真砂本町


 2006年から、縁あってこの町に住んでいる。
 最初のうちは、帰る我が家への道程をたびたび間違い、細い路地の入り混じる分かり難いところだと思った。
 今でこそどの路地がどこへつながっているのか把握しているが、この町はいちげんさんを撥ね返す見えない力を持っていると感じている。
 真砂本町はどことなく冷たい。
 私は休日に町内を宛てもなくぶらぶらするうちに、この町が何故こんな雰囲気を醸すのか考えるようになり、それがやがて癖になり、ライフワークとなり、このWEBサイトをつくるまでいたった。勝手サイトとはいえ、自分で設けたスペースだ。少し自分の考えを書かせていただこう。というわけで、この町独特の冷気について語るべく、「論・真砂本町」の筆を執った。

 真砂本町は、生活者の町だ。だから生活者同様、常に時代の影響を受けてきた。

 ひとむかし前、「一億総中流」という言葉が叫ばれていた1970年頃、日本の経済成長はピークに達し、誰もが豊かに生活をしていた。しかし豊かさの裏側では、産業の高スピード化が熾烈を極め、「人間らしさ」が置き去りにされていた。相次ぐ自殺・過労死。過剰な時代にあって心のバランスをなんとか保とうとあがく人々は、いつしか「働く場所」と「生活する場所」を明確に分けようと試みた。いわゆるベッドタウンの誕生で、ONとOFFのきりかえを、地理的に明確にしようとしたのである。
 真砂本町はそんな時代の要請から「生活する場所」として位置づけられた。商業の中心地からそれほど離れているわけでもなく、かといって田舎過ぎて不便ということもない。谷山からも、天文館からも、近からず遠からず。人々は街で心身をすり減らして働き、帰る真砂本町では家族と共に疲れを慰めた。真砂本町に要求されていたのは、働く生活者たちの憩いのための静寂と無病息災。それ以外の期待はなく、明るさ・にぎやかさなどはむしろ敬遠されるべきものだった。

 過剰な時代が終わりを告げ、次に訪れた慢性的な不景気に全国民がやや慣れはじめた昨今、真砂本町にかつてほど憩いの需要があるわけではない。昔から住む人々は、年をとり、安穏とした隠遁生活に移行している。けれども当時の在り方がしっかり染みついている真砂本町は、いまでも静寂と無病息災を求められ続ける場所のままである。
 ためしに通りを散策してみるといい。朝だろうが昼だろうが夜だろうが、往来にあまり人影をみることはない。郡元方面から勢いよく新川の橋を渡ってくる車は多いが、それとて国道の渋滞を避けるための迂回に過ぎない。真砂本町に用件のある人間なんてほとんどいないし、この町の人間にしても、そこにいること自体が目的であり、敢えて町内をぶらつく理由などひとつもないのだ。

 有為のための無為。それがこんにちの真砂本町のイデオロギー。
 だからこそ真砂本町は隙間的で、デカダントで、地味で、寡黙なのだ。最初にわたしがこの町に妙な排他性を感じたのはそのためなのかもしれない。

 そんな真砂本町だが、時代を遡ると、かつては鹿児島中の視線を集めた場所だったということを、多くの人は知らない。
 1948年から1956年までの8年間、この地には「鹿児島競馬場」があり、地方競馬で南九州を賑わせた(当時はまだ真砂本町という地名は無い)。こん日その痕跡を真砂本町内において見出すことはできないが、現鴨池運動公園のグラウンドはそのころのトラックの名残であると聞いたことがある。
 また、1972年まで操業されていた鴨池空港は現在のスーパーハルタ・アポロ店あたりに建物があった。店舗は空港ターミナルを居抜きで使っている。変わった形の建物に、途中から先がなくなっている階段。こういった不思議なオブジェはその名残だ。その隣には、バス会社の格納庫があったが(現在は解体・消失)、異様な大きさを不思議に思った人はいなかっただろうか。それもそのはず、元は航空機の格納庫だったのである。戦中は軍用機も格納されていたという。

 このように歴史を紐解くと、戦中・戦後と、真砂本町は人々の集中する賑わいあふれる場所だったことがわかる。その後1970年代の高度経済成長の過剰な時代を経て現在、町はいつしか人目から離れてゆき、静かで、他所からの干渉をうけない住宅地域に様変わりしていった。おそらくこの地域自体がなんらかの意志を持ち、自ら望んでそのように変わっていったに違いない。というのも、1996年に鹿児島県庁が間近に移転してきても、その佇まいをかえることなく、相変わらずの落ち着きを維持しているからである。町自体が、有為のための無為を醸成し続けることで、町民の憩いの生活を守ろうとしているのかもしれない。そのために、外的なあらゆる刺激をシャットアウトしようとする意志がはたらき、排他的雰囲気をうみだしているのかもしれない。

 これから先の時代、真砂本町が鹿児島においてどんなポジションになるのか、どんな色を放つのか、それは分からないが、いましばらくはこれまでどおり、有為のための無為のままであり続けそうだ。

記:真砂本町一住民 (2011/04/20)

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■歌謡曲→『青いネオンが泪に滲む』