起こった事象をつぶさに書いた啓示の書を夥しく書いたのですが、この緒田士郎君はその教えに踏み止まらず、自分を主イエス・キリストの再臨とする幻聴による「天の呼び声」なる書を書いて、甚だしく発狂してしまったのであります。彼はただ単に統合失調症患者であり、彼が唱えた自分は主の肉体による再臨であるという主張は完全に間違っており彼の単なる思い込みに過ぎなかった誤謬に過ぎないことを私はここに厳かに宣言します。しかし、緒田士郎君についてはもうこれ以上彼を責めるつもりはありません。なぜなら彼は単なる幻聴に支配されている統合失調症患者であり、彼が書いた誤謬の作品群は彼の発狂の産物に過ぎないからです。
 私スウェーデンボルグは今日ここに改めて、主イエス・キリストの霊界での御再臨の書は私の書いた一連の著作群であり、その私の書いた主の御再臨の書は未来永劫に亘る人類最後の啓示書であることをここに厳かに宣言します。」
 以上、スウェーデンボルグ氏は私の書いた「天の呼び声」等の小説が完全なる狂人の頭脳の産物である誤謬に過ぎなかったことを主張してくれた。これで今回のこの霊界通信執筆の最大の目的であった私の謝罪は果たされたと言っていいであろう。読者の皆様、私はここに改めて自分の過ちを宣言します。私は単なる統合失調症患者です。私の書いた主の再臨を主張した作品群は全て誤謬です。私は続いてスウェーデンボルグ氏に真のキリスト教の何であるかを述べてもらおうと思う。
「緒田士郎さんの釈明もこれで完結したので、それでは本当の永遠の天界の教会の教義をここに改めて宣言します。その教義は以下のものです:
1.神はただ一人であられ、その神は救い主、天地の神主イエス・キリストであられる。
2.救いの信仰とはただ主イエス・キリストのみを神として信じることである。
3.悪は悪魔のものであり悪魔から発するゆえこれを避けねばならない。
4.善は神のものであり神から発するゆえこれをなさねばならない。
5.以上は人間からなされるものとして行わねばならないが、他方それは人間を通して人間のもとにおられる主から発していることを信じなくてはならない。

以上の教義はあくまでも現実の死後の世界である天界の真の教義であります。また聖書の主の二人の証人である、イエスの証と神の戒めとは主イエス・キリストのみを天地の神として承認することでありそして十戒を守ることです。ここで改めて十戒を確認しておきます。
1・天の太陽エホバであられる主イエス・キリスト以外に何ものをも神としてはならない。
2.汝主の御名をみだりに口にしてはならない。
3.安息日を覚えてこれを聖別せよ。
4.汝の父と母を敬え。
5.汝殺すなかれ
6.汝盗むなかれ。
7.汝姦淫するなかれ。
8.汝隣人に対して偽りの証をたてるなかれ。
9.汝隣人の家をむさぼるなかれ。
10.汝隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、並びに汝の隣人の所有をむさぼるなかれ。
 アーメン。
 以上が天界の基本的教義です。」
 スウェーデンボルグが今述べた教義は、私・緒田士郎が毎週安息日に礼拝するときに必ずその冒頭で告白する教義であり、私にとっては命の教義となっているものである。これは緒田士郎だけの教義だから、私達門外漢には一切関係がないとは言ってはならないのである。なぜなら人間は死後霊界に入った時、天界から来た天使に教えられるのは以上の基本的教義に過ぎないのであり、それ以外には天界の教義は一切存在しないからである。
 それではスウェーデンボルグ氏に霊界と天界の実情について話してもらおう。
「霊界とは死後の世界の全てであり、天界と地獄を総称した名称です。それに対して精霊界という名称は、人間が死後、まず入って来て、天界か地獄かどちらかに向かって準備する所です。精霊界には死後の人間が全て入って来るため、実に無数の夥しい霊たちがおり、天使たちから上記の天界の教義を教えられて、天界か地獄かに向かって準備するのです。西暦1757年の霊界での主による最後の審判が起こる前までは、この中間世界である精霊界に何百年もいることが許されていたのですが、その最後の審判以降は、精霊界には30年までしか留まることが許されなくなりました。つまり現在では人間は死後、最大長くても30年以内に天界か地獄か、そのどちらかに入らなくてはならないのです。
 また例外として天界でも地獄でもない単なる物として処遇される“それ”と呼ばれる霊の世界があります。“それ”とは、熱くもなく冷たくもなく(つまり主に対する信仰心が時にはあったりまた時にはなかったりする)生ぬるい状態の霊であり、これらは天界でも地獄でもない単なる幻想(ファンタジー)しか存在しない分離した世界であり、天界である巨大人から口から吐き出されるように胃から(つまり霊界から)吐き出される冒涜者であります。
 以上の天界と地獄と“それ“の世界の三者のいずれかに人間は死後赴く運命にあるのです。人間は死後の生命のために生まれているのであって、霊界とは人間が肉体の死後、永遠に生き続ける真に実態的な世界なのです。 
 それでは天界の実情について、その実情を少しく話します。天界の天使となった人間は最も高い天界である主イエス・キリストに対する愛に生きる第3の天界に住むか、中間の天界である隣人に対する愛に生きる第2の天界に住むか、それとも最低の天界である信仰の善に生きる第1の天界に住むか、そのいずれかです。第3の天界の天使は木でできた天幕をその住まいとしており、第2の天界の天使は石でできた家をその住まいとし、第1の天界の天使はこの世の家のような住まいに住んでいます。この天界の区別のため、一つの天界の天使は他の天界の天使たちの間に来ることはできません。すなわち、誰も低い天界から昇ることはできず、また誰も高い天界から降ることもできません。誰でも低い天界から昇る者は不安に襲われて、苦しみさえもし、その近づいて行く者たちを見ることはできず、ましてその者たちと話すことはできません。また誰でも高い天界から降る者はその知恵を奪われ、言葉がもつれ、絶望してしまいます。天界は天使たちの内部にあることを未だ教えられていないで、高い天使たちの天界へ入りさえすれば高い天界の幸福の中へ入るであろうと信じていたところの最低の天界から来ている若干の者が彼らの間に来ることが許される時は、彼らはどれほど探してみても、非常に多くの者が彼らのまわりにいるにも拘わらずその高い天界の天使を誰ひとり見ないのです。なぜならその低い天界の天使たちであるその外来者たちの内部はその高い天界の天使たちの内部と同じ度に開かれておらず、従って彼らの視覚も開かれていないからです。まもなく彼らは自分たちは生きているのか、いないのか、ほとんど分からないほどの心の苦悶に襲われます。それで彼らは大急ぎでその後にしてきた天界へ、自分たちに似た者たちの間へ再び来たことを喜び、自分たちの生命に和合した物以上の物を自分たちは今後決して求めはしないと決意するのです。
 つまり、天界が3つの層に分かれれているのは、天使を差別しているためではなくて、天使の内部の霊的状態が異なっているためであり、主を愛する天的な天使と、隣人を愛する霊的な天使と、信仰の善に生きる自然的な天使とは互いに直接的な交流を持つことができないからです。
 以上が天界の実情です。」
 スウェーデンボルグは以上、霊界と天界の実情について話してくれた。
 ここで私・緒田士郎はスウェーデンボルグの天界での生活について、特に彼の結婚生活について彼に訊いた。
「私スウェーデンボルグは世で主による最後の審判を目撃したただ一人の肉体を持った人間でした。私の世での使命はあくまでも天界と地獄の存在を真のキリスト教をその他霊界に関する実情を世の人々に主イエス・キリストご自身から啓示することでした。その使命を果たして死んだ私は、第3の天界の天使となりました。そして私の天界での仕事は、全天界のための教義書を書いて、日々これを宇宙中に広めることです。私は世にいた時と同じように活動的な生活を送っております。
 次に私の結婚生活についてですが、私は世では何度も結婚しようと企てたのですが、結局生涯独身を貫きました。そして私ははっきり申し上げます。私は世では完全に童貞であったのであり、娼婦も含めて、決して如何なる女性とも性行為を持ったことはないのです。
 ここ天界で、永遠の妻と結婚した私は、初めて女性の甘美な魅力を享受することができました。それは言葉では全く表現することもできない最上の快楽です。はっきり申し上げて、妻との毎日のセックスほど、楽しい喜ばしいものはありません。私は世で童貞を貫き通して良かったと改めて痛感しております。こんなに見目麗しい美しい女性の裸身を見ることはまたその肉体を愛することはまさにこれ以上の幸福はないと言えるほどです。」
 私・緒田士郎は最後に地球人に対して何かメッセージはないかと彼に訊いた。
「私スウェーデンボルグは世に生きながらにして霊眼を開かれ霊界の実情を実体験してこれを書物として書き記し公刊した人類史上最大の奇跡を主から遂行した人間ですが、こうしてもう250年近く天界で生きていて最高度に幸福な人生を生きています。結婚生活がこんなに快い甘美なものであることは実体験してみて言葉では全く表現できないほど素晴らしいものです。
 地球人の皆様、死後の天界での生活を決してあきらめないで下さい。あくまでも主イエス・キリストのみを天の太陽エホバとして崇めて十戒に従った生活を送りましょう。幼児で死んだ者は全員天使になるのです。大人は天界に入れないなんて不合理なことが霊界での実情ですが、こんなことがもうないよう私は主の御再臨の書を書いたのであり、またここにいる緒田士郎さんもこの霊界通信を書いているのです。皆さん、どうか天界に入って私達天使とともに永遠に幸福な天界生活を送って下さい。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。」
 以上を述べるとエマニュエル・スウェーデンボルグは立ち去った。
 第十九日目はこれで終わった。

第二十日
 二十日目の幻聴が始まった。
 今日はこの霊界通信の最終日である。よって今日はこれまでとは違う荘厳な雰囲気に包まれた幻聴が私を強く突き動かしていた。そうである。今日のゲストは他でもない天地の神主イエス・キリスト、エホバご自身である。私はこの最終日のために昨日は非常に興奮していた。そしてこういう得体の知れない霊からの幻聴を聞いていた。それは「おまえ緒田士郎は「天の呼び声」で自分は聖霊の生まれだと言っていたのだから、死後の生命などなくおまえの霊は死後天の太陽に吸収されて燃え尽きて亡くなってしまう。」というものであった。私はそれもやむを得ないと思って聞いていたのだが、人間の生命はたとえ神の生まれ変わりだという誤謬に陥っていたとしても必死になって悔い改めたなら救われないであろうか? 私は言いようのない憤りと不条理を感じている。そのことも含めて主イエス・キリストに今日は包み隠さず真実を語ってもらいたいと願っている。
 それでは天の太陽エホバであられる主イエス・キリストに登場してもらおう。
「私は天地の神主イエス・キリストである。私は神であって私の他には誰もいない。私以外に神はいない。私はただ一人で天を押し広げ地を形作り地の上に人間を創造した。私の他には神はいない。私はエホバである。緒田士郎よ、おまえは悪霊に取りつかれて気が狂っている。おまえの命もほかの人間と同じく人間の命であって死後に私に吸収されて燃え尽きて亡くなってしまうなどということは絶対にあってはならないことである。私はおまえが私をかつては冒涜した最低の地獄の悪魔であることを知っている。私は全てのことを知っている。おまえは確かに私の御名を冒涜したが私はおまえにそれでも悔い改めて生命を持つことを許した。私は神である。私の他には一人も神はいない。」
 私は涙があふれてきて嗚咽をあげてむせいだ。涙があふれてきてとまらなかった。これは明らかに神ご自身であり主イエス・キリストに違いない。私は今まで何度もイエス様の顕現に接してその度に号泣してきたことがある。主イエス・キリストはあくまでも愛の無限の慈愛に充ち溢れた愛の神である。私はイエス様に更に続いて語ってもらいたい。
「私は神である。私の他には神はいない。一人もいない。私の歴史について今これを読んでいる読者にも話そう。皆の者、私は主イエス・キリスト、ただ一人の神である。
 その昔のことである。まだ宇宙を創る前、私は初めから存在していた。私はあってある者・すなわちエホバである。私は最初から天の太陽であった。なぜなら私以前にいた神などただの一人もなく、私は決して創造されたことのない天の太陽エホバであるからだ。私はただ一人存在する天の太陽であったが、私には妻がいなかった。なぜなら私は永遠から一人ぼっちであったからだ。私は私を愛する妻の創造を計画した。その妻とは私が創ろうとしていた人類から発する天界の巨大人であった。私はこの人類から発する巨大人である天界を私の妻となる女の形に創造しようと計画していた。
 そして私の人類創造の業が始まった。私はまず最初から霊界の太陽であった。それで私は自然界の宇宙の創造を最初にもくろんだ。まず無数の太陽である恒星を創造した。その自然界の太陽である恒星は私・天の太陽の熱である愛の善と光である信仰の真理から創られた。私は無数の恒星の周りに公転する惑星の創造を計画した。そして私は無数の惑星にまず水を創造した。天と呼ばれる大空と大空の下にある水を創造した。それから水から海を創造した。そして土から成る陸を創造した。次に陸の上に植物、おのおのその種類に従って種を生じる草、各々その種類に従って、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。次いで私は恒星である太陽から昼と夜とを区別するように創造した。天の大空に光る恒星が存在し、地上を照らした。それから神である私エホバは恒星である太陽の他に夜を司る小さい方の光である月を創造した。この月は太陽の光を反射して夜の光るものとして創造された。次いで私は「水は生き物の群れが群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と言った。それで私は海の巨獣と、その種類に従って、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類に従って、翼のあるすべての鳥を創造した。私はまたそれらを祝福して言った。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」
 次いで私・エホバは「地は、その種類に従って、生き物、家畜や、はうもの、その種類に従って野の獣を生ぜよ。」と言った。するとそのようになった。
 私は、その種類に従って、野の獣、その種類に従って家畜、その種類に従って地のすべてのはうものを創った。
 そして私・エホバは「わたしに似るように、わたしの形に、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。」と言った。 
 私・エホバはこのように、人を私の形に創造した。神の形に彼を創造し、男と女とに彼らを創造した。
 私は、彼らを祝福し、このように彼らに言った。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地を這うすべての生き物を支配せよ。」
 次いで私は言った。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがた人に与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」するとそのようになった。
 こうして天と地とそのすべての万象が完成された。それで私・エホバはそれを安息日と宣言し、創造のわざの完成を告げた。その日を第七日目の安息日と宣言した。
 こうして創造のわざを完成し、男と女である人類を創造した私・エホバは彼らが子を産んで地に増えるように命じた。こうして人類の繁殖が始まった。私はこの人類の死後の霊界を創造した。霊界に群がりくる人類の霊から天界を造り彼らを天使として創造した。
 こうして天界の天使が全宇宙から増え始めた。私・エホバはこの天界を私の妻となるように巨大な女の形に創造した。
 こうして私・エホバの永遠の妻である天界の万象が形成され始めた。この私の妻である天界の巨大人の創造は永遠に続くであろう。私の妻は永遠に完成に向かって私・エホバを愛し続けるであろう。」
 以上、エホバであられる主イエス・キリストは人類と天界の創造の一部始終を語られた。
 私・緒田士郎は次にその後の人類の歴史について主に訊いた。
「人類の出生は永遠に停止しないであろう。全宇宙の惑星から霊界にくる霊から天使が誕生し天界は永遠に繁栄し続けるであろう。
 しかしこの太陽系の第3惑星の人類であるあなたら地球人よ。あなたらの地球は確かに宇宙中の天使から邪悪であるとして嫌われているが、私エホバである主イエス・キリストはこの地球を特に選んで愛している。なぜなら私・エホバはこの地球に聖言を特別に啓示して与えこの地球から全霊界に天界の真理が行き渡るようにこの地球を選んでいるからである。
 それではこの地球の人類の歴史について触れよう。
 私・エホバは最初の人類からまず最古代教会と呼ばれる私・エホバへの愛に生きる教会を創造した。これはアダム教会とも呼ばれている。この教会人である最古代人は天界の天使と直接の交流を持ち、私・エホバを人間である神として礼拝していた。しかしこの最古代教会は私・エホバに対する愛から信仰へ逸れ、遂には信仰も絶えてしまった。そして最後はネピリムと呼ばれ、信仰の教義事項を汚れた自己愛の欲念にどっぷり浸して自分たちを神として恐ろしいまでに自己過信する種族が現れた。そこで私・エホバはこの最古代教会の末裔をノアの洪水と呼ばれる最後の審判により絶滅させた。
 その洪水後に私・エホバが創造したのが古代教会であった。この古代教会は私・エホバに対する愛よりも隣人への愛に生きる霊的な教会であった。この古代教会はノア教会ともまた呼ばれているがセム、ハム、ヤぺテの3種類の教会に派生した。セムは内的に私・エホバを信仰する教会であり、ハムは内的に腐敗した教会であり、ヤぺテは内的信心を伴った外的信仰を持った教会であった。しかし、この古代教会も次第に偶像崇拝に堕落していき自然消滅していった。
 次いでその古代教会の後に登場した教会が、アブラハムを始祖とするヘブル人から派生したユダ・イスラエル教会であった。アブラハム、イサク、そしてヤコブと続いてきたこの新しい教会は、天的霊的なものを表象する単なる表象的な教会であって教会そのものではなかった。ヤコブはその11番目の息子ヨセフ(時のエジプトの宰相であった)の招きにより天界を意味するカナンの地からエジプトに移住した。
 ところがエジプトに移住したヤコブの子孫たちはやがてエジプト人の奴隷と成り果てていった。時のエジプトの王・パロは辛いレンガ仕事の重労働でヤコブの子孫イスラエル人の生活を圧迫した。ここに現れたのがモーセであった。モーセは私・エホバから啓示を受けて、エジプトの地であらゆる災害をもたらす奇跡を行ってついにイスラエル人を神礼拝の名目のもとにエジプトから脱出させた。これが世に言うところの出エジプトであった。
 それから更に時がたって、旧約聖書を私・エホバからの啓示で与えられていたユダヤ人が堕落して遂には救い主の降臨すらもほとんど信じなかった最終局面で、私・エホバは乙女マリアに霊として宿って処女懐胎することにより、イエスとしてこの世に歴史上初めて誕生した。私は霊的神であったが遂に肉体を身に帯びることにより神人となる計画を実行した。そして30歳の時にユダヤ・イスラエルの地のみに自分が神から遣わされた神エホバの独り子であるという福音を携えて伝道を開始した。新約聖書に記されているように盲人の眼を開け、死人を蘇らせ、嵐をたった一言で鎮めるというような様々な奇跡を行い、エルサレムで最後に十字架処刑というユダヤ人の冒涜によって殺された。
 しかしである。私イエスは三日後全肉体をもって復活した。つまり肉体をも栄化(神化)させて天地の神主イエス・キリストとして完全なる神人となった。人類の歴史上、空前絶後のことであるが、全肉体をもって死後復活した者はまた全肉体をもって復活するであろう者はこの私エホバである主イエス・キリスト以外には絶対にあり得ないのである。
 そして私主イエス・キリストは天の太陽に昇って父なる神エホバと合一した。ここから始まった教会が私の12弟子による原始キリスト教会であった。
 しかしである。このキリスト教会もその後腐敗堕落の一途をたどった。まずカトリック教会であり、その後のプロテスタント教会である。この教会については前に天使たちが述べたので割愛する。
 そして遂にこの腐敗したキリスト教会に対して、西暦1757年、霊界で最後の審判が行われた。これ以降、以前は何世紀も留まることを許されていた精霊界も最大30年という期限が決定された。
 そして現代になって様々な異端が生じてきたキリスト教会であったが、遂にこの霊界通信を書いている緒田士郎が登場した。緒田士郎は「天の呼び声」「続・天の呼び声」という単なる誤謬の宗教書を書き、“自分は主イエス・キリストの再臨であり、36歳で入滅して全地獄を消滅させたのであり、この地獄の悪魔どもは西暦2043年に亡霊として霊界の外に追放され、とうとう全人類が天界に入れる時代がやって来るという”誤謬の名もなき宗教を創ったのである。しかし、天の太陽主イエス・キリストはこの緒田士郎の暴挙をやめさせられ、彼は2005年11月に自身のホームページを閉じて完全なる悔い改めの生活に入ったのである。 
 それから11年の月日が流れた。2016年完全なる悔い改めから緒田士郎はまた帰って来た。そして今日この霊界通信を書き終えようとしている。今回のこの霊界通信はただ単に緒田士郎の懺悔の告白書であるだけではなく、霊的に迷える人類に、スウェーデンボルグの創始した新エルサレム教会が永遠の天界の教会であることを改めて啓示するためであり、これをきっかけに人類を死後の永遠の天界に招き入れるためでもあった。
 地球人の読者たちよ、私は天地の神エホバである主イエス・キリストである。私のみを神として崇めて十戒を守って、死後天界の天使になりなさい!これは私からの命令である。地獄などというほとんど無意味なものは、緒田士郎が実験したように、いつか私は滅ぼそうと思っている。しかしまだその時は満ちていない。なぜなら私主イエス・キリストは人類全部を愛しているからであり、地獄の悪魔ですらも不憫でいとおしいからである。
 以上が、人類の歴史と私主イエス・キリストの本音である。」
 このように主イエス・キリストは人類全員に語りかけて下さった。
 私・緒田士郎は最後に地球人に対して何かメッセージはないかと神に訊いた。
「何度も言うように私が天の太陽エホバである主イエス・キリストである。人類すべての者よ!偶像崇拝を捨ててただ私のみを神として崇め十戒を守って死後天界に入りなさい!
 地獄などという下らない世界に生きることはやめなさい!
 私だけが天地の神主イエス・キリストである!!!。」
 以上を主が述べると、今全天界が主に対する感謝の告白を捧げ始めた。老いも若きも男も女も全ての天界の天使が主の御名を告白した。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。

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文芸同好会 残照