文芸同好会 残照

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残照TOP  [ ジャンル ] 随想   [ タイトル ] 緒田士郎の或阿呆の一生(2)

緒田士郎の或阿呆の一生(2)    緒田士郎

 |  幼少〜大学 |  洗礼〜現在 |

3.洗礼・発狂・偽キリストまで

 人間は皆自分の人生のために生きている。自分が不幸になることが分かっていながらその選択肢をわざわざ選ぶ阿呆はいない。しかし、その常に不幸になる選択肢を分かっていながら敢然と選ぶのがこの彼であった。彼は結局自滅の道を選ぶ或阿呆に過ぎなかったのである。それでは彼の人生に戻ろう。
 26歳でスウェーデンボルグに出会って一瞬不幸の中にも幸福の頂点にいた彼だったが、早稲田大学を中退した彼を待っていたのは過酷な現実の世であった。彼には当然就職の道などあろうはずもなく、路頭に迷うこととなった。そんな彼に早稲田大学の時のプルトニアンと彼自身が名付けた文芸同人誌仲間だったY・Oから新聞の求人広告欄から就職先の紹介があった。それは経済雑誌「財界展望」の広告営業員募集の記事だった。彼は紹介されるままにそこに応募した。就職採用試験など一切なくただ社長とその息子の副社長による面接だけであった。彼は採用され無事に東京での会社員生活が始まった。
 そしてその年平成5年のある日に、彼は新エルサレム教会で洗礼を受けた。彼はその時27歳だった。彼が洗礼を受けた動機は彼自身の意思によるものではなく、その教会の職員による一方的強制によるものだった。彼は毎月一度の日曜礼拝の時、彼の月収の十分の一を教会に寄付していた。
 さて東京の経済雑誌「財界展望」で会社員生活を送っていた彼だったが、その月給は25万円で社会保険費を引かれて手取り約20万円であった。広告営業とはこの会社の雑誌に広告を載せることであり、彼は広告営業の経験など過去に一切なかったため、非常に苦戦していた。それでも毎日色んな企業に電話をかけては営業に出掛けて行って、やっと1件だけしかもたった10万円の広告獲得に成功した。それは単なるお付き合い広告だったが、その企業は栄養ドリンク“ユンケル”で有名な佐藤製薬であった。その後、彼は“大学広告企画”を思い付き、新設大学を中心とした大学広告特集を企てた。そして毎日会社から支給される交通費を使って関東圏内の新設大学に営業してまわった。しかしこの彼の努力は全く実を結ばなかった。そして会社員生活最後の頃に、全国ビジネスホテル協会の広告獲得に成功して僅か6ヶ月の「財界展望」の会社員生活にピリオドを打った。
 この「財界展望」時代に唯一楽しかったことは、名前は全く忘れたが、編集部記者の駒沢大学出身者との交友関係であった。彼はその会社の友達と週末金曜日の夜に一緒に飲みに出掛けて、楽しく語り合った。そして早稲田時代からフォークギターを弾いて自作曲などを作っていた彼は、その友達とスタジオを借りて音楽の創作を一緒に行った。前章で書き忘れたが早稲田の東洋哲学科所属の友人のギタリストA・N君と共同で曲作りに励んだことのある彼は、この「財界展望」の友達とも仲良く曲を作って楽しんだ。しかしこの幸福な時代も僅か半年の「財界展望」生活の終焉と共に終わってしまった。彼は退社後、間もなく鹿児島に帰郷することになった。
 帰郷する際、彼がまず実行したのが“禁煙”であった。彼は一大決心をしてタバコをやめた。そして実際に鹿児島に帰郷して、彼が行ったことは、手に専門的な技術を身につけるために専門学校を探すことだった。彼は父親と一緒に専門学校を訪問してまわって、結局ある専門学校に決めた。それは司法書士という法律の専門学校であった。司法書士は司法試験に極めて類似していてその網羅範囲は民法、商法、刑法、民事訴訟法、不動産登記法、商業登記法などであった。彼は中央法経学院というその司法書士の専門学校でまずは民法の勉強から始めた。彼は文学部などという極めて非実用的な分野で生きていたため、この法律の世界は彼にとって新鮮だった。彼は六法全書を買って民法をその条文から判例に至るまで徹底的に勉強した。その専門学校では毎週2回夕方6時から9時まで、まだ30代半ばの現役の司法書士による法律の授業が行われた。彼はいつ合格するとも知れないこの司法書士の勉強を順調に進めるかもしれないと思われた。しかしここで彼の人生の破滅を告げる悪夢の事件が起こったのである。
 それは28歳の秋であった。彼はこの中央法経学院で、ある美しい女性を見染めた。その女性F・Mさんは見目麗しい美女で、彼はこのすぐにこの女性の虜になった。彼は彼女に声をかけてまずその生年月日を聞いた。もちろん四柱推命をして彼女の運命式を調べて彼との相性を見るためであった。結果は大吉だった。彼女との相性は大吉だったのである。興奮した彼は彼女を誘ってビル1階の喫茶店に誘った。そして一緒に仲良く語り合った。彼は思った−「この女性こそ彼の永遠の妻に違いない」と。
 しかし、そんなある日、授業の休憩中に彼は彼女を誘って階段の踊り場まで彼女を連れて行って彼女に結婚を申し込んだ。そして彼女の返事は以下のようであった:「私には婚約者がいます。あなたとは結婚できません」。これが彼の悲劇の始まりだった。
 彼はいわゆる“幻聴”が聞こえるようになった。彼女F・Mさんからの声がまるでテレパシーのように彼の頭の中で交錯し始めた。のみならずあの世のあらゆる霊たちの声が幻聴となって聞こえ始めた。これが統合失調症の発病であった。彼はギターを持って車であちこち彷徨し始めた。幻聴の命じるままに車でさまよって叫び続けた−「俺は天地の神主イエスだ!」。そして彼女F・Mさんの自宅マンションへ行って、その呼び鈴を鳴らすと、彼女が玄関先に出てきた。しかし彼は彼女の前で一言も話すことができずじっと立ちつくすままであった。彼女は「どうなさったのですか?」と彼に訊いたが彼が押し黙ったままでいるので、不憫に思った彼女は彼を近くの喫茶店まで連れて行ってくれてサンドイッチとアイスコーヒーをおごってくれた。外に出て二人で一緒に歩いている時、彼はその年の司法書士試験に合格したのは、同専門学校の獣医師の受験生だったK氏なのに、「合格したのは私です。彼ではありません。」と彼女に向かって叫んで、完全なる発狂の姿を彼女の前に晒したのである。果たしてこういう阿呆な男に幸せな結婚ができるだろうか?どんな女がこういう最低の阿呆な男に惚れるだろうか? 私の阿呆なる人生は決して留まるところを知らないのである。
 遂に最終的には彼は海岸の高速道路で自動車正面衝突事故を起こし、そのまま精神病院入院となったのである。彼は人生そのものも人格すらも堕地獄の最低の阿呆男と成り果てたのであった。
 さて28歳で主イエス・キリストの再臨だと自称する最低の阿呆男となった彼の精神病院入院生活は3カ月続いた。入院中面会に駆けつけてくれていた彼の両親が、ほぼ顔面蒼白となった彼を退院させてくれたのである。
 精神病院退院後自宅でしばらくの間療養生活を送っていた彼だったが、両親の勧めもあって中央法経学院に復学した。彼は自主的には勉強もできるような脳の状態ではなかったが、それでも授業にだけは出続けて、司法書士の最低の専門知識を表面的には学び続けた。
 そしてしばらくして専門学校の校長の口利きである司法書士の事務所に勤めることになった。この司法書士はT・I氏で彼と同じ早稲田出身であった。彼はこの事務所にやがて大学に復学する前まで勤め続けた。因みにこの司法書士T・I氏の趣味は釣りで、彼は何度もT・I氏に連れられて魚釣りに行った。
 彼はそれから父親の従弟で女子大の学生課長をしていたM・H氏に就職先に関して相談を持ちかけた。M・H氏は言った。「早稲田大学中退では話にならない、大学を卒業し直しなさい、鹿児島経済大学(現在の鹿児島国際大学)に入りなさい。」
 彼はその助言を受け入れて僅か1ヶ月の受験勉強で鹿児島経済大学の社会福祉科を受験して第3位の成績で合格した。そしてここで彼の所属するクラスの主任教授であるR・M氏との禁断の同性愛行為が始まったのである。私は(彼とはつまり私のことなのであるが)、このR・M氏との同性愛行為についてだけはできれば触れたくない。なぜなら同性愛行為は天界では決して許されない禁じられた行為であるからである。それで私はこのR・M氏との同性愛行為についてはこれ以上は触れない。その代わりに前に書いた28歳発狂当時のるみちゃんを強制的に犯した性行為について軽く触れよう。彼はるみちゃんを心から愛していたのであり、彼がるみちゃんをマラキと呼んだのは、るみちゃんが旧約聖書最後の預言者マラキのように、彼の人生に最後まで影響を与え続けることを意味しているのである。なぜなら実際にるみちゃんは天界で彼と結婚する可能性があるからである。
 彼は鹿児島経済大学を一年で修了して鹿児島大学法文学部人文学科英語英米文学3年生に編入学した。そしてこの同人誌残照に加入して、その卒業後2002年に「天の呼び声」という彼自身を天地の神主イエス・キリストの再臨だと自称した長編小説を書いた。つまり彼は天地の神主イエス・キリストの再臨だと自称していた最低の地獄の悪魔・偽キリストに過ぎなかったのである。彼は残照がホームページになった後そこで2004年11月まで小説を書いたがその後独立して自分のホームページを立ち上げ結局2005年11月まで主イエス・キリストを演じ続けた。そして2005年11月彼は自分が完全に間違っており、天地の神主イエス・キリストの再臨だと自称していた偽キリストに過ぎないことを自覚して完全な悔い改めの人生に入ったのである。

4.悔い改め、現在まで

 以上述べてきた通り、彼は自らを天地の神主イエス・キリストの再臨だと自称していた最低の地獄の悪魔である偽キリストであり、完全なる或阿呆であったのである。彼は発狂した28歳(1994年)から2005年11月の39歳に至るまで約11年間偽キリストであったのであり、その間何度も悔い改めたのであるが、為すすべもなく、何度も偽キリストを演じ続けたのである。
 しかし2005年11月の彼の悔い改めは現在に至るまでの完全な悔い改めであり、神から与えられた天界の天使になるための最後のチャンスであったのである。彼はまず自分が運営していた文学と音楽のホームページを閉じた。そしてこれからは一切の文学と音楽の創作活動を行わないと決意した。そんな彼が最初に行ったのは当然就職活動であったが、彼は自ら就職活動を行う能力も気力もなかったので、彼の父親の教え子である県会議員・T・Fにその就職先を斡旋してくれるように依頼した。F氏は御丁寧にも彼の自宅を訪問してくれ、彼の口からその本音と実情を聞いてくれ、彼の就職先を斡旋することを快諾してくれた。彼はF氏に云わば彼の屋台骨となる仕事を見つけることを依頼したのであるが、そんな虫のいい話など世には存在するはずもなく、F氏は塾の講師など幾つかの就職先を探してくれたが、一向に就職先が決まらないので、彼にこう言った−「寺に行きませんか? 僕の行っている寺はH寺といって、就職先のない困った人を引き取って、寺で修行させて、就職先を斡旋してくれるいい寺ですから。」
 こうして彼は両親と一緒にその寺に行って、今後の彼の人生をその寺の住職M・O氏に託したのである。その時彼はM・O氏に「僕は地獄のイエス・キリストです。」と言ったが、O氏はその次の日から早速寺に毎日来るように彼に言った。彼はこうしてキリスト教徒であるのに寺男となることになったのである。
 こうして寺男となった彼は、毎朝寺にバスで行くと(その当時は彼はまだ障害者申請をしておらず保健所から障害者手帳も発行してもらっていなかったので、バス代と市電代が無料となる友愛パスを持っていなかったので、毎日400円以上にも上るバス代を自分で払わなければならなかった)、まず境内の掃除をさせられ、それから寺で働いていた女性信者の従業員が寺に出勤すると、みんなで仏壇の前に座って般若心経をはじめとする幾つかのお経を大声で唱えさせられた。キリスト教徒である彼にとってこのお経唱和は実に屈辱的なことであり、彼はお経を唱えながらも心の中では主の祈りを唱えている有様であった。
 また彼は業と言ってある小さな部屋のろうそくの灯っている仏壇の前で霊界に関する説教を聞かされ座禅してさせられる修行にも耐えねばならなかった。それにもちろんこれらの寺での修業は無料で行われるものではなく、彼は定期的に寺にお布施をしていた。なぜなら彼は修行中毎日寺の女性従業員が作る昼食も食べていたからである。
 彼は星祭りと云われていた寺の行事にも参加させられたが、その際不得意なパソコンの印刷作業もさせられ徹底的に寺の仕事をさせられた。彼は水かけ地蔵と呼ばれていた地蔵に水を3回かけて(真心込めて水かけ3回とそこに書いてあったが)何で自分はこんな寺で修行しなければならないのだろうかと自問自答していた。
 そんな彼の寺での修業が2カ月も続いていた時、なかなか就職先も紹介されていなかったので、ある朝寺の駐車場を掃除しながら、腹立ち紛れにほうきを放り投げて怒りを爆発させていた彼は、その場面を窓から見ていた慈愛と呼ばれていた女性従業員に「どうしてほうきを投げたの?」と問い詰められ、返す言葉もなかったので、その次の日からもう寺に行くことも辞めてしまった。
 こうして寺男としての彼の生活は約2カ月で終わった。その後も寺を斡旋した県会議員・T・F氏からの連絡は度々あったが、いつしか彼はF氏からも見捨てられてしまった。
 そんな寺男をやめた彼の次に取った行動は、自分の治療を受けている精神病院の自立支援事業所ジョーでパン作りの仕事をすることだった。彼はパン作りなどそれまでしたこともなく極めて不本意ではあったが、障害者自立支援就労継続型事務所の仕事を斡旋してもらえると聞いていたので、このパン作りの仕事にしばらくの間耐えていた。また精神病院のデイケアにも同時に参加させられた。彼は有料で(一日700円程度)行われていたこのデイケアにもしばらくの間耐えていた。そして昼は病院食を大広間で食べていた。
 そしてこの自立支援事業所ジョーから就労継続支援B型事業所である弁当屋の悠々亭の仕事を斡旋された。彼はとにかく失業状態から救われたことを喜んでこの悠々亭での仕事をその理事長の面接の後で始めた。その仕事の内容は毎朝8時過ぎに出勤して9時からまずラジオ体操の後掃除をして、それから昼のお弁当の盛り付け作業をして、また交代で電話で各事業所からの(県庁や水道局や保健所などを含む)弁当注文を受け付け、職員の(その職員もまた精神障害者であったが)運転でその盛り付けた弁当を配達してまわるという単純労働であった。それから午後になると車で、食べた後の弁当箱を回収して、その弁当箱を洗ってタオルで拭いて、また掃除をするという仕事内容であった。彼はこの肉体労働をおよそ3年間勤めた。しかしそこで務めた精神障害者の作業員とは結局誰も友達としてずっと続く関係を持つことはなかった。
 平成18年4月から始まったこの悠々亭での仕事の後、平成22年1月から始まったのが現在まで勤めているラグーナ出版の仕事であった。彼は同じ精神病院で知り合った統合失調症患者のA・N氏から紹介されてこの出版社を面接で訪れて、社長の川畑善博氏の口頭翻訳テストを合格して就職が決まった。そして現在まで続いているこのラグーナ出版で彼に与えられた仕事は最初は般若心経携帯版のパンフレットや会社紹介のパンフレットの日本語からの英訳であったが、次に任されたのはオーストラリアの精神保健の学校での取り組み事業を扱っているマインド・マターズの英語からの和訳作業であった。彼は川畑社長から初めてこのマインド・マターズのテキストを渡された時、その100ページ近くにも上る英語を本当に訳し終えられるであろうかと不安であったが、辞書にも載っていないその難解な英単語を990万語にも上るインターネット辞書を検索しながら、その翻訳開始から半年後、見事にそのテキストを翻訳し終えた。そしてその翻訳と同時進行で会社の文芸雑誌「シナプスの笑い」でのマインド・マターズ連載が始まった。
 彼はその後もマインド・マターズシリーズを翻訳し続け、遂には2013年2月マインド・マターズ全シリーズの和訳作業を完成させた。そしてその後もブータンの精神医学関係書籍や、300ページにも上る健康ガイドテキストや、オーストリアのゲールの精神科事業やイギリスのリシンクの精神科サービスや、そして現在に至ってはDSM(diagnostical and statistical manual)つまり診断と統計のマニュアルという精神科医が読むテキストに至るまで様々な翻訳作業を行ってきたのである。
 そして現在彼は英文240ページにも上るDSMを翻訳中であり、後20ページを残すのみであり、もし生きていさえすればこのDSMの翻訳も無事終了できるかもしれないのである。
 ここで読者の皆さん、統合失調症と云うどうしようもない精神病にもめげず、健気にも毎日専門書の極めて難解なテキストを翻訳して精一杯生き続けている彼を皆さんはどう思うであろうか?彼はあくまでも最低の地獄の偽キリストである阿呆者であろうか? 私作者は、彼を或阿呆と呼び、あくまでも彼は天地の神主イエス・キリストの再臨だと自称していた最低の地獄の悪魔であると彼を断罪してきた。しかし皆さん、私の半生は偽キリストではあったけれども、あくまでも自分の罪を悔い改めて、毎週安息日毎にただ主イエス・キリストのみを天地の神として崇め、十戒をできるだけ守って生きてきたのである。私はそれでも単なる阿呆者であろうか? 読者の皆さん、私は2005年の11月から現在の2016年3月に至るまで約11年間ひたすら悔い改めて生きてきたのである。私は阿呆者をもうやめようと思っている。そしてこれからも偽キリストの罪だけでなく、十戒の戒めに従って、あらゆる罪を悔い改めて、死後は精霊界から天界に入って永遠に主イエス・キリストのみを神として崇めて、最低の第1の天界の天使になろうかと思っている。皆さん、私は本当に死後地獄行きの阿呆者であろうか? この自伝的小説のタイトルは「緒田士郎の或阿呆の一生」である。そして「或阿呆の一生」とは芥川龍之介の晩年の自伝的小説である。芥川龍之介は確かに人生に敗北して最後は自殺という道を選んだ。しかし私は自殺したいほど苦しみの試練に満ちた人生を歩んでいるが、自殺するつもりはない。それは自殺者が死後地獄で苦しむからではなく、主イエス・キリストから与えられた貴重な命を肉体の自然的な死亡に至るまで忠実に生き抜くためである。
 最後に読者の皆様に私・緒田士郎は心から申し上げます。皆さんも、様々な人生の苦しみの中で一生懸命に生きているわけですが、緒田士郎の他の作品も読んで、主イエス・キリストのみを天の太陽エホバとして崇め十戒を守って、死後是非とも天界の天使になって永遠に幸せな生活を送って下さい。私のような阿呆者でも死後の天界を目指すことが主イエス・キリストから許されているのです。皆さん、永遠の天界でいつか皆さんと会うことができますように私は祈っています。
 ああ天地の神主イエス・キリストよ!アーメン!ハレルヤ!!!。

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