文芸同好会 残照

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残照TOP  [ ジャンル ] 小説   [ タイトル ] 散文物語集

散文物語集    水原友行

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前書き(2000年当時に書いたもの)
 これは短い物語の雑多な集積というべきものです。文体練習の結果できたものです。そのため随分に発想が若く、わたしを知る者には少し驚きかも知れません。その構想は高校卒業辺りに集まっているためだと思って容赦してください。
 世の中の事象には教訓のあるものとないものがあると思います。物語もまたそうであり、この物語群は全くの教訓の無さに貫かれて描かれています。それは先にいったように若さゆえのことではなく、今でもわたしの中に流れているいかんともしがたい傾向です。教訓を得たこともなく、教訓を与えたこともわたしには全くありません。
 わたしは全く物語を書くことが苦手なので、その練習にもしようと思ったのですが、やはりそこは難しい自分への注文でした。完成したもののうちで、出来る限り物語に近いものを並べたうえで、しかも最も短い形式の物を集めました。最後に短編程度のものがありますが、ほかのものはアフォリズムというか、わたしの作り上げた一種の形式に貫かれた形にまとまり、簡潔です。わたしはどうも長く複雑にしかも繰り返しだらけにものを考えてしまう傾向が強く、人をうんざりさせ、非社会的とも言われています。そこで、このような形式なら、ある種の容赦が得られるのではないか、と思われます。わたしにはとても苦痛な形式です。というのは短すぎて誤解に対する弁解や正当化を書くスペースがないからです。しかし新しい興味としてどのような誤解があるか、という楽しみもそこに生まれるでしょう。
 この本が愛すべき読者の時間を奪うことが無いように。



前書き2(2010年4月)

 「旧散文物語集」は、わたしが自分で書いた文章を誰かに見せた初めての小冊子である。それまで、雑誌のために原稿を書いてはいたが、自分が続けている文章ノートを公開することは無かった。というのは、それは大変未熟なものであるばかりでなく、未完成なものであったからだ。
 けれども、実際は、ノート一ページに書かれてある数文を引き伸ばして、散文の形にしたものを小冊子にしただけというのが、「旧散文物語集」の内容である。夜、物語を一晩にどれだけたくさん考えられるか、と試み、やっつけたものが、この本におけるおよそ「準備された世界」までの文章である。
 それ以降も、わたしは、この小冊子に対する愛着がずっと続いている。だから、断片的創作というものを自分の中での最も大切な方法として、今でも考えているのである。それで、去年、「散文物語集」という形で二度目の試みをすると同時に、それまでその時期に書かれていた同様の断片的創作をまとめて、「散文物語集」の完全版としたかった。けれども、それが予想外に大変めんどくさい作業であり、いや、やろうと思えば二日としてかからないはずだったのに、できなかったのだ。
 この物語集は、その出来以上にわたしには愛着があるものである。
 わたしがこうした創作に対する魅力をはじめて知ったのは、小学生高学年から中学生にかけて、しかも絵を描くことを通じてである。文章をパロディとして、そして絵を、特に人物画、それはリアリズムからデフォルトの漫画的画法にまで及ぶが、それをずっと続けているその当時、わたしは自分は当然のように将来は漫画を書くことになるだろうと考えていた。けれども、わたしには、まんがを一人で書くことは結局できなかったというほかにない。
 この物語集によって、わたしは昔からの自分に対して、絵付きの物語集を与えるということ、そしてもうひとつ、物語ならざる、何なのかも分からないものを表現する文章という二つのものを与えることができることで大変嬉しい。
 その二つは、中学生から当時までずっと夢のように思い描いていたが、さっぱり根気が無くてできなかったことであった。

街角にて

 復讐の世界は決して人間の世界だけに綴じられているわけではない。天突く大都会! われわれは聴く。鉄砲のような物音……絶え間なく流れる道路の残響……何かが高速で飛び去ったことを示す布をこするような深い響き……叫び声……うなり……明らかにそれと分かる人の声……あるいは雨の音だろうか? これは猫の声だ。猫が六匹、角に隠れて身を潜め、何者かを待ち望んでいる…… 目当ての犬がくるといっせいにぎゃわんとなき飛びかかり、五分もすると犬は残骸となって横たわる。かみ殺した猫はいっせいに当たりに飛び去る。あたかも石をどけたときの虫どもがそうするように……

複製人間

「ちゃんともってきなさいね」
「はい! 先生をぜひお貸しいただいて、あなたの立体写真を撮りたいのです。わたしはその実用性皆無の作品の誠実な研究により、先生の人としてのイデアの完全に忠実な表現力を鍛錬し、きっといつか思うがままの複製を作れるようになるでしょう。あなたのなんともいえない……らうたしさ……いじらしさ……平均的な発達……それらの表現を……」
「明日にはきちんと持ってくるのね」
「はい! そうしてもうあなたの動きなどを正確にとってその全可能性・自由な表現力を獲得し、そこにわたし自らの創案による動きさえも付け加えられるようになるでしょう」

「あるいは恋かも知れませんね、これは。しかしその純粋な研究としての側面を考えていただければ、そのような低級な感情に支配されないこの動機が分かると思います。恋はその人本来の動きさえ愛するということでしょうからね。これは優しい視点なのです」

ベナレスにて

「おまえな、そんなに世の中のことを子供みたいに信用しているみたいだがな、昔も昔、世界の人口すら何万人しかいない時代に、インドで何も知らない人々の空前の国家ができた。石の宮殿に住み、今よりもずっときれいな水を飲み、今よりもずっと人々は戯れあい幸せに暮らしていたわけだ。そのおり、全く不合理に、どうしようもなく、アルテマという恐ろしいものがその人々を襲ってきた。人々はバターのように溶けて、意識も身体もないのにもがいて逃げようとしたよ。昔の石造りの宮殿は廃墟と化して岩石だけの形を残す。水は汚く濁り砂漠に付け込まれた土地には荒涼とした草原だけしかなくなってしまった。おまえ、世の中なんてそんなものよ」
「だからおれがいま研究しているのは、どんな整然とした数字でもめちゃめちゃにしてしまうようなランダム項なんだよ。その存在を無矛盾で証明できればもう、誰も働く気なんてなくなってしまうだろうな。生き甲斐をなくしてね」

私は裸を荒野にさらすのを厭わない

ああ、見えるだろうか、恐ろしくありふれていてやるせない、荒野が又見える。私はなすすべもなくへなへなと座り込んでしまう、自尊心で購入したひどく高価な服に身を包んでようやく開けられるようになった私の両眼は、再び無益と非生産に閉じられてしまおうとしている。この帽子のせいで眼はひどくちらちらするし、かつらのせいで耳はほとんど聞こえないし、何も、この大きな道程を前にして、希望となる道具はないのだ。感覚はなく、まるで死を背負っているかのようだ。生き死にしたようなものだ。
でも、聞けよ、おまえ、もういまでは、
私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 たとえ、ひどく言い古された手垢だらけの言い草だろうが、言ってやる。
私は裸を荒野にさらすのを厭うことはもうない。
 おまえは、私が非生産と怠惰の海へと乗り出そうとするのを目前にして、ひどく利他的な涙を流すことだろう。それでもわたしはこう言う。
私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 くそっ、わたしは一体何枚の服を厚着してやがるんだ、ちきしょうめ! でも、まっとけ、
私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 私は雑踏を歩いていた。私はそこの至る所に荒野が潜んでいるのを見出した。私がヒゲソリをするとき、鏡の向こうにやはり荒野が潜んでいるのを見出す。そこではひどく痛いだろう、ただひどく痛いということは分かる、石が裸の全身を打ち、熱は高まりつつ肌を焦がすことだろう。
 だが、私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 人は私をとても奇特な変人と呼ぶだろう。それなら、私は自分のことをひどく奇特な変人であると思い込もう。
私は裸を荒野にさらすのを厭わないから。
私は一回だけお前を荒野で見た。お前は、荒野でこっそりと、盲人に石を投げていた。それでもわたしは打たれに行こう。
私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
仮定しよう。私は荒野の前にただ一人である。仮定しよう。お前も又荒野の中の加害者である。仮定しよう。世界中の人間は荒野の中の加害者である。仮定しよう。私は荒野を見ている。帰結しよう。私は荒野にはいない。
私は裸を荒野にさらすのを厭わない。



Tはだれとも文字の使い方が同じではない。Tは後ろから難渋に苦しむ性だ。・Tはハープシコードを弾くことを覚える前に過去を知ることはない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな過去を。・Tは愛を知る前に、いわゆる血の世間が一体どのような手段で彼を手なずかせていたかを知ったことは一度もない。血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな手段を。・Tは酒を知る前に、自らがどのような、かたい壁に囲まれて身動きが取れなくなっているかを知ることは一度もない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな壁に。・Tよ。

改竄

大火事があり、ひとりの少女が助けを求めてわめき叫び、刻々と声の力を弱めてゆく。怠惰と臆病と自立心の欠如の気まずい雰囲気のなか、一匹の犬がさっそうと猛火の舌をくぐり抜け地獄の口の中に飛び込み、少女をくわえて戻ってくる。……歓喜……脱力……表彰……人々はどっと明るさを取り戻し、笑い喜ぶ。が、おもむろに再びまたその犬は崩れゆく牙城と化した屋敷の絶望の城門をくぐり、本能的に死の道をたどり炎の中へと消え去る。……あぜんとした人々の前に奇跡的に戻ってきた犬の口には、人形がくわえられていた。人々は笑いをやめ、奇妙な沈黙の中に取り残されるのを感じながら、かの犬を見つめていた。
                        (物語「消防犬」より)

転落

 或る娘は己の人生の輝く絶頂期に早くも達し、幸福の累乗効果が留まる頃を知らない日々を送っていた。肉体と歴史が強烈に目覚め始め留まることを知らぬ生活! ……それぞれが小粒の宝石であるような友人たち! ……笑いさざめく波がまるでカゴメカゴメを思わす嵐のような男たちとの交流! ……彼女の前には宝石や札束の輝きがすばらしい果実のなる並木道が桃源郷があった…… 時代の文化を象徴しながら街を友人たちと滑るように闊歩する! ……ふと、前方から「彼女たち」が毛嫌いしている男が歩いてくる。男はかすかな完全な世界における汚点として微妙な空気を一団に及ぼしながら、ともかくにもはやくすれ違おうと。と、その時、男はよりによって彼女の眼を狙って微笑みかけた! 動揺! 嫌悪と怒りと恥辱と揺らぎ! 男の微笑みは絶え間ない嘲笑とうわさと物議と不公平な推測を醸し出しながら日々深まり繰り返され、よりによって彼女に降り注がれた! まるで彼女だけが男の微笑みの唯一の受け皿だとばかりに…… 転落の程度は怒りの目盛りへと変わり、屈辱の高まるさなか、ついに女は汚い歯を見せて笑う生き物に向かってこう問いただす…… 「いったいなんのつもりなの、このわたしにむかってぇ…ぇ…ぇ」男は笑いながら答える。「いや、ただね、あんたに汚い歯をぜひ見せたくって」

さばくのアメリカ

 月が丸い、真夜中、精霊が言うには、
「空の雲って白い森みたい」
 ぼくは驚き、そして言うには、
「それじゃ月は黄色い湖」
 何も答えず精霊は掻き消え、ぼくはアメリカ旅行の続きに入った。

 寝ぼけ眼で、「ここはどこ?」
 さもありなんと、「グランドキャニオンだ」
「キャハハ! たとえ、ここがグランドキャニオンだとしても帰らない!」
 赤いオープンカーはそれのせいで立ち込める砂煙よりも薄くなり、深夜にまた月が浮かぶ。ぼくは言う。
「このように車のタイヤに引きずられて生きるのも、これまたアメリカだな」
 だれも応えない。精霊も今日は出てこない。

カリーの踊り

 鮮やかな絵の具で塗ったような水色の川の前の景色にみずみずしい草とやさしいピンク色の鼻。はっとする、・・・・・・精神病棟から抜け出してきたと思われる神様にすべてを捧げた相を表す正直なやさしさとその性質そのものが見た目にもみなぎった娘が現れ、草むらで花を摘みながら踊りだす。素っ裸だ。白い河原に飛び出すと小石が撹乱されて渦のように飛び上がり、砂が舞って娘を覆い囲む。太陽が娘の身体を木漏れ日として見せる。深海のような空だ。かわいらしさ・いじらしさ・・・・・・ピンクの鼻が見える・・・・・・大いなる広がり・・・・・・虚無! 「何もないということはこういうことか。まさかこんなにも激しいものだとは」よもや。たまさかに。たまゆらに。白い河原。生きているということはこんな感じだよと教えてくるうるさい草ども。しっかりとした水面だ。パレットが黒に染まる。偽善という黒に。パレットの上に娘が限りなく微小化された形態を取り、踊りだす・・・・・・山を淡くする煙を唯一の食事としながら。この山谷川海を安心の家とし、動物はそれ以上にもそれ以下にもなる。神のように空の雲の上にいるわけではない凡庸な河原に踊る娘。

太陽の民37

 ・・・・・・地球に住んでいながら、・・・・・・おれは太陽の民だと思っている男がここにいた。あるとき目鏡で自分を覗いた彼は、しかしそこに自分の誇りの反証を見出す・・・・・・ おれは赤くない むしろそこれは少し緑青色で 「おれは太陽の民ではない」 何者? 息せき切って一人乗り用の黄色の映える透明がかったロケットに乗って・・・・・・
 ・・・・・・真っ黒なところに突っ込んだ!
 ・・・・・・星から光線が彼の身体を貫き、壊し、強烈な違和感が走る!
 ・・・・・・隕石が絶え間無く降りロケットを割り貫く!

     ・・・・・・ふと気付くと彼の目の前に太陽が大きく輝いていた・・・・・・

 メラメラと民衆は燃えていて、プロミネンスがまるで蛇のようにのたうちまわり、その飛び散るうろこの塊がロケットに当たり、真っ逆さまに落ちていく・・・・・・!

水の中の探検者の手記

19、32年、グリンランド東部
おれは水だ、はたからみるとときには生きているようにも見えるがな。おれはすべてを自分のせいにしなければ生きてゆけないのだ、まるで赤ん坊のようにな。おれはまるで自殺前のヒトラーのように前進してゆかなければいけない、いましも指根っこを引っこ抜きたくなりながらな。おれは自分自身を時計のように見ている。おれは他人が計れないのだ、だからおまえらがいうとおりに生きていけるはずがなかろう。おれはいつも自分自身の分身に責任を負って苦しんでいた、いつもだ。おれは夢をもっていたのだ。しかし今はもう、それでさえも分裂しつつある。いい意味にも、逆の意味にもな。
おれはそれでも大衆を捨てて、ラスムッセンとしてチューレを後にし、自分の足跡を消すべきだろう。そうしなければいくら暗い墓場のうちとはいえ、昔あの婚約者がそれで跳ねて宇宙に行ったあのトランポリンで、自分というおれ(?)をつねに削り取って、削り取って、そうして鋭く厳しい弾丸となってかけずりまわりさえもできないだろうからな。
おれは比喩がもったいない。文がもったいない。1文字でそれはおれを越える。おれは実を言うと何物でもありえない。おれは無口だ。この口述もおれがおれの過去をすこし盗み見したそれだけのことなのだ。おれはその罪によってもう歩かないだろうしもう橇にも乗らない。 ああああ、犬たちはもうどこかに行ってしまった!

                      デンマークの国民へ
                       あるいは無二の友ピーターへ

           おれはすこし自暴自棄になりすぎた、旅ではないがな
               口が動か な  い  ・・・  ・

つんぼの悲劇

 すべての恋人たちは自分たちの愛こそが最も甘くもっとも切なく最も世間に邪魔されており最も真実で最も成り立ちがたいと思うものだが、確かにこのカップルの恋は周りが認める形でそうであったと言わざるを得ない。また、どこがそうであったかと言う問いにも答えることもできない。ともかく、そのお互いの想いは甘く燃え上がり、ささいな買い物が今生の別れであり、高まれば嫉妬に狂い、友人の賢明な助言は二日もすれば二人の愛を引き裂く権謀術数なのだと確信され、ささいな事で歓喜の絶頂へあるいはささいな事で絶望と争いの中へ、そういった関係だった。弦の振動のように二乗に反比例するその高まりは彼らにとっても拷問の法則でもあり愛の法則でもあった。・・・・・・愁嘆場!・・・・・・確認!・・・・・・抱き合い! だれが彼らにとって死というものがいかに身近であることを知っていただろうか。・・・・・・嵐と二日雨の中間のような日に、恋人の部屋から聞こえた何やら分からない音を汚らわしい音だと認知した女は正気を失い、そのまま首をくくって死んでしまう。女が縊死したことを知らない男は変化と奇跡と歓喜と不変の神である女の帰りを待ちながら、女が拾ってきてもう女性になった愛らしい猫と遊び続ける・・・・・・

転向と影

 一人の政治家が、圧倒的な上流階級の支持を受けて当選し、偽善政治を行った。上流階級! いつの世も彼らが事を決めることは言うまでもない。経済的上流階級、すなわち民主政体における上流階級のことを言っている。しかし・・・・・・! まこと神のなさることは不思議な軌跡であられることに、そこに当時に賢人哲学者と深く尊敬されている一人のホームレスと政治家の出会いが実現することに相成り、上流階級が彼を支持する原因となった彼の数々の美徳を粉々にし、かわりにだれにとっても何の得にもならぬ性質に目覚めさせられ、彼は全国民の非難を受けながらよい政治を行なうことに心を決めることになった。この展開! 転回! 彼の周りではあらゆる説得・あらゆる種類の泣き落とし・あらゆる種類の罵倒が繰り広げられる。(代々続いてきた彼の一族の中で。年下の愛人や心優しい彼の娘などからの完全に利他的な、泣き落としなど。)賢明にも彼の任期を待つ者さえ暇があったら口さがない非難を彼に対してすることに何のためらいもなかった。彼の古くからの友人であったすなわち上流階級の旗頭はこの滑稽話の裏を見抜き、たっぷりのコインをもってホームレスを説得に行く。そこで、政治家はホームレスのきれいな帽子や清潔なハンカチやめったに見られない笑顔を見ることとなり、こうつぶやいた。「しょうがないな」政治家はこの上もない全盛を任期いっぱいまで執り行い、引退した。

超能力者

 ある時代・ある土地に、人類史上空前絶後の強い意志力・精神力をもった超能力者がいた。彼の名声はというと、絶頂でもあり標準的でもある。・・・・・・というのは名声ほど簡単に操れるものとてないからである。すなわち、彼の能力はそれほどのものであった。他人の心や外界への力場の投射に飽きると彼は、自らの本能の赴くままに暮らすことを選んだ。彼にはなにもかもがいかに単純に思われたことだろうか? 彼の前にはいかなる開かれぬ問題もなく、遂げられぬ欲求とてなかった。・・・・・・退屈・・・・・・倦怠・・・・・・痛み・・・・・・ 彼は高山のごとくうぬぼれを高めながら身を切るような没落への欲望に悩む。彼は絶望が閾値まで高まった瞬間彼の前人未到の稀有な神からの贈り物であるところの意志力・精神力を込めながら、こう祈りを捧げた。「おれの思い通りになれ、わが世界よ!」そしてこのような能力にはあるものだが、それが届いたという強烈な確信がみなぎり、歓喜が股間から天頂まで貫く。放心した彼が再び世界を微妙な期待とともにうち眺めると・・・・・・ 人々の流れ・・・・・・眠くなるような売り子の呼び声・・・・・・突っ立っている間抜けな男の横顔。なんということ。何かがうまくいっていない! 何も起こっていないぞ! 変わらない・・・・・・いや変わったような・・・・・・どうでもいいふうに・・・・・・むしろ単調に・・・・・・よりつまらなく・・・・・・より退屈でより倦怠でより痛みに耐えがたく・・・・・・! ・・・・・・嫌だ!! 彼は今や、無意識のうちに自分の能力を使った。このいやったらしい世の中すべてが嫌だ、嫌だから言うことを聞け! ・・・・・・とたんに男は自分の意志力を失い、普通のくだらない男となって突っ立っていた。

屈辱の一瞬

 完全犯罪! それは高嶺の花という言葉から始まった。男は貧しさの中で奮闘し見事に地獄の底からはいあがり娘に求愛をする。絶え間無い求愛と全ての人にひと目で知れる男の誠実さのために娘は身体に反して男になびき始め、そこにいくつかの神の奇跡が介入し、・・・・・・パレード! 身内の喜びと陰口! 友人たちの喝采! 男の溺愛ぶりはだれにでも幸せと恥ずかしさと奇跡のごったまぜを感じさせた・・・・・・花嫁にさえ。しかしいかんせん、違いすぎた。祭りが過ぎるとそこから奇跡の醸し出す空気が消え去り、現実と呼ばれる過酷な裁き手が待ち受ける。娘の社交生活から男には絶え間無い嫉妬が与えられ、男の愛情はより深くより根を張った素晴らしい樹木にまで成長し、世間には見えない不協和音が出来立ての家庭に響く。そこに強盗が現れ! 娘を殺し金品を奪い逃走し、男にこの街で最も黒い喪服を着せる。妻を殺した夫はこの世の何にも比すことのできぬ愛する者の骨を常に身に掻き抱き、非人道的な愛をその無機物に捧げ続けた。男はその花嫁だった骨を冒涜し、匂いを嗅ぎ、さすり、断末魔のつかの間の映像をいとおしむ! ・・・・・・ある日、そのたえなる感覚と魅惑的な腐臭を放ち続けたその骨がほんの一瞬・・・・・・むろんそれはほんの一瞬間だけだったが・・・・・・男に嫌悪を感じさせた。その前日、彼はどうということもない平々凡々の女に求愛されたのだ・・・・・・

墓泥棒

 ブルジョワ生活を模しつつも本当は生まれつき根っからの盗人である或るおとこが共同墓地に眠る宝のうわさを聞き、十月の最も白んだ夜に人目を忍びつつ恐ろしい道筋をたどり墓地に入り込み、獣の集中力に自分でもおののきながらここぞという墓を掘っている。・・・・・・身内には宝を所有する複雑な隠蔽計画のうねりから来る強烈な興奮を感じつつ・・・・・・まるで自分の全存在はそのために作られているのではないかと言うほど全体的に行為と一体となり・・・・・・男は掘り進め、悦びに酔いしれつつも、出てくる人の骨や猪の骨などに疑惑の脱力感・落下感を感じ、男の想いの波は高まりゆき尽きることを知らず、全部掘り終わり、急激な失望と策略の影の中で・・・・・・ その時! 急に辺りがパッと映し出されてこっけいさを赤裸々に暴きつつも大勢の警官たちが飛び出して来て男を拿捕した!

或る同性愛者の粗述

 恋愛におけるさまざまな技巧にも今世紀にもなれば一種の変化が現れたことを否定する有識者はいないと思う。ある男の事を愛した男がいた。好きで好きでたまらないというのが彼の意見だ。愛する男のしぐさ・職業・性格・のんけの様・不器用な愛情と優しさ・どれをとっても素敵だ。どんな博物館でもそれほどの出品をすることはできない。愛する男にたいして彼はどんな慈愛でも注ぐ。彼のもとを離れてゆくあの強烈な喪失感をさえ避けられるならば。彼は愛する男の女の友人あるいは女性あるいはあまねく女性にことごとく愛する人の悪いうわさをたれこもうとする。愛する人はその純朴な正確に比して危険な男だという評判を獲得し、なぜかまんざらでもない。男は愛するおとこにこう言う。きみは全くのドンファンだが、それにもかかわらず本当は純朴な一男に過ぎない全く不思議な男性だ、と。彼がそんなふうにふるまえるのは彼が男を愛する男なのだ、という隠された事実があるからで、これが男を愛する女だとするならばその動機はたちまちのうちに日の目を見ることになってしまうだろう。しかし、彼の愛がある種の決別に行き当たったなら?・・・・・・

法律

 犯罪者を作るのは法律である。では法律を作るのは?・・・・・・ これも一種の法律に過ぎない! 犯罪を作るのは法律である。では法律を作るのは?・・・・・・これも一種の法律に過ぎない! ある殺人者がいた。彼は法律を被告人とし、衆人の話題をさらった。というのは自分は非常に無学な男であり、殺人などという高等な行為がまさか自分には思いつくはずもなかった、と言うのである。自分の家族や友人や愛人もまた非常に無学な輩であり、わたしに殺人というものの存在を教えてくれるはずもない。では彼に殺人という行為を教えたものとは何であろう。彼は言う。それは聖なる書物ではありえないことは確かであり、本やテレビが教えてくれることもなかった。どうして人を楽しませ、人をよき目的に導くものがそんなことを教えるだろうか。そんなことはありえない。――では、おまえに殺人という行為を教え、強いては起こさせたものとは一体何かね? 法律です。法律に違いありません・・・・・・

文明に隠されて
 文化人類学なるものに公平になろうと思えば、その研究結果のうちでひどい失敗だけが衆人の眼に触れるのであり、その大成功であり研究の精髄なるものは決して衆人の眼には触れないものだ、ということを念頭に置いておかなくてはならないことは次のような話で分かる・・・・・・ 類人猿に完璧な教育を施し出来る限り人間に近づける研究を行っていた無名の天才学者がいた。ひとまずは赤ん坊の類人猿を手に入れ、彼の研究の精髄である方法で言葉を仕込み、社会生活というものが一体何なのかを教える。学者は或る程度の教育を施すと、貴重な結果である類人猿の毛を剃り骨格を矯正し、やもめと偽って上流社会のさる婦人と結婚する。彼の息子は家族の長男として出世街道に乗り、母の社交性と父の学名の影でひっそりと人間の生活を覚え続ける。彼は母の妹の娘と恋愛に落ち、愛の巣を作る。そこで、両家ともに納得し、結婚と相成る。彼のいとこの娘はこのお堅いいとこに対する未曾有の愛情と強烈なサディスムで新婚前夜に彼に襲いかかる。彼は魅惑的ないとこの娘の思いに応え・・・・・・  幼妻は叫ぶ! 「あなた、サルね!」

奇跡の昇進

 唖で聾でろくにしゃべれずびっこで奇形な男が自分の身体やその障害をネタにしてお笑い界で大デヴュー! 各種マスコミ絶賛! 海外障害援助隊からの祝電! 各地の障害に悩む子供たちからの熱狂的なファンレターや耐えることを知らない求愛者たち! 正常者・非正常者問わず大人気! うなぎ登りの株! 「誠実そうな男」「抱かれたい男」投票一位! 彼は本当に笑いのつぼを知っており、彼のコーナーはボタン要らず(何と地球に優しいことだ)の大盛況! パラリンピックに多大な影響を与え、障害者たちには夢と正当化を与え、紅白にはちょっとした感動を、24時間テレビには笑いと歓喜と激情と絶え間無い興奮の手紙を舞い込ませた! 彼の魔法のようなアドリブは文字にならない教科書として芸能界に流布し、バラエティやドラマにおいては独自のジャンルを開拓させた! ・・・・・・そして彼は自殺した。彼に終始好意的であり続けたある週刊誌は一週間ごとに新たな死因を発表する・・・・・・ 隠されたイジメ、隠された嫉妬、隠された不仲、隠された愛人(またはそれに付随する隠された性的癖)、隠された金銭の動き、隠された孤独・・・・・・ 彼の生涯に対する苦慮・・・・・・ 苦悩・・・・・・ だれにも暴かれなかった最も親しい正常者である友人に当てられた手紙(これが唯一の遺書と呼べるものだった)にはこういう台詞があった。「愛する仲間たちは本当に心からわたしの成功を喜んでくれた・・・・・・ が、しかし、最後までわたしは彼らのことを信ずることはできなかった。・・・・・・」だれの?

ありがとう

 どうも、人を忘れ去る酒を飲みたいところだよ! 狂いたりないほどだ! あたしの恋人よ! あたしは笑う。
 あなたは天才発明家だわね。あたしにいつか作った発明品のリストを見よ!
 水飲み機。口洗い機。外暖房。地面靴。糸が洗える水。顔を変える輪ゴム。身体と心を離す馬。耳掻き綿。綿を詰めたボール。外電気。空気を使った疑似永久機関。そして美しい調べを持った新言語。心の動きをそのまま記録する機械。アラユル現象を捕らえる新感覚。 ・・・・・・そしてこのあたし。

幼子の歌

 彼は高三のころから不思議な感覚に迫られ続けるようになった。それはかれに真実の家族・真実の友人・真実の恋人・真実の愛・真実の何物かを感じさせた。彼はそれを感じる。しかしそれは遠のく。いやどういってもおかしくなるような恐るべき非交流のさなかの出会いであった。彼はそれに近づくために随分骨を折る。それはなにか? どうすれば自分に親しむようになる? どうすれば通じ合える? ひとつの捕獲網、科学と哲学の学習。彼は表現する暇も能力もないまま思考に没頭する。夜、たえず遠くまで散歩する。川辺を通り、水の音を恐怖し、初めての蛍を見る。彼は毎晩それを欠かさなかった。そしてどの晩にもほかの晩のことを一つも思い出せなかった。
 思考のさなかに、かれはそのような思考の渦を一年前にも体験していたことを思い出す。あのとき彼はこう嘆き続けていた。もう少しで《あれ》にたどりつけそうなのに。ほんのなにかがあれば新しい世界にいけたはずだったのに。
 汝はわれにたずねる なぜ一人留まるのか われ答う なぜ二を選らぶか われ生きる価値の無きものなり
 空よ、われの真実の友よ 海よ、われの真実の親よ 木々よ、われの真実の教師よ 畑よ、われの真実の保護者よ 花よ、われの真実の妻よ
 歌え 唱えよ われは一にして無のものなり

だれがいい奴だ?

 因果関係の謎はいまだにどんな秀才によっても解かれていない。ある貧しい国では・・・・・・ある商社のある普通の会計係が一回キーを叩く。すると、六人の人が死んでしまう。この知らず知らずのうちになってしまった断罪人はそのことを知らずにいる。しかし、ある年に餓死者数が6パーセント減ったのは、国連の政策や国の政策が功をせいしたせいでもなく、これも目立たない或る心の貧しい人事課の上役の個人的な感情のおかげであったといっても、だれもわたしを信じるものはいない。

準備された世界

 ・・・・・・完全に準備された世界がある。この外に出ることは果たしておれにできるのか。・・・・・・広い・・・・・・広くて大きい・・・・・・つかみとれぬ・・・・・・果てしなく・・・・・・ 見渡す限りおれの眼を覆い尽くす・・・・・・ おれは感じる。・・・・・・どこにいっても・・・・・・どこまで逃げても・・・・・・おれにはずっと何かが聞こえ・・・・・・おれにはずっと何かが触れ・・・・・・おれにはずっと何かの匂いを嗅げ・・・・・・おれにはずっと何かの感じがするだろう! そこには目覚めるか、目覚めないかの違いしかないのだ!
 動物でさえ、寝心地をよくするためにあるいは安全を享受するために巣を作るのだ。おれのこのはだかなようすはなに? おれにはこの世界から逃げるための巣を作ることができない。
《しかし、ずっと感覚がなくならないことはない。感覚がないときにすら意識はある。しかし、ずっと意識がなくならないことはない。意識がないときにすら魂はある。しかし、ずっと魂がなくならないということはない。・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・》 ・・・・・・

ナルシスとエコー

ナルシス「ぼくはのどを万力で締め上げるほど馬鹿じゃない。妖精エコーに言葉を預け、忘却の水を飲むためにうめき続けるだけだ。
 なあ、エコーよ。もうぼくにかかわるのは止して、おまえの天分である音楽に身を入れるがよい。」
エコー「いいえ。わたしはあらゆる魂に束縛されません。声だけがわたしを縛り付ける・・・・・・そして時間だけがわたしの作用素。」
ナルシス「おまえは忘却の水を飲んでいないのかね。」
エコー「・・・・・・」
ナルシス「しゃべれよ!」
エコー「・・・・・・」
ナルシス「ぼくは忘却の水を飲み、声にならぬ声でうめく。するとエコーがその声を実にみすぼらしく復唱する。糞尿の立てる匂いのような音だ。」
その声「無視された・・・・・・恥ずかしい・・・・・・殴られて恥ずかしい・・・・・・無意味・・・・・・意味なし・・・・・・言い訳できず・・・・・・迷惑できず・・・・・・存在できず・・・・・・無視された・・・・・・ぼくはいつも死ぬまでずっと他人の言うこと聞いて生きゆく・・・・・・悲しい・・・・・・ケンカ・・・・・・イジメ・・・・・・逃げろ・・・・・・盗んで蹴っていじめて泣いて・・・・・・貢いで褒めて笑わし無視し・・・・・・だれもぼくを見ず・・・・・・恥ずかしくて恥ずかしくて・・・・・・これは罪だ・・・・・・無意味は罪だ・・・・・・ぼくはいっそ存在を消した方がよろしい・・・・・・死ねばよろしい・・・・・・死んでも視線ゼロ・・・・・・恨まれ蹴られ憎まれ役に立ちたくて恥ずかしい・・・・・・かってやる・・・・・・おまえらをかってやる・・・・・・飾ってやる・・・・・・おまえらを飾ってやる・・・・・・成功の周りをうろつき・・・・・・恥辱に染まり・・・・・・地球が恥辱に染まり・・・・・・後悔の呪いでうめき・・・・・・こぶしをゲロで埋め・・・・・・眼をキリで突き刺し・・・・・・ぼくはおまえらが呼吸できない悪い空気になって呪い殺してやる・・・・・・」

ある宗教とその教祖

 新しい宗教の教祖。彼(彼女)の教えはすべての悪・不安・矛盾・複雑さは自分からの帰結である、というもの。信者数は増える一方。朝は彼をリンチ(強姦)、昼は彼を誹謗(言葉攻め)、夜は彼の偶像に一撃を食らわす(エスエムプレー)。彼(彼女)は永遠の命をもつ。死んでしまうと苦しみが去ってしまうではないか。彼(彼女)はもう自分の宗教のことなど考えない。彼(彼女)はただ思う、『大丈夫だ、大丈夫なんだよ』。その聖典は長安(パリ? ニューヨーク?)風流進士の机の上に置かれている。

俳句数編

 ・・・・・・精霊は眠り、もう眼を覚まさない。
 火の車、わたしの顔を見えなくす。眠り就くかれの身元は暖かい。モヘンジョのアルテマ来てはあを潰す。どぶにはゆ洗剤浴びる緑あり。われにさえ厳しさありとむせび泣く。

オーラ色彩占い

 黄色い光、幸せで笑い死ぬ。赤い光、幸運で無為を許される。白い光、賢明で行為の道。青い光、じゃじゃ馬ならしあるいは倦怠の皆無。黒い光、能動的な大量生産。橙色の光、己の恥ずかしい生存を許される。紫色の光、思いがけぬ物あるいは未知であるものを発見。緑色の光、行為の許可あるいは認定。エメラルド色の光、未来に先延ばされた幸福。灰色の光、成功あるいは到達あるいは結末。空色の光、健康と活力の逃れがたき刻印、なすがまま。トパーズ色の光、それに対してたった一度きりの(空前絶後の)近接を行う。赤洞色の光、禁止された未知あるいは唯一の快楽。れもん色、たまご色、止められず逃れられぬ最低の状態。

久保くん

少女A:あれっ? 今日、久保くんは一緒じゃないの?
少女B:何で? いつもいないよ
少女A:いいえ そういううわさもあるんだから
少女B:おえっ この前さ 変なところが気が合っているって久保くんに言われた しかもあっちのほうから ひどくないけ?
少女A:ねぇ? 今日の朝さ、夢を見てさ、電車の中で久保くんがつりかわにぎっているところにわたしが抱きつくの
少女B:えぇー?
少女A:そして「ぎゅっとしないでね」って久保くんが言うの
少女B:えぇー? ふーん?

われらがマルクス

「革命家さんですか?」
「はい」
 私はタクシードライバーにそう答えた。彼は言った。
「マルクスは難しくてよう分からんですな」
「いやマルクスって実はものすごく楽しいですよ」
「いや分厚くって日本語じゃない日本語ですな」
「いやマルクスってすっごくおもしろいんです」
 私は革命家の常識としてマルクスを常読しているふりをした。
「もうあれですよ? わたしほどになるとですね、十四歳の少女、そいつはものすごく大きくって形のいい胸を引っさげていて、歩いているだけでキスしてしまうぐらい厚い唇をしている、そいつが書いた文章に見えます。そのように書き直したりしますよ。『共産主義という怪物が来ちゃった!』みたいな、ね?」
「うひゃひゃ! その少女は可愛いですな、マルクス読んじゃおうかな、わたし?」
 そのとき私は『魂の』革命家としてマルクスを侮辱したこのドライバーの本質的狂気に吐き気を催した。マルクスに対して「うひゃひゃ」はねーだろ、死ね、と思った。同時に、『偽』革命家としての自分に吐き気を催した。神々しい生き方としてマルクスとエンゲルスが高い頂の上に輝いているのが見えた・・・・・・

交換手さん、こいつをお願いします

 私の幼馴染のSが酔っ払っている。堅物で有名でちょっと信じられない。
 今、ちいさい子供がよくやるように私と眼を合わせては隠れるということを繰り返している。どんな誘惑だろうか?
「ねぇ、Mくん、石川主任とは結婚したことあるけ?」
「あぁ? 石川主任? 結婚? あるはずないでしょ?」私は驚いた。「誰? それ」
「・・・・・・石川主任はね? たくさんのおとこと結婚しているんだよ?」
してやったりという顔で私を見上げた。私の耳にはその表情はかたや私は生涯独身と聞こえた気がした。
「いや知らないよ、そんな人」と私は答えながら私自身酔いが回って「早くすませちゃいな」という感じで身を任せつつあるSにキスをして身体中を触っている。まるで石みたいだった。水気が無くって苦しそうだった。処女かもしれない、と思ってSとひとつになろうとしたが、身体が絡まって身動きが取れなくなった。私は、「ねえ、キスをしてよ」と言ってSをぎゅっとしてキスをした。「かいしょうなしのM」とSはつぶやいた・・・・・・
 故郷に残している幼馴染のSに会いに行ったとき、私とSが座って黙っているのを見ている仲間がこう言った。
「・・・・・・あんたたちさっきから全然しゃべらないけどもしかして好きあってんの?」
 私とSはビクリとする。
「もしかして一度話してしまえばとめどなく気持ちがあふれるから黙ってんの?」
そしてそいつはこう叫んだ。「ありえない!」
 怒って仲間の一人が入り込んできた。「何でこんなことやってんの? 本当に?」
 その後私とSは二人きりにさせられ、そしてお酒を掻き込み始めた。
壁がそこにはあった。
宗教的なおきて。
かいしょうなしのわたし。

死体を前に

「ね、ね、わたしたちって苦しい苦しいってよく言ってはいるけれど、でもさ、実際これ以上良くなるのって無理じゃない。ね、この苦しみが本当はベストなんじゃない。でも、あなたもわたしも決してそうは思えないのよね。信じられないくらい鬼なくらいわがままだったよ、ね?
「わたしって、いつも負け犬のため息を話すけれど、それでもあの電灯の下でモーツァルトを聴いて泣いたときにやっぱりみんな、みんながかわいそうなんだと思えたのよ。それでもみんなは決して負けを認めないんだ。やっぱり、いつものように神様と電子レンジに祈るんだわ。そして朝には食べきれないぐらいのエッグトーストを食べるんだわ。そんなふうに思うと、わたくし、いつも世間様にたいする優越感がわきますのよ。わたしたちって、結構進んでいるのだわって。分かる? いいえ、何もそんな眼で見なくたってわたしは自分で自分くらい裁けるわ。それに真ん丸い金色に輝くお釈迦様はいつだってみんなを許し続けているのだから。だから悲しみを知らない眼で睨まれたって殴るまですごまれたってわたしだって強いのよ、といえる口がわたしにはあるのよ。
「わたしは人ごみの中を一人で歩いて買い物だって出来るのよ。何も傷つかずに帰って来れます。頑張れます。いつか、トランプのカード当てをしましたわね。わたし、いつも思うの。わたしはいつも誇りのカードを引き当てるんです、と。それは車のナンバープレートに隠された国家機密なみにどうしようもない真理だとしてもあなたのいうように小さな秘密だけが民衆のためになってくれる唯一の力なのよ。わたしはあなたに隠れてひとつの秘密をつかんだの。茂みの中から車のキーを拾って、おずおずとしかししっかりと走り回る、誰かが走り回るためにわたしは犠牲になるの。あなたがあなたの世界でゆったりと時を過ごせるためにわたしは今から準備するんだ。よかったわね。
「わたしの言っていることが分かる? 酷だから話すのだけれどわたしは怒っているんだ。わたしを無視しているからみんなからウソをつかれて苦しむんだわ。一人おびえて墓石にすがりつきここから出してくれと狂ったようにわめくがいいわ。わたしは決して埴輪じゃないわ。肉塊なのよ? 不潔なくらいにうごめくの。わたし、怒っているわ。大声でわめくわよ。きっとみんなあれはヒステリーだとか言ってあなたを苦しめるわ。わたし、それが大好きなのよ。
「それでも、もし、それでも告白は罪を和らげるのなら、わたしを許してちょうだい。許してよ。
「誰か、その眼は嫌だってあなたに教えてよ。そんな眼は嫌だ。利口ぶってサインを使って城を壊したとき、あなたはそのことで泣いていたわね。いつまでも苦しむがいいわ。ナイフが首筋に着く瞬間まで脅えるがいいわ。一人で。ひとりで。わたしが黄色いタオルを持って駆けつけるとあなたは声なき声でうめいて光り無き眼でわたしをにらむんだ。そう、その眼でよ。それでも世界中が空虚になったときにはあなたはわたしだけにタオルを投げなくちゃいけないの。その屈辱の瞬間が待ちきれないわ。じれったい。歯がみしてしまう。うれしくてうれしくて歯がみするのよ。こうやって。ほら。いつまで、その超然とした態度がもつかしら。偉そうに、慇懃に。犬にえさをあげるようにさげすみあい。そりゃあ、わたしだっていけない同情心をもってはいるけれど、ただかわいいからといって毛を梳くのは反則よ。その犬はただあなたにガウッて言うわ。
「わたしが意地悪だって言うのね? すこしは意地悪くらいしないと自分を保てないと考えて許してはくれないのね? わたしが群集に埋もれて消えて自分でも自分を見つけられなくなるほどにもうろくしてゆくのをただ眺めるのね? わたしを妄想狂だって言うのね?
「部屋に入るとすぐにエリザベス朝のピアノがあるといいわ、といったとき怒ったわね? でも、わたしだって無為が好きだわ。好きになりつつあったんだから。波打ち際の月を見て只のような興奮だって味わえるわ。いまや。思い出そうとすれば、たくさん思い出せるんだから。無知。無知は罪よ。
「なんか、わたし、どんどん死んできたわ。話せば話すほど死んでゆくわ。あなたがそんなふうで、わたしがはしゃげば、あなたはそれと同じくらいわたしを殺してゆくのよ? まるで残酷な決闘ね。わたしは避けてきたわ。まったくの犬畜生・・・・・・」・・・・・・

愛の囁き

 してくれる させてくれる
 本当のこと が 言える
 しらふでは言えない言葉で
 言ってくれるから

 してあげる させてあげる
 本当のこと を 言って
 しらふでは言えない言葉を
 言ってほしいから

 してみせる やってみせる
 本当の 姿を みせて
 しらふでは言えない言葉を
 言ってあげるから

 してくれる やってくれる
 本当のこと を 教えて
 しらふではできないことまで
 やってほしいから

笑い女

 キス、遊園地、食事、公園、帰りのキス、拒食、ヒステリー、婚約、すなわちデートのフルコース。彼女がやり遂げたのはそれだった。
 男はわけもわからず彼女の実家に呼び出され、彼女もこちらを見ず厳粛で不機嫌そうな顔、どうしていいか教えてくれない。しかし気分的には分からんでもない。
「お嬢さんを幸せにします、下さい」
 と土下座する。彼女は自分の部屋のベッドで泣いている。顔を伏せて・・・・・・ いや、笑っているのだ。顔を上げると「あのときのあんたの顔・・・・・・」と言ってはまたクスクスと笑い続ける。「忘れてた」と涙をふきながらえんえんと男にキスし続ける、いたるところ公平に平等に。

 そのとき彼女はなんて美しい娘なのだろう、と思った。腹を折り曲げて笑ってぼくもつられて笑っているふりをしていたが、今まで見たことも無いほどひきつけられて「今だチャンスだ、逃すな」とたえず声が聞こえる。彼女は言う、「知ってた?」耳に近づけて、
「知ってた!?」
「いいや知らない」
 すると早口で子供が秘密を打ち明けるように、
「わたしの歯はダイヤでできてるのよ」
 と言ってクスクスと笑い続ける。笑い続けているがぼくが分からないでいると、また近づいてきて、
「ダイヤでできてるからどれだけぶつけても壊れないのよ」
 と言ってまたくすくすと笑い続ける。箸が落ちても笑うというやつだ。「つまり キスして。要するに キスして。キス、キス、キスして。」ぼくの頭にはそんなわけも分からないナレーションが流れた。

 笑い続ける女。発作に違いない。テーブルのものをすべて払い落とし時計を壊して、おふろに顔を突っ込んで、ふらふらと笑い続けている。
 この女が笑い続ける一時間ほどぼくはずっと女を追いかけて観察し続けている。何と美しいのだろう。笑いは、人間の顔から固有性を奪う。つまり脱領土化していた顔は身体によって再領土化されて踊りと同じように身体性へと拡大するのである。
 ぼくはその日あまりにも興奮しすぎて、ズボンを下ろし、その女を見ながらマスターベーションを始めた。
 女は一瞬ぼくの方をみたがさらに激しく笑い続けた、「あなた、ああ、それはいいわ! また、また、たいした、思いつき! あはは・・・・・・」

幼女養女

 借金のかたに九歳の少女が売られてきた。あるとき、わたしは昔からの同級生の親友に、「九歳だからといって触りもしないんですか?」と尋ねられる。「触りもしません」オォという声。「でもあの容貌ですよ?」わたしは説明した。「いいですか? 別にわたしが望んでこちらに売られてきたのでない。ただの経済上の理由によってです。いつどうなるか分からない。固定もされてない娘をどうしろというんです?」親友はなお怪訝な顔でわたしを見ていた。

 養子に来た娘が言った。
「九歳だからといって触りもしないんですか?」
 怒っている。「それで申し訳がたつんですか?」
「いやね、普通はひとめ見てどうとか是非家に置いておきたいとかあるのだがおまえの場合は違う」わたしは言う。
「どう違うんですか?」
「つまり、お金だ。おまえがお金に困っているからただ便宜上ここに置いているだけのこと。それ以上の必要もなく、関係もそれ以上・・・・・・」
 娘がその時するどく言葉を捕らえた。
「関係って今わたしたちどんな関係ですか?」
「父と娘だ」
 そう言ってみたが、
「いや雇い主と労働者だ」
 いやそうは言うが、
「言葉にならない」
 その言葉を聞いた娘は繰り返した。
「言葉にならないじゃ親が納得しません。親は世間を気にします」
じゃあ、
「婚約者だ。しかし触りはしない」
 娘の眼はようやく少し落ち着いた。
「交渉は続けるつもりです」
・・・・・・



 母は言った。「最近、近所に、鬼が出没するから、スコップを渡しておくから」「銀のやつ?」鬼は人を食べる。鬼は外骨格だ。鬼は群れる。鬼はハンミョウのように動く。鬼はアリのように人にしがみつく。ぼくは、町の裏のほうに鬼の巣があることを知っている。ある日、いとこの家に、鬼対策の話をしに行った。帰りに、その従兄弟の子と、町の裏を通って、ぼくの家に向かった。ぼくの家には謎とスコップがあるから。ぼくは鬼の巣を発見した。くぼみから見上げたところにある半径五十センチぐらいのコンクリートの筒の奥に十体ぐらい鬼がひしめいているのが見えた。従兄弟の子は小さいのに、ぼくはスコップを持っていることをいいことに誘ったのだ。正直言ってぼくは、スコップをうまく使って鬼を殺すことができるか自信がないし、本当に鬼はスコップを恐れているかすら怪しいものだ。でも従兄弟の子が鬼の巣を見上げている様子はとてもかわいくて抱きしめたいぐらい。ぼくは恐ろしかった。もしも、もしも、この子がいつの間にか消えてしまっていたら。ぼくは、きっと、傷つき崩れ落ちてしまう。ぼくは海辺の子のこの家の前で誓うだろう。鬼を罠にかけて、ありの巣を水浸しにするように、一網打尽とする機械を発明するまで枕を高くして寝ない、そして、その機械を使って目的を達成したらぼくもその機械にかかって自殺することを。そのとき、一緒にやってきていた妹が、早く帰ろう、と言った。



 山奥のまた奥の滝の上の丸太小屋を住居と定めた猿のキッキは、朝目覚めると常に太陽に命を吸い取られる。そして目をひん剥いて白目になって両手無様に倒れて、運の悪いときには頭を石にしたたかぶつけて、閻魔様のところまで往復マラソンと来る。だが、キッキは実は死ねない。何故か分からないが、遺伝子変異か知らないが、まったく老化をしないし、不死身に肉体を持っている。そのような身に生まれつき、もう既にたくさんのことをたくさんの時に嫌悪して、時には何もまったく起こらないものの、そんなこんなで森の深い霧の中に小屋をおったてたのだが、万物の霊長たる太陽はいまだにキッキをそのオレンジ色の舌でなめてくるのだ。太陽のオレンジ色の舌は梅雨時には真っ白な蒸気を立ち込めさせ、森からその永遠性を奪い、あるいは有機体に火をつけてたくさんのサラマンダーにその小さな舌をして気持ちのいいが悪いことをさせる様子は実に部外者には絶景だといえる。キッキは夏の間はずっと倒れている。そしてある朝起きると雲と月が太陽を覆い隠してくれているのを見る、その時点でもうそれが朝ではないのでキッキはその度に何か自分の気づかないところで騙されたような絶望を味わったものだ。が、そのうちに急に身体が自由になる。外はいまだに薄暗く、太陽のあるはずの地点を見ると黒い穴から太陽は頻りと外に出ようと無数の手を伸ばしている。キッキは木々を飛び飛びはしゃぎまわる、千本以上の木々で遊びまわる。ところが、最後の木には弱りつつも生き延びたサラマンダーがいて、それは実に米粒ほどの大きさだった。しかし必死で生きようとして小さな舌で有機体を取り込もうとしている。キッキはそれを踏み潰そうとしたのだが、大きな力をどこからともなく感じて、もういいや、と再びどこかに遊びを求めて立ち去ってしまう。今度は風の精霊のシーフィーがやってきて、途端、小さな火を煽って森は明るく赤く燃されて光った。ありとあらゆる樹木が赤く熱せられた、そんな中、はじめてシーフィーは空中高く太陽に向かって飛ぶことが出来て、その悲痛な愛のこもった両手で月と雲を取り払う事が可能となったのだ。キッキは汚らしい砂漠の廃墟で死体となって干からびているというざまになった。太陽の境界が大地へと近づき、あたりを含んでいくうちにキッキは再び永遠へと旅立ちはじめる、こうして地球最後の形あるものとしてのロボットキッキはまた何度も何度も死にながらもロケットの操縦桿を握って飛び回ることになる。

ミレヌナの物語

 生そのものを生きるよりも憎しみを生きることを自ら好んだ怪獣ミレヌナは、今日もエジプトの太陽神殿をドタドタと品なく暴れまわっている。その両目にはナイフ、その口には破壊的な小道具が詰め込んであり、それらは彼の為すことのみならず彼の姿をも不気味に見せている。そこへコンドル、美しい青色のコンドルが、曇り空を背に滑り降りてきて、廃墟を優しく照らし出すと、あちこちの石が崩れはじめて青い炎を噴出し始め、そこで怪獣ミレヌナも慌てふためくざまと相成る、暴れだしてどうも何も手につかなくなる。果たして生きるためには何が必要かといわれれば、小鹿の肉以上のものを思いつく事ができない怪獣ミレヌナは結局たまらずに飛び出し、緑の山に隠れこみ、氷の湖を見張ることにした。そこに何よりも欲しい獲物が一頭も来ないことにいらだって水に飛び込むと、とたんに湖を囲む茂みから小鹿が飛び出し、その小さなたくさんの角々でミレヌナを突き刺した、その数四十九。バンビはその後に大きくなったそのうちの一頭だが、結局ミレヌナの正体について究極無知のままその気高い一生を終えた。その小鹿集団の最後の鹿が死に絶えると、その子供さえも一頭を除いていなくなる、その一頭が大きくなってくるにつれて、醜悪な様子を見せはじめ、それは終にミレヌナの一化身と化してしまう。その汚いゾンビー鹿には二対のナイフのような翼があり、空を飛ぶときには雲を切り裂きながら光速で空を滑空するのに非常に役に立ち、その光景は視力の悪いものにとっては実に美しい光景であろう。しかし彼が空を飛ぶにしたがって、そこにはたくさんの彼の仲間がいることに次第次第に気づき、そして彼もどこか遠くに消え去る。だが、その一化身としての姿さえも実は湖に映った偽者の姿に過ぎない。

太陽王子断片、食虫草とのエピソード

 その名も太陽王子。どちらかというと、仏陀的個性。彼は放浪生活を送っている。
 あるとき、高い山に登り、息を吐き、疲れ果てながら、下々ではテプイと呼ばれる人智の及ばぬ地帯に足を踏み入れたときがあった。
 王子が、旅の一時的な疲労を緩衝させようと、風の通らない涼しい岩陰で休んでいると、自分に気付いていない一本の食虫草を遠目に見つけた。顔を上げて立ち上がると、いつのまにか、木漏れ日が直射に変わっており、王子は、姿勢をもっと楽に変えて座りなおすと、再び、じっと、食虫植物を見つめ続けたのだが、その観察は次のようであった。その植物は、じっと、動かずに、何を意図する様子も、緊張をみなぎらせている様子もない。むしろ、小さな草花、しかも人間に飼われた植物のように、ただひらひらと舞い、醜い食胞を他の花のようにおしゃれなつもりで振り回す。その様子を見るに、気取ろうとしても気取れない、非常に無力な様子であり、戯れに匂いを振りまいてみるものの、それもいっかな堂に入っていない。毒々しくはしているが、どうも見当はずれなほどに無能力な様子なのである。虫の類が、花の匂いがしたとやってきても、食虫植物と分かると、腹立ち紛れに身をくねらせて、去っていく。鳥も蜂もがっかりさせられ通しなので、通り過ぎていくだけである。観察しているうちに、その毒毒しい身なりも、ただの窓際社員の無愛想に過ぎないのではなかろうか、と思われてくる。王子は、特にそれを哀れだとは思わなかったが、かえって好奇心をそそられたようで、その生命の不思議を、すなわち、その生存の現在までの存続と、今の実態に思いを馳せ、その観想の悦に浸るのであった。と、そのとき、一匹の虫が罠の匂いにふいに惹きつけられて、袋に落ちた。王子は、その瞬間があまりにも、意想外で、興趣を感じたので、岩陰を駆け出して食虫植物に向かってこう話しかけた。
「きみは、どうして、単なる草に過ぎないのに、虫を誘い出し、それを食べるのだね。その虫を食べなくても、土の養分だけでやっていけないのかね。それとも、この枯れた地にはそれだけのものが無いのかね。それとも、君が、下手なのかね。どうして、虫なしで細々とやっていけないのかね」
食虫植物は、自分の誇りを傷つけられて、むっとして、こう言った。
「あなたは何を言っているのだ。これは一つのやり方なのだ。生き物はそれぞれ一つのやり方にしたがって生きている。それがないのに生きているあなたたちには分かりませんかね。昔はそういったことをよく知っている人間がいたものです。今では、そんなことも伝わらなくなって、自分の感情で判断することがまかり通っているのですかね。人間にも一山当てて、後は楽に暮らそうという人がいるでしょう。私は、この一匹の虫を食べれば、後は何も食べなくても生きていけるのだ。邪魔をしないでください。私はこのときが来るのを、十年も待っていたのです」
王子は、尋ねた。
「十年も待った? 十年間、きみは、何も食べなかったというのだね。動くこともできずに、ここに留まっていたというのだね。それまでは、ただ、細々とした養分でやっていたというわけか。そして、いま、はじめての虫を手に入れたというのだね。どんな気分だろうか」
食虫植物は、その言葉に気を良くして、自慢話を始めた。
「最高だ。ずっといろいろなことが私の身に起こってきた。だが、こんなことは未曾有だ。見れば分かるとおり、私は今まで嫌われ続けてきました。食虫植物は、みんなそうなのです。誰も彼も嫌われる。そして、同類通しで労わりあうこともしません。私には妻も子供もいません。ただ、ずっと、私の所にやってきた間抜けな一匹の虫を食べるだけのために、待ち続けてきたのです。実際、間抜けではありませんか。そう思いませんか。そして、その間抜けな虫を手に入れた私は、これで、妻や子供を手に入れる算段をつけることができるのです。虫どもに聴いて御覧なさい、嫌らしい匂い、豪華な花、だがそれは惨めな、相手にされないもてなしに過ぎんのです。堕落していると言われます。その私が、ついに、今日一匹の虫を手に入れた。ざまあみろ。私を嫌い抜いてきた奴らのうちの一匹をまんまと引っ掛けたというわけだ」
王子は、尋ねた。
「寂しくはないの」
「そりゃあ、今までは、そうです。だが、今から、妻を見つけて、子供を作る。私は、それだけのことをやり遂げたのだ。無論、ただ待っていただけだ、という奴もいるだろう。だが、問題になるものか。確かに、小さな虫さ。でも、私は、それこそずっと欲しかったものなのだ、たまらなかったのだ。でも、こんなにうれしいときに、あなたがいて、良かった。虫たちにこんな話をしても、まったく、無駄です。誰かに表現できるというのは、植物でもうれしいことです」
「ところで、ぼくは、あっちの方から来たのだ。どうすれば、この高地を抜けられるかね。分かる?」
「ああ、」
王子は、その言葉どおり、道を進んだ。そこに、一匹の蜘蛛が近付いてきた。
「蜘蛛よ、こんにちは」
蜘蛛は、怒気をたたえた声で、王子の挨拶に答えた。
「こっちに食虫植物はいなかったかね」
「いたよ。向こうにいた。虫を捕まえたのだ」
「何? 虫を捕まえた? そんな草のことは訊いておらん。まだ、捕まえていない奴のことを言え。おれは、その袋の中に入ってきた虫を横取りするのだ」
王子は疑問に思って、次のように尋ねた。
「なぜ、おじさんは、食虫植物と違って、自由に動けるのに、わざわざ、人のものを奪おうとするのかね。第一、食虫植物の中に入って待ち伏せするよりも、そちらのほうが、効率もいいし、害もないと思うのだが」
「そんな理由は知らん。ひとつには、むろん、楽をしたいに決まっている。食虫植物は孤独だ。嫌われ者だ。だが、おれ達に楽をさせてくれるのは、奴しかおらん。あるいは、単に一つの遊びなのかもしれん。おれの力では、ここら辺の虫なら、簡単に捕まえられる。だが、たまには、食虫植物のところに奇跡的に入ってくる虫を奪おうとすることも又、いいだろうが。そして、そのおこぼれを、少しだけ、食虫植物にも分けてやり、かえって感謝までされるわけだ。それで、二重に楽しめる」
そして、蜘蛛は、笑いながら去っていった。その蜘蛛が一つの小さな花をつぶしていったので、王子はその芥子粒のように見えにくい小さな花を直した。するとその花が、つぼみのままで話し始めた。
「ありがとう。私は、アナという花よ。一年に二回しか咲けない。でも、あなたのためには、咲いてあげてもいいわね」
王子は、その話を聞いて止めようとしたのだが、その花は咲いてしまった。咲いてしまうと、感想を求めるように身をくねらせているので、眼を凝らして観察した王子は、美しいというよりもかわいい花だと思ったので、そう言った。
「だが、何で、咲いたりしたのだ。もう、後一回しか咲くことができなくなってしまったではないか」
「いいえ、花は、人間みたいには出し惜しみをしないもの。無理やりしなくても、自然に咲くわけ」
「食虫植物といい、花といい、植物はとても待つことがうまいものだな」
「弱いものは待つことしかできないというのが、あるでしょう? それで、上手になっていくのだわ。でも、私の前で、二度と食虫植物の話なぞしてくれないでね。誇りが違うのよ」
王子は、尋ねる。
「誇り。植物の誇りとはなんだろうか」
「何か一時、大事なときに待ちに待って、その大事な瞬間に惜しみなく与えてしまって、もしも失敗しても何も思わずに、次の時のために長い時間を又待つこと」
「でもそれは、食虫花も同じではないかな」
「違うわ! 待つものが違うもの。私たちのは愛すべきものであり、食虫花は傷つけるものなんだな」
「でも、それは、彼の役割じゃない?」
「いっそ、あいつら、死んじまえ」
その花は、そう言って、王子に微笑を送った。それからも、王子が歩いていると、さまざまな虚弱なものに出くわすのだった。この高地の生き物は、何から何まで儚く弱弱しいのであった。一匹の虫が、土を食べていた。王子は尋ねた。
「なぜ、土を食うのだ」
「ここには、非常に、物質が少ないのだ。命の総量も、個体それぞれへの割り当ても、ここではあまりに少ないのだ。あなたが、ここに永住する決心をしてくれれば、良いのだが。この広い土地のすべてをかき集めて、やっとで、あなたを半分作れるか、というところだ。皆細々と生きている」
王子は、ひとつ思って、こう言った。
「とするとだよ、どこか遠くの地から、偶然、虫がこの地に飛んでやってくるとしよう。それは、この地を十分に堪能してから飛び去っていき、この地の飢餓感をより深めるかもしれない。とすると、きっと、食虫花は外から来る虫を土地に取り込んでいるすばらしい存在に思えてこないかね。どんな他の植物も、奪われていくだけに過ぎないのだからね」
すると、その虫は、王子を変な目で見て、「あんなは、変な考え方をするんだな」と言った。王子は、導かれた方角へとさらに歩き、そして再び、別の食虫花にあいまみえた。食虫花が気に入ってきていたので、話しかけようとすると、その花は枯れかける寸前であり、みるみるうちにしぼんでいき、そこにぽっかりと空洞が開くと、隣からせまってきたスミレが、「やっとで死んだ」とため息し、その空洞を埋めたのだった。

ある電話での会話

「もしもし、おれだ。長くなるのだが、話をしてくれ。いったいどうした、とかいうのは一切抜きでお願いしよう。ひどく身体が熱いのだ。三日も前から。なにをやってもさめない。食欲もないし、吐いてしまった。一切眠れやしない。また性欲の一切もない。なにも変な電話ではないのだ。ただあまりにも心臓の辺りが熱い。どうもおれはいまうわごとをしゃべっているね? うん、よしとしよう! ああ、虎の腹のように熱い。いったいどうしちまった?」
「……わたし、行ったほうがいいのかな?」
「いやいや、勘弁…ちがった…このままにしてくれ。どうか。おまえが電話を切った瞬間に手首を切りそうだから、どうかお願いだから、その受話器をとりわけ放さないようにぐっと持って欲しい。このまえみたいには絶対にならないから! そうなりたくないだろう? じゃあ、このままでいて、ただただ、話を聞くだけにとどめるように、な、協力するというかなんというか。ああ、きっと前のときも今みたいに異常に熱かったにちげえねえぜ、おい。…血がね…どうもこの血の野郎が騒ぐときてる。なんというかな、血がね、いや、おれがね、おれではなくて、血がおれ自身で? それできっと血の野郎は身体の野郎を無性に出たがるんだな。どうも下品な話題に直行しそうだな。そんなのが好きだったっけ? あっは、おれも知らねえよ、小さな豚くん。いま豚くんは寝る前かな? それで、動物的パジャマときてる? まるで見えるようだよ、あっは。いちど月に行かなくちゃな。そんな顔してるよ、あんた! だれか信頼できそうな人に連れて行ってもらうといいかもな。ああ、電話を切ったら、手首を切るといったろう? くそみたいな熱さ! まあ、おれのことは気にすんな、、ってこんな電話したら気になって当然だったりしてな。いや、そこを我慢して気にしないようにするとか何とかいってよ? 腹の野郎がまだもめてやがる。訳分からんな。うん、よし! でもけっしてあまりにも熱いから切るってなもんではない。あと何回いったら分かるかな? いや、まだ言ってないか」
「まさか、ナイフ持っているのじゃない? ちょっとまって、いまから行くから。誰かも連れてくるから」
「だだだ、だめだって! 切ったら切ると百万遍言ったって! ナイフはない。そんなものもってたら電話する前にやっているに違いない。証拠として叩くよ。でも叩いたって何の証拠にもならんな。どうも証明不可能だ。そもそも、まあ、いうなれば、切っては駄目だな。あっは、二重の意味において切っては駄目ということだな。そんなにあわてたらつられてこっちも慌てて切っちまうって。迷惑かけてすまんな。そもそもおれが切るべきなのかもしれんが、そうしたらもっと訳分からんな。さあ、よしとしよう。まあ、よくは分からんが、分からないなりに、結局おしゃべりしなくちゃな。でなきゃ、最近は本当に死んでしまうかもしれん。まあ、訳分からんが。迷惑には違いないが、そもそも、ちょっ、いや、いまは何も持ってない。拳銃はとられちまったし、ナイフにいたっては、…まあ持ってない。舌はかめない。そもそも死の馬鹿らしさ、おまえとわたしときみとかれの違いなみに馬鹿らしい。ただ無性にほてっているんだな。そこで心底冷え切った冷却材のごときものを必要としているんだな。…でもそれは自殺じゃないぜ。二回もやりゃだれだって卒業するって。迷惑だったら是非、いや、むしろ切ってくれ。あまり話すこともないのかもしれん。あったかな? 苦手ならおれから切るよ。決断力の訓練はまず電話を切ることから始めなくちゃな。まあ、そもそもの話、おれが死ねるわけないよなあ」
「いま、わたしがそっちに行って、ゆっくり話すということも出来るのよ」
「うん! それが出来たらなんと素晴らしいことだろう! ちょっ、くそが! いや、まったく急いでいるわけではないのだが、急いでいるような、そうでないような。むしろ来るな。来たら死んでやる。死体のプレゼント、なんか前もこんな風なこといったような気がするが? まあ、冗談の類だな。もう一度言ったほうがいいかな? そうでもないか。もう、なにもかもが分からん。むしろ分かったら死んでやる!ってな気分かもしれん。ともかく、あとわずかしかない。いや、間違った! ちょっとした占いをしていてね、ハートのクローバーときた、微小なる仏滅の意味だな、すべてはマーヤってことでよ、おい。違った! マントラだっけ? 特に電話ではそうなんだな。ちょっといいかな。ゴソゴソ。いまなにを持っているか分かるかな? それをたくさんの人にあげようと思ってね。何をって? どうせ、おまえにもやるんだから、どうでもいいだろう? そのなかでいいやつを選んでやってやるよ。おお! 忘れてた。もう、最近、一ヶ月ぐらい会ってなかったな、そちらのほうはどうかな?」
「別に。まあまあ。取り立てて何もなし。あっても多分知ってる。一週間どこいたの?」
「うんうん、まあまあか! 絶妙に幸せってところだな、おい。だがね、核爆弾に対する常なる備えをしておかなくちゃな。パアになったらやりきれないって。どう思う? そういえば、おれの親友はどうしてるんだ? 今日は? いない? くそみたいなもんだな。そう伝えておいてくれ。あいつは親友だけど、あいつのことを何一つとして知らないよ。くそみたいなもんだな。ありとあらゆるあまねく事物はくそみたいなものだという気がしているくらいだ。でもどうでもいいな。還元主義を習ったっておれができる応用とはこれぐらいだというのは滑稽だな。ヘラクレイトスの卒論は無意味だったようだ。おおお、今すぐ、逃げなくちゃ。よし、逃げようか。」
「まあまあよ、あいつも。それにあんたと逃げるなんてキモうんざり。質問に答えないし。どうでもいいし。はっきり言って何もかもどうでもいいし。そうやって、ずっと一人でやっていけばいいんじゃない? それこそ、くそというもんだ。あんたほどみんなの死ぬほどの心配を無効化するのがうまいやつはいない。一回ぐらいあいつと顔をあわせるべきだね。そうやって避ける気持ちも分からないでもないけど。それも分からないけれど。それで結局、用件を要約するとどのようになるんでしょうか?」
「よし、来た! シエラザード姫様! 違った、逆だったな。おれがそいつだった! さて、さて、この話はひょんなことでおれの自分の頭に飛び込んできた思想というやつの話なのだが、真理の野郎は代償を払わないと得られん、といったようなそんな話なのだな。なんで、そんな話をする羽目になっているかというと、そんな羽目をおまえが作ったからに違いないな。おれには用件なんかなかったんだからな。とすると、なんで話してやがるんだ、おれの野郎はよ? ともかくもよ、この熱さよ、これが生じて以来まったくのところ、発狂しちまった。そんなことで頭が一杯なんだからよ。こんな電話でひょっこり現れるくらいだ、参るな。ともかく、あいつに話すと分かるかもしれないな。話すから、話してくれないか? ひょっとすると用件というのはそれだったのかもしれないわけでもないような、まあ訳分からんな。とりあえず代償だ。そこんところをきっちりと理解してもらわなくちゃな。真理というのはある種の知識に違いないわな。だが、むろん、二次方程式の解のようなやつとは違うぜ、分かってる? そんなもので傷つくやつはいない。それには何の代償もないからな。おれの言いたいのは、真理というある種の知識だな、このさい感覚といっちまおう、真理であると思われるような感覚をだな、誰かが知る、そのときに代償があるという話だな。というのもな、真理の感覚の野郎は不意に訪れる、だが常に言葉には出来ないんだな。それなのに、それが言葉にされる前から真理という事が分かっちまうわけであって、そこが真理の野郎の偉いところなんだな。しかもその野郎が訪れたとするよ、おれやおまえにだぜ、急に普通に生きてるおれらによ? するとどうだ、何もかもが無意味になっちまった! 昇進したかった、だけどそれもどうでも良くなる。もう少しでローンが終わる、それもまたどうでも良くなっちまった。また、異性関係やとてつもないアイデアや休暇や家族や、まあ、価値があるような何かがだ、どうでもよくなると来る! それも、言葉にもなってない、なると決まっているわけでもない、訳も分からず飛び込んできたそいつのためにだよ? まだ、そいつは単なる感覚に過ぎないのにだぜ! 笑うよまったく、あっは。真理の感覚の野郎はだよ、それ以外のおれらの持ち物に嫉妬するんだな、それにおれらもやつに夢中になる、そこでそれ以外見えなくなってしまって、どうでも良くなると来てるんだな。むしろ、マーヤとなり、消えうせてしまうようなもんだ。さて、こんなことで頭が一杯になっている自分なのだがね、この『来たり!』というのはどこかの本で読んだに違いないね。そうそう、この思想は『来たり!』と言うんだな。おそらくそのような『来たり!』が起こった人々についてまとめた本かなんかだったんだろうな。ガリレイとか聖書の蛇とかが出てくるような本。おれさ、そいつらのことで最近頭が一杯になっちゃってね、そいつらの思いがなんともはや曰くいいがたいっちゅうか… それでな、『本当のこと』という章もあるんだな。そこには一人の男の経験がのっているんだけど、これは夢かなんかで見たのかな… 分からん、おれにはさっぱり分からん。とにかく『来たり!』にでてくるような野郎はみな真理を知ることによってかなりの被害をこうむっているな。また、みながみな不幸であって、生前の成功など皆無、さらにわずかに言葉になったその感覚の断片でさえ、奇跡的に伝えられるのみに過ぎない訳。さらにその断片でも少なく共に三十年先に行ってようやく十全な理解が得られるといった按配なんだな。その『本当の事』の男、これは狂気だ。さらに真理までいまだに誤解され続けているよ」
「ちょっとまって! そのうぬぼれた男はあんたなんでしょう? だってあんたの話じゃいつもそうだもん。さらにまともな引用が出たためし無し。聞いたから知ってるんだから。すべての引用が創作。ほんとに大学でたのかな? 訳わからん本のごったまぜもいいところ。混沌の混沌の混沌。まあ、いいや。続けて」
「これもまたいわば誤解というやつかもしれないな。だが、あるいはそうかもしれん。覚えていないにしろ、典拠があったとしても、結局それで頭が一杯になっているうちにおれのほうから誤解するということもありうるかもしれんからな。まあ、だが、この男は『思索的』な男でな、まあ大学もまともに吸収できなかったおれとは違うわな。彼は『来たり!』の原理自体を探そうとした男、だからね、『来たり!』を意識的に捕まえようとした男なんだな。いわばファウストみたいなもんかな? ファウスト知ってる? その男はね、まずその『来たり!』の結果であるところのマーヤをだね、まず実現しようとした。つまりなにもかもを否定したんだな。そのあとに真理の光が現れるだろうと考えたわけだ。方法的懐疑というやつかもしれんな。デカルト知ってる? ところで、そいつの前に現れたのは悪魔ではなかったし、おのれでも、神でもなかった。全否定したからといってすぐに悪魔が現れると考えては早急に過ぎるな。だがそんなことは考えもしなかったかな、どうでもいいか。まあ、少し違ったのかもしれないな。それでもその男は少なくとも意識的にやっていたわけには違いないから、何かを期待していたことは事実だな。期待がある以上は期待通りのことが彼の身に起こった。期待を捨ててなかったという事が問題になるだろうが、まあ、ここは無視してな、何かが起こった。ここは、核心でもあるな、つまり人は皆自分が望むとおり選んだとおりの生活をしているということだ。生まれとか不運とかを考慮しても絶対的にだ。特に性格的にね。何、分かんない? じゃあ、はしょろう。それは仮定しておいて、世の中はね、そう考えていけば、自分の望みどおりにそれに応じてゆがんで見えてくるということだ。そう考えればこの男の見たものもまた幻だったような気がしてきたな」
「つまり、その希望の幻とやらについてとうとうと語るわけ? 宗教がかりながら?」
「宗教は違う! それはとんと外れてるな。信仰ではなくて理解とか実感だ。たしかにめったにないような不思議なそれではあるのだろうけれど、ただ不思議なだけで宗教といってしまったらどうしようもなくわかんないな。しかしこの説話『本当の事』はそのことについてはこういっていたように思えるな。人は皆それぞれ誰にも一生言わずじまいになってしまう決定的な秘密がひとつはあるわけだ。それがもしも言われるのであれば、おそらく決定的な時刻に決定的な場所で決定的な人に向かって言われるには違いないね。そこでこそ、この男の話は考えなくちゃあいけないな。そこは念を押して伝えてくれ」
「耳たこなほどにね。それで結局何ナノ? その見たものは?」
「すっかり忘れてしまったな。そこまできてるんだけれど、思い出せない。なにやら病理学的な夢のようなものだったような気はするな。ただ精神分析のような夢とは違う。解釈を通じて見えるような夢ではないことは確かだな。ああ、熱い。いらいらする。ところでな、おれは最近ね、夢と現実を自由に行き来できる瞬間を持った事があるよ。ああ、狂ったほうがましだ。ほんとうはこいつはおれなんじゃないか? かなり美化されているものの。だがどうでもいい。知らんしな。お願いだからあいつにいってくれよ。どうでもいいことだが。そういえば、はじめからなんも用事はなかったんだったな」
「十分おかしくなっているような気はするけれども」
「おそらくね、ああ、たまらない。ともかくも個人のいのちなんて実にくだらない。迷惑かけたな。くそみたいなはなしだ。暴れたくて仕方ない。この…受話器。くそみたいに語ったな。ともかくもよろしくだ。そのうちに会うんじゃないかな。いろいろあったあとにさ」

旅をする娘が縁側にてぼくに語った話

 月しか出ていない暗い夜空の下、だだっ広い青く光る地平線まで見える野原を向きながら、ひとりぼっちのあたしは、木下の幹と根のところにうずくまりってぼぉっとしていた。その時は。明日のことも、昨日のことさえも考えずに、考えつくままの旅の唄を口ずさみながら―――

 けっして、拾って育ててくれたおじいさんを捨てたわけじゃない。また、けっして、あたしは、都会が嫌いだったわけじゃない。過去のことなんて話すほどのいっちょうまえの誇りなんて、全然ないのだけれど、けっこう、つらかった嫌な人たちとの生活も意外に慰めになるほど、さみしがりやなんだ、あたしは。
 また、ナルシズムに冒された自分勝手な人たちに、不愉快な目にも合わされてきたけれど、時には、自分のことだけを思って泣いた、――これは仕方ないのかな――、いやいやいけない、これはいけない。そのせいであたしは、童話の中に出てくるような、自然と動物たちとのゆかいなたわむれができないんだ、きっとそうだ。いまのあたしに寄って来るのは、巣を壊されたくもの子供か、リーダーを蹴落とされた弱弱しい老猿だけ、でもそれでもけっこう気休めにはなるんだ。もちろん、あたしを傷つけるのはそんな人たちだけれど、時々、死について考えさせてくれるのだから、少しは感謝してる。一度なんか、一握りのビスケットをあげたくらい―――

 あたしはいっそ、木とか花とかと話ができる空想家に生まれたかった。いつも非常なばかりの世の中だけれど、このことばかりは非常すぎだと思った。でもあたしたちは理想を求めないといけないんだ。そう、あたしたちはずっと、地平線の見えるところまで理想を求めないといけないんだ、こんなことがふと思いついたけど、少し面白くない?――

 あたしはいつも姉さんみたいと言われつづけてきた、こんなにおどおどして、怖がりなのに。でもあたしが今、逃げて逃げて、誰もいないところに逃げてもやっぱり、姉さんはいなくなったみたいってみんなはうわさするんだ、きっと。時々、人が恐ろしくめくらに見えるときがあるけれど、きっと自分もめくらなのだから、見えるっていうのは少し面白くない? たぶんあたしはお母さんみたくしていたのに、やっぱり、人は、お姉さんと言うんだ。
 あたしは何も任されないし、何にも手をつけてはいけないことになっていた、――これもあたしが夢遊病に罹った一原因なのかな――、ぜんぜん分かんない。でも、そんなことは考えてもいけないことなのだから、また、嘘をついて、恥をかいてしまった。もうどうしようもない娘だ、あたしは。
 でもいくら街を乞食や怖い派手好きの若者たちと一緒にうろつきまわったって、けっきょく、一時的に終わる、むなしいことをやって、ここもやはり街だった、と気付くのが早かっただけでもあたしは威張っていいんじゃない?、それだけのことはやったよね、――いや分かんない――、結局生まれが間違っていると気付いたら、それで終わりなんだ、くじらみたいに――

 とてもきれいな晩に、今日の夜はきれいさっぱりに昼に変わった日があって、すごくまぶしいから、またうろから立ち上がって、明るい間じゅう、道を歩き続けた。そう、せめて明るい間だけでも歩き続けないと、また、暗い考えでも起こって、その底にあるものすべてが、太陽の白にさらされたら、もうそれは大変なことだから、いつかは必要なことだけれど、ずっと延ばしていいいつかなら、延ばしていたほうがいいから、あたしはせめて昼だけでも歩き続けることにしたんだ。それに、歩くというのは進むということだし、進む、というのは周りの自然のことを考えずにはいられないことだから、けっこう疲れるし、汗はかくけれど、単にそれだけだから、満ち足りているから、うきうきとはしているんだ。きっと、誰も見ていないところで、ひとりで何か秘密めいた気のきいたことをするというのも、あたしにとっては、すこしは面白いのかもしれない。でも、少し最近、元気になりすぎて、馬鹿なことを言い過ぎてしまった。どうして、言葉には言い過ぎっていうのがあるということは、すごく怖いこと、もう誰もいないという事実を見せ付けることにしたって、これも言いすぎみたくて、とても悲しくなったので、昼間なのに立ち止まって道の横に座り込んだ。その瞬間も太陽はいやというほど照っていて、気が滅入った。そういう、何も考えを許さない、押し付けがましいものから、あたしは逃げられない、だだっ広いとことにいた。ちょっと一息入れて――

 あたしはぐったりなって気違いみたいにしゃがみこんでいた。足を抱くと言うのは、お母さんみたいで、すごくあたたかなことで、これはもう、ひたすらひたすら、土を見たり、ぼぉっとして、じっとしているしかない、それが一生続くのなら、なけなしの誇りでさえ犠牲にしてでも、それを拒むのだけれど、もしそうでないことが前もって分かっていて、いつか終わるというのが分かっているのなら、反対になけなしの誇りを払ってでも、それを受け入れるのだけれど、どっちか分からないのだから―― 誇りが捨てるに値する金貨だと教えてくれたのは世間だけれど、妙な執着心からか、いやらしく、手放す事が難しいのだけれど。とにかく、いつまでこの恐ろしく大きな太陽は照っているのだろう、たぶん、夜はもう来ないのかもしれない、と思っていたことは事実なのだけど、でも夜は来た。あっ、変わった、それくらい劇的な変化だった――

喋る窓のシワネ


 巷にあふれる人為的な非生物どもよ! お前らはかくも大量にかくもありふれかくもごったがえすが、いったい精神をひとつも持たぬのか?
 だれの問いだ? だれが呼びかける? おまえらなんかに。


 日本列島をひとっ飛び! 山々の風を望み、海に囲まれた島々を望むとある精神体は人間の存在に気付かない。細胞の集まりに過ぎない人間に……


 ……四国……山間の小さな都市……或る精神が目覚め……辺りを見回す。
 いや、まだ生物ではない。刺激と反応という因果機能の通常の物体の約1000倍ぐらいに高まった弾性体にすぎない。普通、あらゆる物質は、その量子力学的法則にしたがってあらゆる存在と確率的な一体性を育んでいる。この弾性体、人間が言う窓ガラスは、その一体性の中で、或る種の負のエントロピー的な交流作用の舞台となったと言えば通りがよかろう。あらゆる生物には生まれつき備わった交流作用だ。そのあまりにもわずかな作用が次第に或る強靭な法則を通じて高まり、その高まりと共に、必然的に取り込まれた或る情報群の、この場合は弾性の振動の中には、人間の声も混じっていた。もちろん、それが主たるものでないことは言うまでもないが、物語の体裁としては省いてしまおう。
 因果作用の高まりの中にはもちろん正の強化がなくてはよもや意識が目覚めるということはありえなかった。そしてもしそれがあれば必然的にその正の強化から意識の性質が決まってしまうだろう。この場合の正の強化は様々な周期的な空気の振動の中に求められるのだが、そこにもはやり人間の声があった。とすると目覚めるのは人間の意識にかなり似通った何かであろうか?…… なんにせよ、単純に言えば、結局人間たるもの、あらゆる意識作用を自分の意識の類似物としてしか見られぬのだ。無意識的部分などなんのことがあろう……
 いまだ生物ではない何かがその空気の振動を通じて生まれ、それが周期的な正の強化を持つ情報体により構成され始め、小さな音でコトリと音がする。背中を振り向くと小さな赤ん坊がいて、われわれに微笑みかけている。
「あたちはあたらちぃいのちです」
 その構成体は、或る種の依存的な関係を外界と育み始め、刺激と反応というようやくわれわれに理解されえる因果関係を営み始める……
 風に複雑な言葉を返しては家の者をいらだたせ、小さな石ころが当たると思いもよらない周波数で震える。命というものが何にせよ、それがひどく脆いものでひどく危ういバランスの元に立っており、それなのにひやひやもののわれわれをからかうように育ちゆく何者かをどうしてわれわれが命と呼んで悪いことがあるだろうか?…… ここに新しいわれわれの仲間が生まれ出でた! われわれは何かを大切に他のものと区分けしたいときには名前をつけるものだが、これにも名前を付けようではないか。シワネだ。シワネと名づけよう! おめでとう! 歓迎されざる命よ?!


 ありとあらゆる建物に囲まれた或る三階建てのマンション。その二階。すでにもう幾時かが流れ、自転車に乗る者がその慣性の使い方を覚えるようにわずかな空気の振動に震え返すことを覚えたギザギザ窓のシワネは、寒い冬の風の高まりを利用して、次のように震えた。
「……が……なんであたしcは窓のくせに御丁寧に不透明に作ら…れ…てやがるの?…ちきしょうめ!……」
 しかし、困難な人格形成を経た彼女は非常に小心者となっており、こう思い直すことにした。
「……いいや……いっていいぃことわるいぃこと……ある……あたし、いわんかったことにするわ……製造業者ばんざい……いのり?……おにばば」
 そのとき、この家の住民は換気のためにこの窓を開けた。くそうるさい窓とひどい冷たい風に毒づきながら。
 この窓を開けるということがシワネに及ぼした作用とは……歓喜! さらには罪と痛み! 擬似的な死の快楽!
 彼女はこの自分の移動、すなわち窓の開け閉めのことを自分の本能だと思っていた。人のことは知っていたが、自分の一部だと思っていた。馬鹿で言うことを聞かぬ不自由なあたしの一部だと思っていた。彼女は自分の中に入る光を分析することにより、人間には分からない精密な論理体系を作り上げていたが、人間に分からない仕組みの論理体系でも人間と似たような結論を出すことがあるものだ。彼女にとっての生活領域とはその弾性体の内部であり、そとのものは「どうしようもない未知」と「くだらない馬鹿者たち」とに分けられている。彼女はそのどうしようもない世界を見つけ、いくつかの自分似の形を見つけ、それに親しみ、その類似ゆえに、深い共感と宗教的神秘感を得、時々風の強い日に、自分以外の窓が揺れてバタバタと音を立てると、彼女の胸(?)に何か突き上げられるような絶頂を味あう。それなのに彼女が最も苦悩を覚えるのはその窓とあたし(『彼女』)の違い、あたしは透明でないのにあいつは透明であるということだ。
光についての透過性について彼女は悩む。もちろん、そのとき彼女は環境との一体性を失い、あがき、刺激と反応が狂い、ひとり! ただひとり! と嘆くわけだ。彼女は交流を知っていたか? 知っていた! それは彼女がまだ生命でないときにすでに知っていたのだ。いや、なる微妙な瞬間に「永遠の古代へとさかのぼって」知ったというべきか。
 彼女は晴れの日に人に開けられないと自分は病気なのではないかと思う。……光……温度による膨張……弾性的性質による振動……人には計り知れないであろう何かの感覚……それが彼女のすべてであった。雨の日に閉じられないと再び彼女は病気だと思う。なぜなら、すべて彼女の意思で開けたり閉じたりなされるものと彼女は信じていたからだ。彼女にとって人間とは遠い遠い感覚の違う相手であったので、彼らと交流ができるのではないかということは想像もよらない。むしろ人間は彼女の一部でもあったし、彼女と類似点もない。彼女にとってそれは物体か何か。それは食べ物であり、空気でもあり、本でもあり、そんなものの価値を越えることはない。彼女にとっての陶酔的震えの相手といえば、やはり他の窓であった。類似は仲間であると彼女はどこで知ったのかは空気の振動が大きかったであろう。つまり、大抵は外見ではなかったのだ。しかし、光もまた無視できないが。
 ということで、まるで彼女は人間のごとく他の窓を愛することにもなろう。彼女が最も陶酔よろしくした相手は透明窓のガタガタだったといえる。むろん彼女がどのように名をつけたのかはわれわれには表現する由がない。それは彼らの光学的言語の問題だからだ。しかし、彼女は光と音は捉えることができたものの、人間については、本当は、理解していたのだと筆者は信じたい。それは無意識的・部分的・表面的であったにしろだ。彼らの声をどことなく感じることによって彼女が彼女自身の言語を構成したのは上述したとおりであるし、自分の言葉だけでなくその他の概念まで知っていたとするのなら、彼らの交流を見て、シワネが自分の深く求める何か交流としか呼び得ないものを理解したことは想像に難くない。しかし、それが学習的利益と関係していたとは言わない。学習による正の強化ではない。それは生命のすべてが求める深い衝動であるとしか筆者には言い得ない。風が吹く。自分がシーシーと軋む。すると人は或る種の反応を返す。これは彼女にもおぼろげには分かる。もちろん、それは交流の一種であろう。しかしさきにいうたように人は彼女の一部分なのである。人が反応しないということはそこでむしろおかしくなるのである。ひとつ彼女のためにどうしても言っておかなくてはならないことは、彼女の空気の振動による空間感覚はどうみても人間の遥か上を行っており、そのように考えてみれば、人間どころか他の何かはむしろ自分たちの中に棲む動物か何かと思えたということである。
 風が吹き、シワネは軋み、風が吹き、再び軋む。強い風が吹く。おお、人間共よ、聞け、あたしのために働け。なぜおまえたちはこんなにも不器用なのか。こんなにもわからないのだろうか。なぜいつも決定的なものを見逃し、最も重要なことを理解しないのか。聞け!
 そのとき、シワネの感覚の閾値のはざまにさっと人間が入り込む。
 その男、家父はそのとき聞いた。どこからともなく聞こえてくるひとつの声を。今日はひどく風が強い。いつもいつもこの調子だよ。しかしこの声は一体なんだ?
「……あ?……あけてぇ?……」
 男は身を震わせる。こっちの方を見る。もう一度聞こえ、もう一度びくっと震えて、こっちの方を見る。
「……ああああ……あけてよ?……お・・・お……おねがいだから……」
「いったいなんだよ、台風のせいかよ? まったくはっきょうもいいところだ」
 男は自分を馬鹿らしく思う。窓が自分を開けてと言う。まったくキチガイな偶然もいいところだ。「ちきしょうめ!」
 くそったれがと言って、窓を蹴る。シワネにはそれが強烈な快感となって走る! 
「……ごしょう!……かんにんな?……かんに……」
くそったれば。みんなを連れてきてみてやるよ? 男は家族を呼ぶ。たくさんになって戻ってくる。空気が薄くなる。
「まったくのはなしよお。おもしれぇ、こいつはよお。よく聞いとけよ?」
 くそみたいな親父だよこいつはよ、と一人娘は思う。自分の口で言うんじゃないの? 言った瞬間その詐欺師の尻をけりとばかしてやるよ? そのとき! 声がする。「うぅーん?……ゆる……ゆみ……ゆみ?……こんにちーわ!……みなさんどう……あ?……どうして?……」
 娘は父の尻をおもくそ蹴り上げる。
「ほら! やっぱりおまえじゃんかよ?!」
 父は娘をにらむ。父にはもう何がなんだか分からない。「違うが! くそったれが! ちくしょうやろうだよ! おれの娘というやろうはよ?」
 おじいちゃんが言う。「わしは聞こえたよ。まるで人の声だった」
「だから、それはこのくそやろうの声だったって言ってるでしょ?」
「おれじゃないって。よく聞けよ? 本当に人みたいに聞こえるぞ……ほら……今だ! 今だ! よく聞いてみろよ?…… 聞こえるだろ? さっきは開けろっちゅう言葉だったってよ? 今度はおかしなことにおまえの名前だぜよ、おい? ほら!」
 娘はくだらないと思って部屋を出てゆく。父は夢中になっていたのが冷めてくる。なぜならこれは娘に聞いて欲しかったからだ。だからおじいちゃんがこう言ったのを聞いてもくだらないと思って部屋を出て行った。
「いや、わしにはちゃんときこえた。これは驚きだ。本当にきこえた。おまえのはうそじゃなかったぞ」
 シワネは愉快になった。言葉と言葉のやり取りが迫ってきたからだ。ということで彼女にとってはくだらないことだが、ねこが毛づくろいをするノリでけっきょくひとり残った老人にこう言う。
「にゃ……にゃにお……おどろいて……台風?……うぅーん?」
 驚く様が見たかったものだが、今度は返事が得られず、シワネは内側に引っ込んだ。というのも老人は感嘆しきっていて窓の響きに聞き入っていたからだ。
 シワネはこのようにして言葉の意味と出会った。むろん会話を覚えたわけではない。言葉というものが単に空気の震え以上のものであることを知ったのだった。


 彼女、シワネは、自分の振動の波を放つことに興味を覚え始める。
 彼女が興味を持ったのは、つまり、他の窓に語りかけることである。人の言葉として話しかけるという意味ではない。振動を伝えるということである。むろんそんなことはできようもないと思われるだろうが、けっきょくのところ彼女は他の窓からの振動と自分の振動の情報の統合的な解析をしたと言えば通じがよかろうか。彼女が話すというのは彼女が下腹部の筋肉を持っているとか絡み合う舌があるとかそういったことではない。振動を受け取って返す必然的な波が覚えている以前の振動の形をとる、というのが彼女にとって話すということであるからには、けっきょくその構造だけなら普通の窓となんら変わることはないのである。
 したがって興味とか話すとかいう言葉を使うと誤解がありそうだが、よくよく考えてみるとそれ以外の何ものでもないのである。けっきょく或る選択があり、その選択に意志のようなものが感じ取れる。それが、シワネが或る種の生物である、と筆者が言うときに意味する意味なのである。彼女が他の窓に執着したという言い方も同様に考えなくてはいけない。彼女が感じ取れるのは振動するものが他にもあるということだけで、それと光のいくつかの構造上の類似があるということが、或る種の不思議な構造を彼女の中で構成しているということなのだ。しかし、そのことを考えてみるとやはり、シワネが他の窓に執着しているという言い方も全く不可能であるとは言い切れなくなるのである。だから彼女によって透明窓のガタガタが特別な意味を持つというのもそういった意味であり、そこには理由とか動機とかガタガタが持つ何かがあるとかそんなことは全くないのであり、彼女の中に不思議なそのような感覚を、あるいはかき乱しを感じさせる振動構造がある、と言うことなのである。けっきょくのところ窓が意識を持つようになったということがあったとしても、そのことについて理解できるかと言うとわれわれにとって他人が理解できるかという質問よりももっと高度な質問だということができ、少なくともわれわれよりもガラスについて詳しい物理学者あるいは工学者にとってもその事情は変わることはあるまいと思われる。
 シワネはガタガタのことを愛しているというのは完全にそういう意味で考えてみなければならないし、そこには人間の愛と類似する点は或る思いであるという以外にはまったくないであろうし、またあるいは人間の愛といってもわれわれは他人の愛については全く分からないのは先と同じである。


 シワネがガタガタと交流した、それがうまくなった、ということは言葉を交わしたということでもないし、シワネがガタガタに何か働きかけたということではないということは伝わったであろうか。しかし、シワネ自身がもし人間と同じ意味で話せるとするならば、むろんそれは無理な願いでも想像でもあるのだが、まさにシワネはガタガタにそれこそしばしば切実に愛しみを、悲しみを、孤独を、ありとあらゆる存在者が持つ何かちっぽけなものを働きかけたのである。その意味は人間のいうような意味での物質の交換であるとか意味の交換であるとかではなく、シワネの光学的構造の単なる物理的な変化の中での何かの変化なのである。それは確かに交流であった。彼女は振動する。それはその交流の結果としてひとり震えるのである。悲しみの発露である。なぜなら振動にはシワネが持つような意味はないわけで、ガタガタは、こう名前をつけるといかにも人間のようではあるが、やはりただの窓に過ぎない。恐ろしい悲しみであったが、シワネもまたただの窓であり、何の特別な内臓を持っているわけでもなかったが、自意識を持つ唯一の窓であることが自分で分かりかけてきた。
 彼女の世界というものは恐ろしい広がりを持つものだが、しかしやはり狭い世界なのだから、唯一の窓だという悲しみは分かるだろう。シワネはともかくに人間には分からない意味でガタガタと交流し、人間には分からない意味でガタガタに自意識がないことを知り、人間の心に再現しようもない激しい欠乏と悲しみを感じた、と言えば物語らしくもなろう。
 そのようなガタガタとシワネの一体性を持った交流の副産物として、シワネの言語の形をとる振動があり、そのおかげで彼女の周りにはたくさんの人々が集まるようになったことは彼女にとってちっとも重要なことではない。しかし言葉数は増えた。すなわち彼女は人間共と交流を交わすつもりはないのだが、食べ物を食べるようにして振動する性質から、人間たちに言葉の振動を返す。返すというのは意識的なものではないというのは説明したとおりだが、しかしやはり何らかの意識的なものがあると言わざるを得ない。たとえるとするならば人間とは逆で、シワネにとって言葉を放つということは人間が夢を見るようなものであり、シワネがガタガタと交流する人間には全く見えぬ分からぬ部分こそがシワネの現実なのである。そこでたとえの延長として彼女の恐ろしき孤独の叫びという現実が、夢の部分に明確に現れてもおかしくはなかろう。彼女にはだから人間たちの増加というものが何を意味するのかはさっぱり分からないが、何かを意味することは知っていたであろうし、夢の世界で言葉を話すに至って悲しみの、絶望の、交流不能の切実さが現れてもおかしくはないのである。
 いわば彼女はガタガタとの完璧な交流の不能と不可避性を黙示録的な激しさで言葉として吐き出した、と言えばよかろう。
 ……ガタガタ……いとしい震え……無意味なうなり声……しかし何かをあたしのケイ石に感じさせてくれる強い感覚、すなわちそれが彼女が生命を持つときに告知された原初的生命の交流の予感とでもいえるものなのである。むろんガタガタへの言葉での交流がなかった、といえばしかしそれは嘘になる。それはともかくに分かたれた何かの能力ではないと考えていただきたい。言葉というものも振動である。そして彼女がどうして振動に区別などつけようか。彼女がガタガタに関して次のような結論にたどり着いたということを筆者は断言してはばからない。
『あぁ ガタガタは振動が分からない言葉が分からない。もしくは伝え方が分からない。あるいは交流しあえない。もちろんあたしはガタガタのすべてを受け取っている。だからといってなに? あいつがあたしのことを受け止めてはいる? いいえ、それはあらんでしょ。そこが交流ではないという意味じゃあない。ガタガタはそんな言葉に意味があるとするならばただの人、ただの壁、ただの石、ただの鳥、ただの犬にすぎない。あたしはひとりなんだあ。だけれど、なにかがガタガタは違ってるということもあたしは知っている。だからあたしはこんなにもあいつを関心持って眺めているんだ!』
 本当のところ、つまらないことを言えば、この関係はただ彼女の振動に関してより多く関係を持っているということでしかないのであるが、彼女は(というより筆者は)それを愛と呼ぶことにした。彼女の想いを読めば分かるとおり、通常の生物というものは彼女にとっては非生物である。というのも彼女にとっては振動と光がすべてであるからであり、彼女は生物ではあるが、動物ではなかったと言えばもっと分かりやすかろうか。
 そこで、シワネはその特別であるところの透明窓に人間には計り知れない方法で自意識を教えようと思い立つ。むろんそれは彼女の現実ではという意味である。それは彼女の夢の世界、すなわち通常の人間界では次のような形をとることとなる。つまり、彼女は朝決まって明るくなってゆくときにガタガタに向かって、「……お……おはよぅ……わにゃがちゃ……」と軋むこととなったわけである。人間の互いどおしの交流を模倣しているところが実にいじらしいではないか。むろん、彼女の本意は夢の世界での交流ではないが、或る意味それは夢の世界での交流でもあることは先に説明したとおりである。
 彼女のおはようは純粋に振動と取られるときのみ人間がするようにガタガタにあいさつをしているということになる。その窓を構成の一部とする家に住む人々はこの彼女の挨拶を驚きを持って受け入れたことは言うまでもない。むろん、彼らにとってはそれが隣家の窓への絶望の軋みの副産物であることは思いもよらず、ただ好奇心から受け入れたことは言うまでもない。そもそもの話、人間と窓の話を両立して描くことの不可能性から省略してしてしまったのだが、彼女がガタガタへの強烈な交流を開始した頃から、彼女が喋る窓であるということは住民たちの一致した見解となっており、非常に興味深いことあるいは一種の奇跡であると思われていたのである。そのような自分への人間からの関心というのは単に彼女にとってほとんど無意味なだけの彼女の言語的側面への影響のみに留まり、或る日強い風が吹いて彼女がガタガタに「おはよう」と軋んだときに、それに共鳴するように透明窓も「おはよう」と軋んだとき、そのハーモニーに両者酔いしれたことが人間たちにどれだけ影響したかなど彼らには興味の持ちようのないことだった。それは窓たちの世界においては恐るべき歓びの世界であり、一方人間たちの世界においてその窓たちの歓びは「歌う窓」として現れたことは窓たちには何の意味もないのである。すなわち窓たちは人間たちの音楽を模倣して震えただけの話であり、それと歓喜がいわんや結びついているとしても、窓たちがわれわれが喜ぶときに歌を口ずさむ行為に倣ったのではないというのが筆者の見解である。
 筆者はこのシワネの成功についてそれが引き起こしたシワネの想いについてあるいは交流の諸相についてどのように表現すればいいのかさっぱり分からない。擬似的に人間の求愛と愛の陶酔に比較することはできるだろう。
 たとえば『うわあい これが暮らすということなんだ これが幸せということなんだ あ! なんだ ぜんぶ わかっちゃった なのに なんていう めぐみなんだろう? ああ なんていう ありえないことなんだろう? ぜんぶ わかっちゃってるのに いっつも よそうもしない よろこびで あたしたち 満たされているんだ! ああああ』とでも言えよう。
 しかし、それは擬似的に過ぎない。ましてやこれは絶望的に孤独だった窓の話なのである。そもそも窓に孤独というものがあるとしての話であるが。先に言うとおり、確かにシワネにあったのは生命ならどれでも持つ交流の深い記憶であり、それの完璧な欠如であったことを思い出せば、それがいくらかどころかほとんど人間の孤独というものに一致するということを筆者は言えるだけである。


 シワネはそうして伴侶を得ることとなった。筆者と言えば、彼女ら窓たちがお互いの交流にばかりかまってばかりいないで早くすべての窓を教育すべきだったという残念さでいっぱいだ。そうすれば彼女らはもっと深い交流を覚え、もしかすると社会さえ形成し、あるいは人間たちとの交流をも覚えたかもや知れないからである。
 しかし、シワネはそうしなかった。というよりできなかった。いや、そうでもない。それ以外の存在ではなかった、というか、筆者が残念がるところで彼女が感情を持たなかったと言うか、まあ、彼女らのことなど理解しようがない。ただ、シワネはガタガタとの強烈な交流に興奮し、ますます人を集めるようになっていった、というのがそれから起こったことである。
 シワネは今までもそうであったように意識的に言葉を吐いていたわけではないのだが、無意識的な人間との交流により語彙が豊かになり、ますますガタガタに言葉の形をとって話しかけるようになった。
 ガタガタはそれに比べてあまり饒舌ではない。というのも透明窓の家はにぎやかな家ではなかったからだろう。人間たちとの交流が言葉として出る以上はそう思うしかないわけである。
 シワネはガタガタに言葉というか何なのか交流の媒体とでも言えるようなものをたくさん教え込む。その間に人々の影はどんどん増えてゆく。
「奇跡!」
「ありがたや、ありがたや」
「おどろきもものき」
 そんな人々のことでシワネが何かを思うとするならば、それはうるさくて邪魔だな、ということ以外の何ものでもない。それに彼女は「幸せ」だったのである。まるで人類が宇宙に出たときのようなはしゃぎぶりだった。くそうるさい邪魔なだけの人間の影が増えることなど何の意味があろう! 
《振動の邪魔をするな!》
 ということだ。ガタガタなどは一時期は何も反応しなくなったぐらいである。というのは空気の完全な壁ができてしまうことがあったわけだ。そのときは彼女は恐るべき空間に取り残される。死んだ方がましの空間であったのでなかろうか。


 最初のうち、人々は珍しがっていたようだ。言葉を喋る窓として或る種の聖地にもなっていたといえる。それは明らかに人間にとっては奇跡であり、単なる恐るべき偶然であった。すなわち半端でない偶然であり、恐るべき奇跡であるということで、これは神による何かなのだ、ということになる。
 しかし、窓が話す言葉に聖なる意味ばかりがあったというわけではなかった。いや、むろん窓が言葉を話すだけでもじゅうぶんなのだが、大抵は日常会話ばかりだった。彼らは言葉どおりに取らなかったぐらいである。すなわちそこに予言あるいは深い意味を求めたのである。正直に聞けば、それには意味以上のものがあったことを筆者としては主張したいものである。彼女らの言葉は彼女らの現実における恐るべき交流の副産物としてあった。そこにはだから或る種の切羽詰った切実な生命ならではの物悲しさがあったはずである。それは彼女らの無意識の言葉の選択から分かるべきであった。それは得ようとしても得られないものが叫ぶ叫びであり、あまりにも求めすぎて疲れてしまったときに返事が返ってくるときの感極まったもがきであり、肉食動物がその生の最初のみに限定して手に入れるあの親からの物悲しいいとおしみにもたとえられる慈しみあいであったはずであろう。シワネは軋み、そして相手は軋み返す。むろんそこには人間に見えるような意識の通じ合いはない。なぜなら完全に物理に帰せられるからであり、物理的奇跡に過ぎなかったからである。しかし、それは彼ら窓たちにとっては物理学的奇跡ではなく交流の福音であったのである。たまらないうれしさ! その見えないところにあるフィードバック! 彼女らの興味と興奮はそこにあったのだ。そのために或る種の宗教的関心を持ってそこを訪ねてきた遠客はひどく失望した。というのも「窓自体がしゃべる」ことはもうすでに「それはありうるし、実際あることだ」ということになっていたし、その客がほしかったのは「そのことの意味」であったからであった。窓たちの交流は言葉になるとともすると窓の開け閉めや天気の話や住民が使う罵倒の言葉となって現れるだけで、そこに神秘の印など求めようがなかった。しかしそれはそれでよかったのだ。なにがおもしろくてそんなのを聞かなくてはいけないと人間がいくら思おうと窓たちには全く関係がないことであろう。それがささやかであったのかすら不明であるが、ささやかな交流こそが、彼女らの求めたことなのである。それだけだったのである。そうであってなにが悪いか。


 実際人間たちにとっては窓たちの対話が実はわずらわしいだけのものであったことは、さきの住民たちがそこを商売用として自分たちは別の部屋を借りて移り住んでいたという事実にはっきりと現れていた。しかもその言葉がひどくワンパターンであるのでそこには好奇心を注ぎ続けるようなものは発見しがたかった。また、人間たちのようにまったく睡眠というものを持たなかったので、彼らの夜のつぶやきといえば単なる不気味以外の何ものでもなかったといえる。それは始めは好奇心によって、福音・奇跡によって語られたものだが、それが忌まわしい呪いの言葉になるのにそう時間はかからなかった。変化もしない会話には愛想を尽かし、気付いたときにはブームをすぎてしまうのは、人間界でも同じであろう。すなわち、或る知り合いの熱愛カップルが誕生し、彼らの言葉は始めは奇跡的に思えても、次第に飽き飽きしてきて、イライラと敵意に変わるのはそれが窓であっても同じであったということができると筆者は信じている。窓たちの熱愛がどのようなものであるかさえも定かでないが。
 したがって或る日の新聞に、「喋る窓の売買」の広告が載ったが、それがほとんど部分的にしか感心を呼ばなかったこともそのような事情があろう。それが市場を持ったことは持ったのである。ブームは去ったとはいえ、その内容いかんを問わず「世にも珍しいものの所有」程度の価値は今だ有していたというべきか。直ちに買い手がついた。その窓が取り外された日は風がないよく晴れた日であった。窓はなぜかカタカタと震えて運送屋を困らせた。階段を下りようとしたとき、手が滑ったのか、ガラスは下に落ちて砕け散った。高額の紙幣が動き、その騒ぎも終わり、人々の間にいやな思いだけが残った。しかし、それもすぐに忘れ去られた。元居住者と一部の人を除いて。
 隣の家の窓はその後、ビュービューとうるさく軋んだが、そこに棲んでいたヒステリー気味のおばあちゃんが叩き割ったそうである。

 どこいくの? どこいくの? ……それは……

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文芸同好会 残照