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残照TOP  [ ジャンル ] 小説   [ タイトル ] 池牛かばねと聖なる五芒星(3)

池牛かばねと聖なる五芒星    水原友行

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3 かばねとなしお―千年王国
 
   こな絵と一緒に流しソーメンを食べて、そのあと、
  「バイバイな〜」
  わたしが住んでいる開聞町でも海沿いのほうにある川尻地域の公営アパートメントに着いたとき、わたしは心の底から疲れ果てていて、何も考えることもできないただ機械的な状態にあった。つまりさ、あまりにも人間って疲れ果ててしまうとさ、こう、なんていうのかな、自分自身で何かしようという意思と言うものを完全に失ってしまって、ただ自分の習慣や経験や身体が覚えている動きに任せてしまって自分自身が麻痺しているような状態になることってあるじゃんか? わたしはまさにそのような状態にあって、車を止めて狭くて小さい階段を上り、2LDKは2LDKでも比較的にコンパクトな2LDKのアパートメントのドアを開け、電気をぱちぱちぱちとすべての部屋をつけていって、やかんに水をジャーと入れて、それにガスで火をつけて、お風呂を簡単に洗ってそれに湯を流し始めて、残っているお茶に残っていた電気ポットの水からお茶を入れて、いつのまにかテーブルの上に投げ込んでいた徳州会新聞という或る病院の一派が無料で配ってくれている新聞のテレビ欄を見るために、二つだけあるダイニングの小さなテーブルにお尻を引っ掛けて座った。
  つまりさ、この部屋を人間が過ごしていることを示すあの動きの中に投げ入れるために自分をロボットにした。そうすることによって、留守じゃないよ、と示すあの、人間、あるいは人間に類する知的存在がすごしているすべての家や部屋が持つあの輝きを注ぎ込んだのさ。そうして得られた達成感としては、今日という今日はすべて終わり、今日自分が義務としてしなければならない活動は何一つとして残っていないで、いままではりつめていて維持されていた一定の自分自身のまとまりのようなもの? それを完全に意識的に拡散させて、ようしてさ、あくびを好きなだけしたり、ねむくてうとうとしたりとか、そうしたことを自分に許せる時間がやってきたと言うことさ。
   自由だねえ? でも、それと同時に、まったく完全に孤独になって、意識も何もなくなって、ただただロボットのように作業をこなすだけの存在にもなるって、なんか人間の生活っておもしろいにも程があるじゃんか。ただこの時間の、夜の闇に向かっての無限の広がりと果てのない沈黙、わたしが知る限り、実家と一人暮らしのアパートメントの違いとは、ただそこだけにしか存在しないような気がするな、どう考えますかね、あなた。それとも、そのほかに、なにか別の、空間を満たしている本質的成分の違いがあるのでしょうかね、よく分かりませんよ、本当に。
   ところでそのときわたしは放心しながらも、なしおがこの一度部屋に来たことに気付いていた。というのはね、なしおがおよそ一年前ほどまえからずーっと書いていたというわたしの肖像画の木枠が裏返しになってテーブルを占領していたからだ。そんなに目立つ変化をまったくわたしが放心状態で気付かずに、言及する必要もなく眺めていたのは、まったくそのときわたしが疲れ果てていて、そんなことを気にする余裕がないからと言う理由からだけではなかったんだよ、言っとくけど。わたしってやつは、もっと、ひどいもんだ、要するにさ、ものすごい散らかし魔だったんだな。テーブルの上には、コップやらメモ書きやら広告やら読みさしの本やらが所狭しと置かれていて、もし盗人が現れてそのうちの何かをぬすんでいったとしても、また、小人族がその位置配列を入れ替えたとしても、まったく気付くことなく終わっただろうねぇ、それぐらいひどかったんだよ、わたしの散らかし癖は。だから、わたしの愛人兼恋人兼友人であるなしおがわたしんちのテーブルに施した巨大な変化である、その50センチ四方ぐらいの長方形の油絵、裏から見てもそれがわたしの肖像画であることは分かっていたんだけれど、が狭いテーブルの一部を占領していても、わたしにはその他のくだらない置き忘れたものたちとか散らかっている何かによって注意が逸らされていたために、そんなにたいした変化には思えなかったわけだ。木を隠すなら森の中にってやつですか、それとも用法を間違っていますか、知りませんが。
  ところでなしおはわたしの部屋の合鍵を持っていたわけではないんだよ、わたしという人間は本質的に、自分の部屋に鍵を掛けるという習慣に対する強迫性が圧倒的に欠けているんだな、ひどいもんだ。これはね、たとえば逃亡中のロシアの皇女様とか家出少女とかがもしもこの地域に入ってきて、隠れ家を探そうとしたときにさ、開けようとするドアに次ぐドアがもししまっていてごらんなさい。どんだけ悲劇的なことが起こるか想像つくし、それにそういったかわいらしい重要人物が家に帰ったときに部屋に鎮座しておりまして、エプロン姿で正座して、「おせわになります、少しの間でもいいのです」と新しい物語、庶民との物語を作るきっかけにでもなればというような意味合いもなくはないけど。そういう習慣がある家で育ったわけじゃあなかったんだよ、最初から。はっきりと言えば。それにさあ、実は、ぜんぜんいやじゃあないんだよ、ほんとの話。つまりさ、家族とか友達とかがさあ、わたしが外出している間にいつの間にか自分の部屋に入り込んでくつろいでいてさあ、わたしがドアを開けたときに、
  「やあ〜 来てるよ〜」
   とか言ってくれるとしたら、むしろプライバシーの侵害と感じるどころか、すっごく嬉しく感じるたちなんだよ、わたし。けれどもね、もちろんみんなそう言うさ、
  「鍵をかけなさい」
  と。でもね、家族がここに入ってくつろいでいる姿はおろか、盗人が入っていろいろ荒らす気配もなくこの方すごしているんだよねぇ、この部屋に入ってくるのは、仲のいい友人たちだけだし、その友人も入ってきてわたしがいなかったら大体何もないわたしの部屋にいるのが退屈で帰ってしまうみたい。それは残念だなあ、わたしのかわりにテーブルでお茶を飲んでいたり、シャワーを浴びていたり、あるいはお手製のお菓子とか買ってきたパーティーグッズとかを持ってわたしの帰りを待っているとか、そういうシチュエーションがないかなあといつでも心待ちにしているんだけれど、今まで全然そういうことがないということは、ほんと、残念だ。
  まあ、でも、さすがになしおはたまにきてくれるみたいだよ、わたしの部屋には別に大切なものはないし、見られて困るものはすべて持ち歩くか、焼却処分してあるものだから、なしおが一週間に何回でも来てもらっても、いつでもどれくらい滞在してもらっても構わないんだけれど、あんまりそういうこともないんだよぅ、本当に。
  というのはさ、なしおの仕事と言うのがかつおとかその種類の魚たちの水揚げの仕事なんだけれどさ、そういう仕事の間、20日間ぐらいはあるんかなあ、ずっとそれにかかりっきりで、隣町の山川の港のほうとか、2・3町以上離れている枕崎のほうとかにずっと出ずっぱりになるんだわ。しかもさ、たちの悪いことに、なしおと言うやつは、部屋で落ち着いて過ごすというのができない典型的な指宿男性のうちの一人なんだわ、これがまた。部屋で過ごしているとなんか落ち着かなくなってそわそわしてきて、なんかいらいらしてだめになるんだろうねぇ。外に飲みに行ったり、釣りに行ったり、ドライブに行ったり、あるいは景色とか見に行ったりして、これが猫みたいに家にいつかない人間なんだなあ。だから、水揚げの仕事と言うのは、あいているときには何にもすることがないぐらいに空いている仕事であるのに、そういうときですら、ほとんど自分の部屋にもほかの人の部屋にもいつこうとはぜんぜんしないのね。
  それになしおの部屋は、ほとんど、何と言うかな、いわゆる売れない絵描きのアトリエってやつかな。言わなかったっけ、なしおには絵を書くと言う趣味があるんだな、水彩画とか油絵を主に描いているんだけれど、そのせいでさ、同じ川尻だけれどずっと端っこのほうの海沿いのほうのなしおの家にいるときには、こいつは恋人のわたしですらそばにいさせてくれやしないんだわ、まじで。つまりさ、絵を書いているのに邪魔だと言うわけなんだな、知らないけど。恋人が入るぐらいで欠けてしまう位の絵に対する集中力しか持っていないというわけではないんだな。いや、そういいたいところもやまやまではあるんだが、実際はもっとひどいもんだ、絵を描いているときには恋人であるわたしに構うことすら忘れてこいつ絵を描いているんだよ、がちで。わたしに構ってくれない、構ってくれないやつの側にいるのは、彼女であってもごめんなさい。それで部屋にいないときには外のほうにデッサンしに行っている。これじゃ、わたしたちの関係って何だ、まったくいるもいないも一緒っしょ。
  というわけでさ、その妥協案として、景色を描くことだけが絵を描くことだと勘違いしているなしおに、わたしは、古今東西の天才画家たちは、たとえばピカソしかりルノワールしかりムンクしかり、あのゴッホですらしかりといえますね、人物画をまったく完全無欠に美しく書いているということをわたしのスクラップブックを見せながら説得し、ついにわたしはなしおの画家遍歴における始めての人物像のモデルとなったというわけであった、あぁ、合掌。いわなきゃよかったよ、単に少しは構われてみたいなと思ったぐらいの話でさ。というのはさ、このモデルの作業と言うのが、わたしは景色のようにずっと同じ格好をしていられないものだから、またすごいんだわ。そしてまた、プロでもないくせに、自分を芸術家と思い込んでいるやつの自分が芸術だと思っているものに対するこだわりについてはもう何も言いたくないな、わたしはモデルをして一番長くて30分持ったかな、喧嘩するまで。それほど大切にされるべき愛すべき友人であり恋人でありミューズでありモデルであるわたしにたいする注文と言うやつが、これはあなたにも聞かせてやりたいぐらいに専制君主カエサルも真っ青というやつですよ? ひどい! ありゃひどい。二十年来の幼馴染に対して、そして現在付き合っている彼女に対して、いや人間様に対して、まあ、よくもあんなえらそうな口が叩けるもんだと、逆に感心したね。まったく。そのうちに、もう君の姿もポージングもすべてぼくの灰色の脳細胞に納まっているからモデルをする必要はない、と言い出すしまつだ。ま、わたしのほうもすっかりそれ以来忘れてはいたけれども、いつのまにか、できあがっていたんですな、わたしの肖像画。美人でなかったら、ま、殺す、いろいろな意味で殺すけど。
   そういう考えを別にテーブルに座りながらかんがえたってぇ、わけじゃあなかったんだよ、その時は。そのときは、あ、なしおが描いた絵がひとつ完成したんだな、やれやれといった感じで、わたしはそれを見ることすらせずに、ただお茶を飲んでいた。そしてあまり興味もわかない、最近10日ぐらいの仕事でめっきり興味と習慣を失ったテレビ欄を眺めていたと言うわけだ。しかしさ、こころの底から疲れていたので、テレビをつけたあと流れる音声に、その音声と映像の洪水に、わたしの精神は耐えられないであろうことは明白だったよ。わたしというやつはさ、実は人間の姿とか意味を持った言葉とかに耐えられないほど緊張感を抱く人間なのだよ。たぶん、あなたなら想像つくかもしれないけど。だから聞いている音楽とかも人の歌声が入っていたら耐え切れないために、嘘だと思わないでよ? 本当なんだから。わたしの聴く唯一の音楽はクラシック音楽なんだよ。ただ作品何番とか、何とか調だとか、指揮者がだれで、どういう人たちが演奏しているとか、さすがに無学のわたしには分からんわ。まったく、分からないね。でも、人間以外の何かが奏でている音だけがわたしに耐え切れる音楽であることだけは確かだよ。ま、クラシック音楽を効いている二十歳の若人なんてどんだけハイソなんだよ、って絶対思わないでほしいな、死んでも思わないでほしい。わたしだって聴けるものならポップスとか日本歌謡とか知らないけれど、そういうものを聞きたいんだよ、そして仲良く誰かとカラオケでも行ってみたいよ、がちで。でも、わたしにはその可能性が生理的に奪われているんだわ、年末の31日わたしがどんなに苦渋の思いをして過ごしているか、そして定番のベートーベンが流れたとき、どんだけほっとするのか、少しは想像してほしいな、あなた方様。
   とにかく、テレビをつけることもうんざりしていたし、そんなことを繰り返すのもどうかと思うけれども、わたしはクラゲのように心底疲れて椅子に沈み込んでいたんだよ、その時。そして脳裏は、最近起こったことで一杯だった。いや、そうじゃないんだ、最近起こったことで一杯であるなんて自分を買いかぶるのはよせよ、かばね。おまえが世界のことに興味を持っているか? 世界や日本で起こった出来事に本当の意味で興味を持っているか? 自分にほとんど無関心である両親や兄弟について考えることを好もうとしたことが一度でもあるんか? それともおまえはこの世界がどのような意味で存在してそこでどのように生きてどのように世界を認識すればいいのかなどといった高尚なことを考える趣味を一瞬でも持ち合わせたことがあるのか? 自分がそれをしながら生計を立てている仕事とか、もっとどうやればうまく生きていけるようになるのかとか、自分の生活を楽にするためには自分はどのようなことを努力すればいいのかとか、そういった有意義なことを考えるのにお前は一秒でも自分の時間を割いたことが本当にあっただろうか?
   いいえ、ただ、おまえはただゆらとかこな絵とかそうした自分が本当の意味で愛することができ、本当の意味でその人たちから愛されていると考えている人たちと過ごした過去を、そして最近どのように過ごしてどんな言葉を交わしたかという思い出を、ずっと脳裏に浮かべて過ごしていたんだよ。そしてその間、うっとりと自分の無能力と無力感と絶望の中の、途方もない喜びに打ち震えていたんだ。わかるかな、そういう人間だっているんだよ、この世の中には、あなた様方。この世の中にはね、自分の狭い人間関係の中で完全に閉じてしまっている人間がいて、社会の共通利益とか社会の仕組みとか出来事とか事件にまったく自分が無関係で、関係があるとしても単なる被害者としてしか自分を認識できないような、県外どころか、町の外に出ることすらいつも躊躇している、いや、それどころか一歩町の外に出るだけでどうしていいのかわからなくなるような人たちが暮らしているんだよ。そうじゃんか? わたしだけじゃあない、それが馬鹿にならないぐらいいるんだよ? そういうことについてあなたは本当にしっかりとちゃんとアンテナをはっているのかな、どうかな? 
   もちろんさ、わたしだって誰かに聞かれたり、そういうことが必要になったときには、ちゃんとほかのことに興味を持ったりもするし、考えたりもするよ、ばかげているけど。だけど、今日のように泥のように心底疲れているときには無理だね、とはいってもさ。本当の意味では、最近、少しでも嫌なことがあったのかなあ? わたしを疲れさせるようなことがあったのかとわたしは自分に訊ねてみたいんだよ。仕事がつらかった? 自分の意味があいも変わらず何もなく、何者でもない自分がずっと続いていることがいやだった? そういうことが続いているから沼のように疲れているのかな? いやいやいや、そうじゃない。最近はわたしはすごく幸福だったんだ、なんか、楽しかったんだ、いやなことを含めて、いやなことから回復したりそれを克服したりした自分自身を含めてすごく楽しかったんだよ、それなのにどうしてこんなに疲れてしまっているんだろう? つらいつらい仕事の合間に、何の意味もなく何時間もただゆらと黙って海を眺めていた時間とか、今日、こな絵と蛍をともに見た時間とか。そんなものがいつも、毎年、起こるようなそういう瞬間だとかばねには思えるかな? いいえ、思えないよ。それはかけがえのない、今後の何年続くか分からないけれども永遠のように思えるわたしの余命の間中にわたしの人格の統一性を支えてくれる大切な思い出になることだろうなあ!
   それなのに別にそんないやなことがあったわけでもないのに、むしろ嬉しいこと楽しいことがたくさんあったはずなのに、そればかりか本当はとても素晴らしいことがあったはずなのにどうしてわたしはこんなに参っているんだろう? 疲れているんだろう? 何で? そりゃあ、気がかりとか心配はあるよ、わたしのような無感情な人間にもね。あんまり、そんなに大切に思っている人間はたくさんはいないんだけれど、たとえば最近合った人間の中では圧倒的なほど、ゆらやこな絵のことが気がかりなんだよ。心配しているというわけじゃあ決してないんだよ、分かってよ、そこのところ。心配するなんて失礼だろ、友達だからとかじゃなくて人間として。人間に対して心配するなんて失礼を前提にしてするもんだろ、それなのに、しかも友達を心配してどうする? 道義に反するだろぅ? そんなこと。わたしたちはそんなにお互いにもたれかかっていないし、世界に対して背を向けているやつは誰一人としていない。いるとしたらわたしぐらいなものさ。
  ゆらが苦しいのは、ゆらがにがてであるにもかかわらず、そのにがてな人間関係に、ゆらが必死になって、その問題に、まったく眼をそむけずに、けなげに気高く、まったく勇敢に眼を逸らさずに、逃げずに立ち向かっているからなんだよ、わたしならわかってやっていいだろ、それぐらいのことはさ。こな絵のこともそう。こな絵が現実から眼を逸らして幻想的な自分の世界の中に閉じこもっているだけだと批判するようななにも物事のことを知らないあなたのような無知な人間がいたら、わたしは秒殺しで弁護席にたって、論理的にこな絵の生き方について説明してあげる。ほんとうはわたしが説明する必要もないほどに、確固たる生き方をしているんだけれどね、こな絵は。だって、こな絵が他人にはまったく無益な欲望を持っているように見えるのは、単なる見せ掛けに過ぎないことはだれにだって理性があれば分かる話だものね。こな絵が持っている他人からすれば奇妙に非生産的で無益に思える欲望は、逃避とか誤解によるあやまちとか幻想ではない、彼女が生まれ、育っていく過程において、その生きる本質として必要とした彼女の身になってみれば当たり前である欲望なんだよ、だれにだってそんなこと少し考えてみれば分かるでしょ? もしもバイセクシャルのひとの欲望の吐露を見ることに耐え切れないんであれば、あなたは、彼・彼女から離れて生活すればいい。ただし、この世を構成している人間性の不可欠な部分に対してあなたは眼を逸らして生きなければいけない、ただそれだけの結果に終わるだけの話。それ以上のことはわたしにもいえないし、いう必要もないこともないじゃんかって、あなたにも分かるでしょ?
   話を戻そうか、そういうことはどうでもいいんじゃんか。
   わたしはテレビを見ることをあきらめ、そしてテーブルの上になしおが置いていった肖像画を取り上げた。持ち上げると上が一枚床のほうに落ちていったので腰を屈めてもとの場所に戻そうとすると、そこには、置手紙があった。その横には何か小さなものが置かれていた。わたしは、まず、左手に持っている肖像画のほうを裏返して眺めてみた。
   ある晴れた広がりの中に、空の青を背景に、奥のほうに、湖が見えた。そして、まっきいろな菜の花畑を背景にして一人の人間、それは大人になったばかりの少女が立っていた。わたしはその絵を眺めていてその絵の少女がわたしをまっすぐと見つめてくることに少しどぎまぎした。というのはさ、その少女の上は、恐らくわたしと同じく生まれつき少し色が薄くて黄色がかっていて、そして中学生の頃からずっと伸ばしていて、先っぽだけが天然にカールしているところはわたしと同じだろうが、しかしわたしの髪の毛よりももっとしっとりとした水気を帯びているように思えた。また、その顔はわたしの顔のようにまさに普通よりも白く、少し長いけれども長いと言うよりも細い顔で、そして眼だけはまるでゴルフボールのように大きかったのだが、わたしよりもずっと健康的で色艶があるように思えた。その少女の振る舞いは、まさにわたしがそうであろうとしているものに似ていたが、わたしよりもずっと元気がいいように見えたし、それにずっと自分に対する自信に満ちているように思えた。その表情や口ぶりは、まさにわたしがしそうな少しばかり当惑しそうな、なぞめいた表情や口ぶりであったのだが、それにもかかわらず、わたしがそうであるよりもずっと病的ではないように思えたし、やつれているというより生き生きした感じであり、わたしとは微妙に似ているがまったくの別人のようにも思えなくもなかった。しかしさ、それがわたしを見て書かれていて、まさにわたしそのものであるということを、見れば見るほどに分かってくるんだよ、それが。どう表現すればいいのかな。わたしよりも少しばかり鼻が高いように思えたし、わたしよりもかなり若く表現されていたし、それにわたしよりも幼い体を持っていて、すごく針金ほどとはいわないけど身体も細く描かれていたけれども、何ていうのかな。その美妙なわたしとの違いこそがその作者がわたしを表現するための、つまりさ絵という一種の比喩表現あるいは記号を用いてわたしを表現しようとするときに、必要な、まったく必然的な、つまりさ、わたしそのものを描こうとして工夫された違いだということに気付くのだ。この作者はあたかも写真のようにわたしを描くこともできたにもかかわらず、いわば本当のわたしを描こうとするために必要なずれをわざと書き入れ、その方がよりわたし自身に見えるように表現したのだろうな、ということが分かったんだよ。わたしはその絵を見つめながら、その少女を見ながら、双子のようにわたしに似ているが、わたしとは微妙に違っている、それでいて鏡で見る自分よりももっと自分自身に近いように思えるわたしの姿を見出し、ドッペルゲンガーを見たひとはこういう気持ちを抱くのだろうか、と考えた。それは素人の絵描きが書いたにしては大変上出来に思えるだけではなく、きわめて個人的な絵、もちろんそれはなしおがわたしについて描いたのだから、個人的な絵であることは分かりきっているんだけれど、個人的な絵なんだろうな、というそういう感慨を帯びている絵だった。こんなにあれこれいうからといって、わたしが絵について詳しいと思われると困るよ、しかし。わたしは普通の人よりも絵を眺めることが好きな人間ではあるかもしれないけど、絵について何も知らない人間であることは間違いなかった。わたしは気に入った絵のコピーとか写真をスクラップブックに集めていたけれど、絵の技法にも歴史にも理論にも表現方法にも何も詳しくなく、たんなる高尚な特に西洋の絵画のファンジンにすぎなかった。だから、なしおのような素人の絵をじっとこんなふうに眺めたときに、まさかこのようにいまわたしが感じているようなある一定の質量が、感情の重さが、よもや伝わってこようとは予想だにしていなかったので、それで少し驚いてしまっていたよ、本当に。自分が描かれる、ということはこういうことなんだ、と思った。さらに、自分をこういうように観察する画家の眼というものがあることに軽い衝撃を覚えた。そうじゃなくてさ、わたしは、たんにそこに大人のような少女が描かれていたことに、しかもそれがわたしであることに、くすぐったいような、恥ずかしいような、なんともいえない感じを抱いたんだ。
   絵から眼を離して、書置きのほうに眼を移すと、その上に乗っている小物がシルバーの指輪であることに気付いた。見たことがある人なら分かると思うけれど、シルバーの指輪ってそれがそれであることを分かってみないと、時々意味も何もないようなゴミのように見えるよね。けれども、それはシルバーの指輪であって、拾い上げて眼を凝らすと、ローマ字で「かばね」という文字が見えた。わたしは指輪を脇に置いて、書置きを拾い上げると、それを眼で追いながら読み始めた。
   
  かばねへ
 
   お疲れさま。
   お帰りなさい。
   そしてお邪魔しています。
   この紙のスペースは、少し狭いように思えるけれども、言いたいことは大変シンプルです。「あなたのことを愛しています。アイラブユー」
   ただそれだけのことを、昔馴染みの愛すべきかばねに言うために、どんだけたくさんのことをいままでに経験し、学ばなければならなかったか、筆舌に尽くしがたい。
   おそらく、自分ひとりだけの世界があると自分で信じていて、そう言うことによって、その世界が失われるかもしれないことが怖かっただけなんだろうね。言ってみれば実にシンプルな話です。というのは、昔馴染みのかばねを除いた、自分だけの世界というのが、ちょっといま数分考えただけで、そんなものは存在しない幻想的な世界に過ぎないということが分かったから。かばねとかかわっているみんなもそう感じているだろうね。
   あともうひとつ。ただぼくだけが、かばねとの関係において、潜在性のままに置かれているものを顕在化させることができることがありますね。
  「結婚しましょうよ、そうしましょう」
   自分がその最終的な死に至るまでかばねのことを一番大事にします。
  (あんまりもともとほかのことには興味ないんだけれど)
   その物質的証拠をひとつ置いておきます。しっつれい。
 
  なしお
 
   わたしはそれを見ている途中に涙で前が見えなくなった。感極まって涙が出てきたんだよ、恥ずかしながら。でも、それは残念ながら、いや、わけが分からないんだけれど、嬉しくてとか感動してとかして涙が出てきたというわけでは正確にはなかったんだよ、なんか不思議なことなんだけれどさ。そうじゃなくて、ロバのように疲れ果てて帰ってきて、もうあとは決まったことだけをして決まったように眠りにつくだけだと思っていた夜に、そこの許容量以上の出来事が起こったのでまずそれで当惑したということはあったと思う。完全に許容量を越えていたのはまず間違いないな。でも、それだけじゃなくて、こう、涙が出ながら私が考えていたのは、逆説的にこのような感じ? だったんだよ。つまりさ、その世界において誰かとともに生きていくということは、ただただ、その人と究極的には分かり合えないのだ、ということを知るためなんだろうなとか。人間というものはいかにどのような心理学者であっても宗教家であっても互いに理解することはおろかいつも誰かの本質には到達し得ないで終わるであろうとか。そればかりか、わたしは、涙を流しながら、世界にただひとりぼっちである、ということがいかに本当のことなのか。世界にただひとりぼっちであると感じてきた自分の感覚がいかに正しかったのか。それを感じていたんだよ、ほんとさえないことに。自分が世界にただひとりぼっちであるということで喜びを感じる人間であるということで悲しくて泣いているのか、ないているからそのような感じを抱いたのか、よく分からないけれども、自分がひどく、ちっぽけで、惨めで・・・ しかも、その自分自身ですら他人のように思え、あたかも絵の中の自分自身を眺めているかのように、自分自身ですら俯瞰して認識されていて、理解不可能な他人のような感じがして、その目が泣いている自分をまたひどく、冷淡な眼で見つめている。そして、愛ですら、このわたしを充たしている今の愛ですら包み込めない虚無を感じていた。徒労を感じていた。とにかくさ、そういうことを感じながら、わたしはしゃくりあげて、思う存分に泣いていた。それは、きもちよかった。ものすごく気持ちよかったけれども、同じように惨めだった。自分がかわいそうだった。同情する余地もないと思って泣いていた。
   でも、あるよね、「あれっ」って感じることが。自分に陶酔しながら、どこかで冷静に外界を認識している自分がいて、何か違和感を感じている。口笛を吹きながら、次の角からの人間の気配を感じているような違和感。わたしは幽霊を信じていない。けれども、もし一度幽霊を見たら、一度でもこの世に存在する幽霊にピントが合ってしまったら、それ以来わたしは無数の、無限の幽霊を見て生きることになるだろう。一度認識すること、一度気付いてしまうことは決定的なことだ、そう思わない? 
   突然わたしは椅子から立ち上がって、隣の部屋に行くと、押入れを開けた。
   なしおがぎゅうぎゅうにそのなかに入っていた。わたしを見ている。
  「は〜い」
   ごまかすように、なしおはわたしに挨拶した。
   わたしは依然として涙を流しながら、馬鹿みたいに突っ立っていた。そっとその右手にある赤いかさを手にとって振り上げようとしたが、またその手を下ろした。
  「はぁ〜い?」
   また、わたしの調子でも訊ねるかのようになしおは言った。かさが右手のほうから落ちた。
   わたしは依然として涙を流していた。そのまま恥ずかしいやら、腹立たしいやら、どうしようもない感情がわきあがってくるのをこらえながら、やはり馬鹿みたいに突っ立っていた。
  「ねぇ、かばね。ここから出ていいかな? 頼んでいいんだとすればだけれど」なしおは言った。「参ったな。そういうつもりじゃあなかったんだよ。まさか、泣いてしまうとはね。いや、まさか泣いてしまうようなことをしたとは思ってなかったんだよ、実際」なしおは言った。わたしは、その場でうずくまって顔を両手で覆った。なしおが押入れから出てきて、わたしの肩に手を置いた感触がしたが、足音がダイニングのように向かっていって、椅子に座る音が聞こえた。「まったく、こういうことをするもんじゃあないなあ? おれ、出れんかってぜよ、ほんと」なしおは言った。「おれねえ、いつ出れるものかなあ、とずっとうかがっていたんだけれど、本当に無理だったんだよ」なしおは続けた。
   わたしは変なふうに身体が震えているのを感じた。まったくさ、そんな風に身体が震えることは実は初めてだったよ。手が熱くなって、なんか分からない病気だと思うんだけれど、胸の下のほうに鈍痛が走っていた。わたしは顔を隠しながらこう言った。
  「車は?」
  「中学校の裏さ、知っていると思うけど」
   わたしの声は震えていた。
  「ねぇ、なしお。いま、わたしってどのように見えているかなあ?」わたしは言った。「できればそれを教えてくれれば非常に助かるんだけれど」
  「どのようにもこのようにもないね、おれに言わせれば」
  「ねぇ、なしお。くりかえすけれども、わたし、いまなしおの眼から見てどのように見えているかなあ?」わたしは繰り返して訊ねた。
  「こ、こわいなあ? 今どう見えているって? 何も変わらないよ、実際」
  なしおは少し考えたが、わたしをじっと見ているんだろうか、ほとんど少しも考えないでこう言ったのが非常に腹立たしかった。
  「いつもと同じようだね。つまるところさ、どちらかといえば、薄い色の髪の毛をしているよ、たとえば。とっても素敵な黄色の色に見えるね、おれには。それにこう質量感があるよ、かばねの髪質には。先っぽの方が天パのようにウェーブしているのも愉快だしね。それにさ、その長い髪がそういう風にしゃがみこむとうなじが覗くように二股になるところはおれは好きだよ。何度もいったと思うけれど。こう、身体はあんまり細すぎるね。何を食べて生きているんだか、少しはまともなものを食べた方がいいな、かばねは。そうじゃなくても朝飯とかを抜いているんだから、けっこう体を使う仕事しているんだから、まあ、もう少しは身体を作ってもいいような気がするね。もしも優しくしてくれて、いま顔を上げてくれれば本当に嬉しいんだけれど。だってそうすれば二重の眼が大きくて、野球ボール大のトパーズの水晶みたいだから。あとぼらのように突き出している口びるは可愛いね。それでもあんまり眠れていないんだろうね、眼の下にくまができているだろう、哀れさ」
  「そういうことじゃなくて!」わたしは叫んだ。自分でも珍しいほどに怒っていた。「そういうことについて訊いているんじゃあないことぐらい分かると思っていたけど?」
  「じゃあ、とっても繊細に思えるね、言わせてもらえれば」
  なしおはもう少し考えてこういったが、やはりわたしはなしおのほうに顔を向けないでいた。
  「繊細といってもそれは傷つきやすいとか弱いという意味ではないんだよ、そんなふうには見えないね、昔馴染みの意見としては。たださ、いつも気まぐれなのか何なのか、どうでもいいような物事の細部まで感じていたりとか・・・誰かの表情とか? そういう、非常に細かなところとかをよく見ていて、たぶんこの世に漂っている人間のいろんな感情をあまりにも鋭敏にたくさん捉えすぎるんだろうね、だから繊細なふうに見えるんだよ、かばねは。それにさ、おれにいわせれば、かばねは、いわゆる惻隠の情というのが、ちょっと強すぎるように思えるな。つまりさ、悪い意味ではいろいろなものにあまりにも同情しすぎて自分を安定した姿で保てないんだよなあ。自分でも分かっていると思うけれど。どんだけ弱いものに近づいていくんだ、と思うし、なぜ弱いものたちと自分を同化したがるのか、かばね自身も彼らと同じように弱いと思いたがるのか、ぜんぜん分からないけど。そりゃあ、悪いことじゃあないよ。でも、他人を助けるためにはまず自分がしっかりしなければならない。でなければかならず助けられる側にも迷惑になる。距離が保てていないんだ」
  「いま、かならずといった? 距離が保てていない? そちらこそどんだけだ!」わたしは言った。「わたしの行動や考えに今、げを言うのはやめてよ、いわせてもらえば」わたしはずっとなしおのほうを見ないでいたが、ついににらみつけた。「そういうことじゃないんだ、わたしが訊いていることは!」
  (生きていていいんですか? 生きていけるんですか? わたしは。)
  それでもなしおは続けた。 
  「かばねはさ、自己言及がひどすぎるんだ」なしおはわけのわからないことを言った。「かばねは誰かの言葉を聞かないで自分の事をいつも自分で決め付けてばかりいて・・・なんていうのかな、いつも自分で自分を完結させすぎるように思えるな。うまくいえないけど。自分で自分を完結させようとして、自分を傷つけようとすることが比較的に多いように思えるなってことがぼくのいいたいことなんだけれどねえ」なしおはそう言った。後の言葉はわたしにも理解可能であったが、わたしは逆にこう思っていた。みんなひとの言葉を聞かないで独り言ばかり言っていて、自分ひとりの中で完結して納得して、行動したり動いたりしているだけ、と。
  「わたしはいまわたしがどのように見えているのかって聞いているんだよ、分かっているんじゃんか? ほんとうは? 実に惨めでしょ? 哀れでしょ? そしていじめられて、いじられて、あたりもしない分析を言われて、ついでに説教までされて。ほんとうにかわいそうに見えないかな、見えないんだろうね、わたしにはもうそこら辺のところが分からないけれども」わたしは言った。
  「なえでとかずいたとかおれとかがどう思っているか、訊きたいのかな? 何が訊きたいのかなあ? 訊きたいまんまの言葉を聞かせてやりたいものだ」なしおは言った。「いつかかばねが誰かに聞いていた質問があっただろう? 少年と少女が出てくるというやつ。覚えているかなあ?」わたしはそのなしおの言葉を聞いて、きゅっとなしおをにらみつけた。「おれは覚えているんだよなあ、かばねがどんだけ忘れっぽくても覚えているよ。少女が大好きな少年に告白できないでいるんだな。そのときに、神様が降りてきて、こういう未来を教えてくれる。きみが告白すれば少年は思いに答えてくれる。だけれど、きみと少年とのお付き合いはたった五年間しか続かないで破局を迎えるだろう。こういう質問なんだけれど。覚えているかなあ? おまえがそう誰かに聞いていたことを覚えているんだよ、おれは」
  「覚えているよ、あんたよりもぜんぜん。ちゃんと覚えているよ、なにしろわたしは自分自身の中で自分を完結させている女だからね」
  わたしはなしおを睨んだ。
  「そう? じゃあ、もしかばねが、かばね自身がその質問をされたときに、おれにはこう思える。つまりさ、かばねがその少女だったら、こうすると思うんだよ、おれは」なしおは言った。「少女は少年のところに行って、『あなたのことを愛している、アイラブユー』と伝える。そして少年との関係をこころの底から喜び、嬉しみ、そして破局した後はこころの底から悲しみ、絶望する。そして神の予言のことは言われて以来、この方ずっと思い出さないで忘れているんだ。かばねというやつは、そういうやつなんだよ、おれにいわせれば」なしおは付け足した。「かばねは忘れっぽいからね。意味の分からない神様が言ったどうでもいい予言よりも、いまの少年との生活、あるいは少年がいないという苦しみの方をずっと重要と感じるそういう人なんだな、かばねというひとはさ。おれにはそう思えるな」
   かばねは言う。「死ね」教えてくれてありがとう。「ばか」いつもわたしが何物であるかを口に出して教えてくれてありがとう。「ばーか」いつも消え入りそうで、空気の中に蒸発していきそうなわたしを見ていてくれてありがとう。「ちくしょうめ」だから、わたしは、いまだに自分が自分として存在していることが分かる、理解できる。
  「わたしが死んだら悲しい?」わたしは訊ねた。
  「まあね、悲しいよ」なしおは答えた。
  「わたしが死んだら後を追う?」わたしは訊ねた。
  「かばねが死んだ後の人生を生きるのはつらいだろうね、想像したことはなかったけど」なしおは答えた。
  「わたしが死んでも絶対に生きてね。寿命まで!」かばねはささやくようにつぶやいた。
  「かばねは死なないよ。かばねはみんなのことをほっておいて死んでいけるようなそんなばか女じゃない。おれたちの最後に死んでおれたちの死体を眺めながら微笑んでいるような、そんなとてつもなくいい女だよ、おれから言わせれば」なしおは答えた。
  「寿命まで!」かばねは叫んだ。
  「まぁね、約束するのは自由だからね。寿命まで生きるよ」
  「じゃないと、わたしは何も受け取りはしないよ? 耳を閉じておくよ?」かばねは言った。「そんな中途半端な答え方がまさか待っているものだとは思わなかったよ、本当にひどいもんだ、昔からそう思っていたけれども。幼稚園のときからそういうやつになるだろうな、その程度だろうなあ、と思っていたことを言わせてもらうけど」
  わたしはなしおを睨みつけていた。なにか、全身が発熱しているみたいだった。わたしは続けた。
  「ほんとうに成長しないなあ、わたしも大概ひとのこといえるわけじゃあないけど。じゃあ、なしおだったら、その質問にどう答えるわけ? あらゆる答えの中で最善の解を答えなさい。人間には無理だけど」わたしは訊ねた。
  「おれが少女だとすればね、大変な美人だからね、それに気が強いからね、そもそも恐れやしないよ、そんな告白。真っ先に行くよ、『あなたを愛している、アイラブユー』。それぐらいのことは神の予言の必要もなく言えるよ」
  「そういう問題じゃあないんだよ? 分かってないなあ。じゃあ、神様があんたの前に現れて予言したときにはどうなるわけ? そんなたくさんの勇気と決断力があるあんたは、五年後に必ず来る破局についてどう考えるんだよ、まじで?」わたしは言った。
  「そんな神の言うことは信じないよ、おれは」なしおは言った。「おれの知る限り、人に不幸なことを教えるような神はいない。そういう神はいてはならない。だからおれはそんな神の言うことは信じないよ」
  「ぜんぜん、前提からして分かっていないなあ!」わたしはそう答えながら、そのなしおの答えを聞きながら、馬鹿みたいに涙を流していた。何の声も出てこないのに、涙が流れていた。こういうことはわけが分からないよ、本当に。「前提も条件のことも分からないのに、まったくなにか答えることができると思って、自分が正しいものだと思って」わたしは言葉が躓いた。
   そのとき、わたしは突如、のどがせりあがるような感覚に襲われたと思ったら、今日食べたものが口腔にせり戻ってきた。急いで水道のところまで行って、わたしは吐き戻した。少しだけ。
   後ろのほうから、なしおが声をかけた。わたしに触らなかったので助かった。
  「どうしたんだい、まったく」なしおが言った。
  「どうもしないよ、いつものとおり」わたしは言った。「吐いただけ」
  「どうしたんだい、まったく」なしおがまた言った。
  「どうもしないよ、ストレスだと思っているけど」わたしは言った。「いままで言わなかったと思うけど。時々そういうときがあるんだよ、ストレスだね、ひどい社会だよ、ほんと」
  「どうかしているんだ、ほんとうに」なしおは言った。「どうかしているよ、おまえ」 
   それからなしおはわたしを寝かしつけた。わたしは身体が動かなくなっていた。『着物を脱がせて裸体が現れてくるにつれてわたしは悲しい微笑みを抑えられなかった。彼女は病気の方がいくらかよくなるのだ』わたしはある作家の言葉を心の中で引用していた。
   なしおは、仕事も一段楽したんだから休むんだよ、一日中でも寝てやるんだ。なにかをやろうとおもったら、だめだ。とにかく一日中でも休むんだよ、と言って、帰っていった。また、すぐに来るからさ。わたしは何も彼に応じることもなく、ただ不機嫌な様子で、顔を見ることもしなかった。
   なしおがいなくなった後、ひとりになった。そのとき、床に落ちている紙を拾ってみると、そこには名も知らぬアメリカの兵士が書いた詩の言葉をなしおが写し取ったものが書かれていた。「私」という部分を「かばね」というわたしの名前に、なしおが変更していた。だからこのような詩である。
 
  成功を求め 強さを与えて欲しいと、神に求めたのに、
  かばねは弱さを与えられた 謙虚に従うことを学ぶためにと・・・
 
  より大きな仕事が出来るように 健康を求めたのに
  かばねは病弱を与えられた 少しでもよいことが出来るようにと・・・
 
  幸せになれるようにと 富を求めたのに
  かばねは貧しさを与えられた 賢明でいられるようにと・・・
 
  人々の賞賛を受けようとして 権力を求めたのに
  かばねは弱さを与えられた 神を求めるようにと・・・
 
  人生を楽しむことが出来るようにと 手に入るものは何でも欲しがったのに
  かばねは命を与えられた あらゆることを歓べるようにと・・・
 
  欲しいと思ったものは何にも与えられなかったのに
  かばねの希望はすべてかなえられた
  こんなかばねにもかかわらず、祈りは言葉を越えてすべて聞かれた
  かばねはだれよりも一番豊かな恵みを受けた
 
   わたしはそれを読み終わったあと、少しだけシルバーのリングを付けてみて、また外し、わたしの肖像画と書置きとともに、その詩の書き付けられた紙をまとめてたんすの小さな引き出しの中に入れた。
   それから一週間、わたしのところになしおは来なかった。待っていたが、一ヶ月も来なくて、それが一年になって、そのうちに、なしおが来るだろう事を忘れてしまい、なしおについて考えることもますます少なくなっていった。
   ところでさ、わたしになしおが与えてくれた質問の回答は、解釈するとどのような意味になるのだろうか、あなたには分かるかなあ? 
  『わたしかばねはその人生が与えてくる理不尽な苦痛にもかかわらず、その人生を愛し、途中でそれをあきらめるような馬鹿なことはしない。そして必然的に来る死のことなんかすっかり忘れ去って、その人生から絞り取れるだけの喜びを絞る取るだろう。ただ一度だけの人生を生きていまを行きながら、そして死んでいくだろう。死の最後の瞬間まで死の事をすっかり忘れ去って。』
  わたしはまさにそうしたのか。そうしなかったのか。
  そしてなしお自身の質問の回答は、解釈するとどのような意味になるのだろうか。
  『おれはその与えられた人生を愛する。そして必ず来るだろう死のことを信じない。理不尽な消滅の事を信じない。人間に不幸な未来を与えるであろう神のことを信じないし、そのような神が言うであろう神の言葉も信じない。おれは人生が自分に与えてくれるものそれだけを信じてその人生を愛しながら、永遠の命を生きよう。』
  なしおはまさにそうしたのだろうか。そうしなかったのだろうか。
  ま、わたしにいわせれば、これだけの言葉を聞いただけで、わたしはなしおを許そう、許してやるよ、本当に。わたしがなしおのことを許せないことなんか全然なかったよ? 最後の最後まで、なかなか気が合わなかったし、わたしだって勘気が強すぎたと思うけれども、なしおは最高の昔馴染みだったよ! またどこか出会いましょう!
  4 かばねとこなでのこうるさい鎮魂歌
   
   なしおがこの町から消えた痛手を、いなくなった一週間もしないうちから、ずっとほとんど毎日のように、声を聞きに来たり、顔を見に来たりして慰め続けてくれたのは、わたしの友人の板稿なしでだった。なしでは隣町の指宿市の病院で医療事務の仕事をしていた。なしおの失踪は、なんら事件性のあるものではなかったから、もちろん警察は何もしてくれなかったが、半年ほど、なしでは、民間の事務所に捜索を依頼して、さらにインターネットを通じた情報収集をしてくれた。
   なしおがいなくなってから半年ほどしたとき、やはりわたしを慰める目的で、山川町にあるジョイフルに、なしではわたしを誘った。なしでは早くも座ってケーキとドリンクバーを嗜んでいたわたしに、こう言った。
  「なんてひどい顔なんだろ! さいきんいつもそうだけれど!」
  「はぁーい、そうなんですよ、なしでちゃーん」わたしは言った。「なしでちゃーん、は、どうかね、実際」わたしはその日、もしもわたしが一人で生きていたならば、まったくだれとも話をしたくなかったし、何を食べたくもなかったが、残念なことながら、わたしは独りで生きているわけではなかった。何の話題もなかったよ、なしでとジョイフルなんかに来たってさ、わたし。だれでも、今日一日話す話題がひとつもないなーという日があるでしょ? わたしは最近そういう日が多かったのでした。おしゃべりである、なしでと一緒でよかったよ、今日は。なしでは、最近わたしと共有しているなしおについての捜索の状況について確認をしたり、それに新しい情報を付け加えたりしながら、それと同時に、社会の世相や出来事や、最近あった世界から日本までの考え方や情勢の変化、そしてなしでのプライベートにおけるテレビとか映画とか漫画とかの趣味の話、そして職場での人間関係や新しい業務、そしてそれに対する自分の考え方などをわたしの相槌にあわせながら話し続けた。いや、逆なんだわ、なしでの場合には。なしでは、さまざまな話題というのを誰かの表情が変わっていくたびに相槌として使っていって、そしてその誰かの表情をどんどん読み取っていくというようなそんな曲芸的な会話の達人なんだよ、というよりそういうタイプなんだ。
  「はぁ〜い、なしで」ただ会話が続いている。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なしでが話している。「・・・・・・・・・・・あは。そういえばさ、中学二年の頃を覚えている? わたしはあのころについて話をしたい。わたしたちがもっとも強くもたれかかっていて、もっともどん底で死に掛かっていて、なんかうまく表現できないなあ。わたしはあのころ、今よりもずっと弱く、うまく立ち回ることが出来なかったから、正直に言えば、いろいろなことから逃げ出したかった。ちょうどそのようなとき、寡黙で、クールだったよね。あは。かばねがうちらの中心にいてくれたじゃんか。特に何を言うわけでもなかったけれど、あのころまともに考えることが出来たのは、かばねだけだったんじゃない? わたしはわたしで家の問題ですごく悩んでいて、ほかの事どころじゃなかった。うちらの間で一番ひどかったのは、ゆらの家だっただろうけど。あそこの家族関係は、いまだに、わたしはよく分かっていないんだけれど。ふぅーん? かばねもそうなんだ。両親とゆら兄貴と四人で暮らしていたけれど、その周辺がすごかったでしょ? あの一族は、いわば家系の滝つぼのようになっていて、しかも一族としては裕福だったから、里子とかもたくさんもらっていて、そろいもそろって誇りが高くて自意識過剰で、物を知らないのに、それなのに人の上に立つことがさも当然のようにして振舞うような、そんな一族だった。あは。そのなかで、ゆらの一家は、一族と血で絡み合いながらつながっているのだけれど、鼻つままれていたじゃない? 孤立している中で、ゆらは大波に揺られながら壊れていくお菓子の家のように、ただ壊れていった。かばねはときどきゆらの家に行っていたよね。そのときにどんなことを話したんだろう? なんでもないことを? だよね。だって、子供には分からないもの。ただゆらは、酔いつぶれている父親がしでかす事件や暴力に、そして母親の幽霊のような奇行、叫んだり、薬をやりすぎて卒倒したり、あるいは失踪したりする中で、一時期は、ゆらは叔父さんの家にいたこともあったよね。かばねはどんなことをその時ゆらと話していたんだろう? 覚えているのかなあ?」
  「なぁーんにも」
  「なぁーんにも話さなかったよって、そうなんだ? ただ黙って過ごしたり、一緒に漫画を読んだり、テレビを見たりしていたよって? 散歩とかもよくしていたって? ゆらの家の周りは、ねぇ、すごくあの頃綺麗だったんだよねえ? ゆらはさ、すごくしがみついていたでしょ? 知っているよ、覚えている。ゆらはかばねの後ばかりついてまわる娘だったよ、あの頃は。いつから、子離れしたのか、それともしていないのか。わたしも何回かゆらのところに一緒に行ったよね。『この町を出たい』と話していた。あは。わたし一回ゆらと一緒に鹿児島市のほうまで電車で出かけたことがあるよ。天文館に行って、ぶらぶらと歩いてまわって。たしか、別の友達も一緒だったっけ? ゆらはそのとき、2度も発作を起こしたよ。たぶん、かばねも知らないと思うけど。『どうやって生きていくんだろう?』わたしはそうおもったよお? あは。ただ人ごみ? 込み入ったところ? 分からないけれども、そんなところにいったぐらいで参ってしまうっていう、心とか、身体ってどーよ? わたしは、ゆらの育った環境もアレだと思うけれども、ゆら自身の弱さも相当なものだと思ったわけよ、かばねなら言いたいこと分かるんだと思うけれど。ふぅーん? あんまりそんなことは考えたりしないんだねえ、そういう考えをしない、判断しないところはかばねのいいところだと思うわ、わたし。手首を切って、一度なんか、仙田のほうの病院に入院したこともあったでしょ? あれから後には。
  ちょうどそのころ、こな絵の登校拒否が始まったでしょ? 始まっているんだか、ずっと終わっていないんだか、あの娘の場合にはよく分からないけど。あは。だって、あれからこな絵、眠れなくなって、昼夜逆転して、変な趣味に夢中になったりして、ずいぶん大きく変化したものね。あは。
  みんなで集まった晩があったよね。こな絵の家に。親から電話があったんだ。こな絵がおかしくなったんだって。だから、わたしとかばねとゆらとなしお、それにずいたもいたよ。五人で集まった。あは。そのときさ、かばねは、急に外のほうに、闇のほうに走っていっていなくなったときがあったよね? あれどうしたんだろう? なにをしていたの? そのまえにこな絵と何を話して、何を聞いたんだろう? それとも、こな絵に何かをいわれたの? それともかばねは耐え切れなくなって、泣きに行ったの? 泣いていたんだろうか? わたしは覚えていないんだけれど、なんか気になっていたんだよなあ?」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・暗転。
 
 
  5 かばねとずいたのアナーキズム入門
 
  ぼく、ずいたは、鹿児島県のこの田舎町に、大変孤独な生まれとして育った。
   唯一の肉親である父親に育てられた。父親は仕事を転々としていた。ぼくらは貧しかった。父もぼくも小心者で、周囲から孤立しながら生きていた。
   ぼくが書こうと思っていることは、20歳と七ヶ月で死んでしまった、恩人であり、友人であり、ひそかにあこがれ、また頼りにし、それでも大きな壁を感じながらともに過ごしてきた五人の友人のうちの一人、池牛かばねについてだ。そして、彼女の死のあとにぼくたちが行った儀式、パーフェクトサークル完全なる輪廻についてだ。この儀式が完成した後、それについて語ることが出来る人間は、ぼくひとりであることが分かった。ほかの人間は、完全なるマーヤ、幻影の中に、空想の中に、自分の生命を閉じ込めてしまったのだ。
   発端は、かばねの自殺だった。享年20歳と七ヶ月。かばねが苦しんでいることはみんな知っていた。みんなといっても、かばねと付き合っていたなしお、そしてゆら、こな絵、なえでの三人娘、それだけの話なのだが。ところが、一方、ぼくを含めて、問題を抱えていて、まさにそのくるしんでいるかばねに精神的に頼り切っていたのである。いや、そうではないのかもしれない、つまり、ぼくらは、いかにばらばらであるかのように見えても、ひとりひとりではぜんぜん存在していなくて、存在することが出来なくて、ようやく集まることで、寄り添うことで自分が生きているそれぞれの果てしない生存を乗り切っていたというべきだろうか。ぼくら六人は、ひとつで六つ、六つでひとつのいびつな構成体だった。そしてその統一体を構成したのは、確かに、かばねであり、そしてその要にいたのもかばねであった。
   物心がついた頃には、すでにそのような状態になっていたような気がする。つまり、ぼくたちは、もはや生きていくことですら困難を覚えていた自分に気付いたのである。将来の展望はないに等しく、それどころか現在の生活の苦しみですら耐えがたかった。
   どのように表現すればいいのだろうか。
   切り離されていること。
  よりどころが何もないこと。
  どうして何を間違ってこうなってしまったのか分からないこと。
  切り離されていること、それはぼくらがアナーキーな親密さによってのみ結びつく共同体を作り上げるほかに生きていくすべが何もないことと同じだった。もてるものはよりもつようになり、もたざるものは自分の所有物を削られていく。よりつながっているものは、もっと多くのものとつながっていき、そしてつながりの少ない者たちは、どんどん孤立化していった。
  テレビ、ギャンブル、小説、漫画、ゲーム、カラオケ、なんでもよい。そうした中央からやってくる文化は、自分たちのものではなかった。単なるエンターティメントに過ぎなかった。それはそれで陶酔的ではあったが、ただ自分たちには関係のないものだ、ということが最終的に分かるだけのものに過ぎなかった。地方に住んでいるぼくらはまるで家畜のようにしてそれらの餌をむさぼったが、自分たちの現実世界とは接点ゼロのエンターティメントの世界は、途方もなく空虚なものに過ぎなかった。
  お金がなくなったら、ぼくはテレビも見なくなった。もともと本も読まなかった。ぼくは文化と完全に切り離された。そればかりか、新聞をにぎわす政治や世界情勢の世界、そして株価とか不景気とかそういった経済の世界ですら、ぼくらとはまったくかかわることがない、壁の向こうの出来事に過ぎないことが、すでに物心がついたときには明らかになっていた。それらは一部の人たちがそこにいつの間にか入り込んでいくとてつもなく狭き門であり、じぶんたちのような人間が終生それらの領域と直接的な関わりを持つことはありえないことがよく分かった。
  情報革命が起こって、パソコンや携帯電話が現れたが、そこでも原理は同じだった。それが理解できるものはたくさんそこで得ることが出来るが、それが理解できないものはそこで搾取され続けた。時間も精神も。そして、ぼくのようなパソコンとも携帯とも係わり合いの持たない人間は、そのうちに、社会的に抹殺されてしまった。つまり、社会と個人との接続部分の多くが、人間的な関わりから、パソコンや携帯電話上のやり取りに変わっていったのだ。ぼくらはとにかく感じていた。世界や社会を構成している本質的な部分、もっとも生き生きとして活動的な部分から自分たちが完全に切り離されて存在していることを。根っこを引っこ抜かれた草のような自分たちを。そしてその社会や世界との分離は、どのような努力によっても乗り越えられないようなものに思えた。
  いや、少なくともぼくにはそうじゃなかっただろうか。ぎりぎりで高校を卒業し、なんらの専門的な技術も持たず、縁故も資産も知識も持たない。働こうと努力した結果、失敗した体験だけが残って、実質上の禁治産、つまりまわりのひとはそう思ってくれるんだけれど、生活保護を受けながら、暮らしている。もしもぼくの生活が暮らしと呼べるものであるならば。病気の父親がなくなれば、ぼくはひとりになる。
  そして、ぼくはぼく自身が、じつは、持病を持っている。小学生の初学年ごろから頻回に渡って、ぼくはてんかんの発作を起こして病院に通っていた。薬をもらい始めてからは発作は起こっていないが、ぼくにはわかっている。多少の無理をしてちょっとストレスを溜め込めば簡単に発作が起こるだろう。あぁ、あとちょっとで発作が起こるだろうなという、感覚は、いままでたくさんあった。発作で死ねればいいのに、てんかんの発作で死ねるのはまれだ。いや、ほぼありえない。ただそれはぼくの生きていく秩序を乱すだけだ。殺しもせずに。
  そしてぼくらにはなんの寄る辺もなかった。国も、この町も、社会も、会社も、なんの頼りにすることが出来ないことが早々にわかった。それらのものに帰属している意識などもてるはずもなかった。なぜなら、それらはちゃんと税金を払い、市民としての義務を果たし、誰にも迷惑をかけず、そして決まった時間決まった能力を自分たちにささげてくれる人間を、ただGDPだの効率性だの利益率の観点から求めているに過ぎなかったからだ。ようしゃなく、切り捨てられて、捨てられて、裏切られて、打ち捨てられた人間が、酒まみれになって咆哮する様をぼくらは見た。そして、搾取され続けて精神的におかしくなっている大人たちをぼくらは見た。もちろんぼくらは努力することが出来るのだろう。彼らを喜ばそうと頑張ることが出来る。けれども、ずっとうまくいき続けるわけではない。そしてぼくらが周りを眺めながら理解したことは、一度失敗したものにはほとんど救済措置は与えられないという全く残酷な事実だけだった。現世に絶望したものに与えられる宗教的な希望が、そうしたらあっただろうか。
  ぼくらは、読書好きのこな絵のおかげで、古事記や日本書紀、スッタニパータ、聖書、コーランといったものから、冗談としか思えないような新興宗教の教義まで、教えてもらっていた。さらに、この世に生きていくための個人たちが編み出した倫理についての考えにも少なからず触れさせてもらった。ところが、「ひとはパンのみによって生きるのみにあらず」という救いからしてぼくらにはまったく理解できなかったのだ。世界も社会も他人も家族も、そして孤独の中のいかなる考えも、文化も、ぼくらには一種のパンに過ぎないように思われた。正確に言えば、パンのようなものになっているように思われた。神秘的な祈りについてはあらゆる方面から否定されていて、そして現実的な儀式は形式的なパンの類似物に成り下がっていた。神秘的な祈りをそれでも求めようとしても、ぼくらは、ちょうど、頭の出来がぼくらとはずいぶん違った一人の教祖が犯した事件によって、そういう行為のばかばかしさと空虚さしか感じることが出来ない社会に住んでいた。寄る辺のなさ。頼ることが出来る大きなものが何一つとしてない。そのこともぼくらが生きていることの本質から切り離されているという確信をより強めたものだった。
  ぼくの愛すべき隣人であるかばねが物心付いたぼくらの間で行ったことは、一種のアナーキズムに根拠を置いた共同体への夢想をはぐくむことだった。厳密にはかばねがそう言ったわけでもそうしたわけでもない。すでにそのときぼくらは寄り添うようにひとつになっていた。そのなかでかばねを中心的存在としてそのような求心的運動がぼくらの間で起こったということだ。
  なにがかばねにそうさせたのかは、ぼくにもみんなにも、分かっていた。ぼくがいじめられ、いじけて、ますます引きこもり、そしてなしおは、当時中学二年のときにはかばねと付き合っていなかったが、荒れ放題だった。なしおは不良になってもその善良な性質を失うことがなかった。ただただ、自分自身を傷つける行動や考えに夢中になったというだけの話だ。その証拠に、仲のよかった、しかも女子が大漁に混ざっているぼくら五人との付き合いをぜんぜんやめることなく、不良化していったのだから。そういうことは、本当に不良になろうとする人間にとっては不可能なことだ。ゆらがそのせいで、その世界の方向へと、なしおとは別の集団を通じて引っ張られていって、なえではぼくらとその他の幾多の集団との間で自己を見失おうとしていた。ぼくらは、ただ純粋に、幼馴染に過ぎなかったのである。つまり、小さな頃、圧倒的に密度の高い時間を圧倒的な純度で過ごした仲間であるというただそれだけの関係に過ぎなかったのだ。
  そういう関係が次々と崩壊する様を、すでに小学生の頃から観察していたぼくは、とうぜんぼくのような弱く、みすぼらしい人間は、すくなくとも関係から自然と排除されるだろうと半ば思っていたし、それ以上に、家庭以外の人間関係に割くエネルギーをほとんど持ち合わせていなかった。だから、聖なるペンタングルの話を聞いたとき、ぼくはうきうきしながら、楽しかった。かばねが校庭のうんていの裏の地面に五角形を描いて、五という数字の完全性について述べ始めたとき、そのうっかりにはすぐには気づかなかった。つまり、ぼくらは六人いて、五人ではなかったのだ。
  わたしたちは、聖なるペンタングル、そして完全なる円であり、ひとつたりともかけてはいけないものだ、というのがかばねの話だった。五芒星のなかに、完全なる比率である黄金率が現れるというのがかばねの主張だったが、ぼくには意味が分からなかった。ただ、五人の間で特別な秘密が共有される喜びだけがぼくの中に充ち溢れた。それは発作のときに感じる変な喜びとは違った種類のものだった。しかし、ぼくには、ぼくよりもほかの五人はあまりにも能力とか環境が恵まれているように思えた。ぼくらは互いに抱き合っても、触れ合っても、互いに恥ずかしがることがないぐらいに、すでに親密だった。
  国家にも組織にも血縁にも地縁にも思想にもいかなるものにも根拠を持たない、それがあるとしたら親密さ、つまりいわば友情にのみ根拠を置いた共同体、かばねが夢想したのはただそれだけであった。そうした共同体を夢想するために必要なものはただひとつ、ぼくらが何らかの意味で互いにつながり続けることであり、それをあきらめることなくずっと続けると言うことだけだ。共同体は、それが成立し続けると言うことにのみその存在の前提を持っているのだ。絶え間無いつながりを示す努力が必要となる。そして成員のそれに対する共感的感情が大切になる。
  ぼくは、その共同体に対して、喜びと不安を感じながらも、疑惑を感じていた。小さな頃からまるで姉のように頼りにしてきたかばねのことは分かっていた。しかしほかの人間についてはよく分からなかった。ゆらなどはあからさまにぼくのことを苦手としているようだった。ぼくは、とても、そんなつながりが継続していくだろう事を信じることが出来なかったのだ。しかし、かばねが、ペンタングルでは、好き嫌いなどの感情を越えてお互いがつながらないといけない、と規定してからはそんなに悩まなくなった。
  考える余裕など何もなかったと言う方が正確なのかもしれない。ゆらは中学生当時拒食症によって病的にやせていて、幽霊のように、ただ存在しているだけであった。こな絵は、あるときにぼくらに急激に近づいてきたのだが、そのときには、目が常人のものではなかった。死のうとする人間、ギリギリで生きている人間の眼をしていた。なえでは完全に、人間関係の中に自分自身を見失っていた。そうした中で、ぼくらを、つなげ続けたのは、ペンタングルという特別な意識である以上に、かばねの存在であった。ひとりでも欠けたらわたしたちは生きてはいけないんだ、とかばねは言っていたが、そうではなく、かばねが欠けたら、といったほうがよっぽど正確だっただろう。
  五人が地域の高校に散らばって、環境が変わった後も、ぼくらは定期的にお互いの家を訪れていた。ぼくは、かばねの家の隣にすんでいたので、少なくとも、かばねから入ってくる情報だけによっても五人との間につながりを持っていた。こな絵の家が溜まり場になっていて、平日でも学校帰りなどに、六人とは言わなくても数名で過ごすことが多かった。いつもほとんど沈黙していて、無表情である、こな絵の姿を覚えている。高校生の後半まではこな絵は今のような衣服狂いではなかったのだ。ぼくはそのころになれば、現実世界に対する希望をほとんど失っていて、自分自身が社会から押し付けられていると信じる考えや規範こそが唯一のリアリティである、と徐々に信じるようになってきた。
  (そんななかで、かばねが、自分の考えを、アナーキズムとして、一度このように述べたことがある。アナーキズムとは、依存しながらでの反抗である。ぼくらは今現在生きている国家・社会・経済的システムの中で、それなしでは生きていけないように、洗脳・飼育されている。現体制の崩壊は、すなわちぼくらの死を意味するだろう。流通が破断され、物資が滞り、中央管制が崩壊し、文化が流れ込んでこなくなり、ぼくら自身の生活の糧もなくなってしまう。ぼくらは生活のあらゆる部分を、自分がまったく知らない土地や文化の人たちの生産物や活動に負っているのだ。ぼくらはそれを得るためには、そこに依存し、同時に、そのシステムの部分として行動し、考えなければならない。そうすることによって、ぼくらはシステムが分与する分の所有の分け前を得ることが出来る。システムの中でぼくらは親であり子であり、兄弟であり姉妹であり、夫であり妻であり、被雇用者であり雇用者であり、治産者であり禁治産者であり、さまざまなもんでありうるし、そうでなければならない。そうすることによってのみシステムが供給する生産物やサービスを得ることが許されているのだ。ぼくらは遠かれ近かれその真っ只中に置かれるようになる。そのときに、システムなしでは生きていけない自分を見出すのだが、同時に、そのシステムに搾取され続けていく自分にも気付く。そしてシステムは自分たちには変えることの出来ない巨大な、超越的なものである。そうであるなら、ぼくらが生きていく上で、国家・経済・社会的システムに対するアナーキズムは、そのシステムに依存していきながら、そのなかでの役割を遂行しつつ、それでもその役割を超えた自分が存在することを信じて、つまり親でもなく子でもなく、兄弟でもなく姉妹でもなく、夫でもなく妻でなく、被雇用者でもなく雇用者でもない、一見何者でもない自分自身の存在こそが自分の本当の存在だとみなして、いつでもシステムが与える役割を放棄する準備をしておくこと。あるいは、システムの外部に、自分たちが作るもうひとつの外延地帯を張り巡らせておくこと。これこそが、聖なるペンタングルであり、そうすることにより、体制からの搾取から可能な限り逃避していく行き方が唯一可能なアナーキズムである。
  ぼくは言った。現実にはそんなことは不可能だ、そんな生活は選べない、ぼくらはそんな未熟な考えから卒業しなければならない。
  しかし、かばねはこう言った。不可能だよ、無理だし、そんな生活を選んだら、餓死するだろうね。でも、アナーキズムという考えは、けっして、「卒業」するような単純な問題ではない。なぜなら、アナーキズムとは側にいる人たちに対する愛だから。身近にいる人を愛することはいつでも国家も社会も神をも超えて、アナーキズムに帰着するんだ。アナーキズムは今までになくこの日常を生きる手段だし、このありのままの現実を見つめることを許してくれる。
  かばねは、すでにぼくらがみな、この現実世界で生きていくときに大変つらい思いをするだろうことを、考えていた。すでに、この現実世界で生きていることを苦しんでいることを知っていた。だから、ぼくらを苦しめる現実世界の規範や役割が、可能な限りぼくらを襲わないようにするにはどうすればいいのかを、ずっと考えていて、そんなことをひょんな調子で言ってみたのだと思う。それがペンタングルの意味であるとはとても思えなかったし、冗談のように、かばねも笑っていたし、そしてこな絵以外の人はほとんど話自体を聞いていなかった。)
  高校卒業後、ぼくは工場に三ヶ月ほど勤めたが、すぐ首になった。手順を覚えられなかったし、それになによりも、周りと調和することが出来なかった。それから、六ヶ月ほど仕事をしたりしなかったりしたが、そのうちに探すのもやめてしまったし、探す余裕もなくなった。父が病気で倒れたのである。もともとギリギリで生活していたぼくと父の元に、民生委員が来て、生活保護を受けながらの何とか食べさせてもらうことになった。病院にいくお金には困らなくなったが、もともと生活能力のないぼくが看病しながら自分が生きていくようになったとき、自然と絶望するようになった。つまり、これ以上生きていくことが出来ないように思われたのである。父とともに死のうか。あるいは、単純に自分が死ぬだけでよい。そう思った。
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   20歳と七ヶ月で縊死(首吊り自殺)した池牛かばねのこと。
   最初に発見したのは、哀れなことに、プロポーズしたばかりのなしおだった。なしおは、かばねを床に下ろして、それからだめになった。つまり、それ以上のことが出来なくなって、酒を飲み始めたのである。次の日、異様な匂いがする部屋に来たのはなえでだった。なえでは、ずっと飲み続けているなしおとかばねの死体を見て、とりあえず、連絡するところに連絡した。それから、ゆらとわたしとなしおを抱き合わせて、組み合わせた後、かばねの家族、親族などとともに、葬式の手順を取り仕切った。
   そのあと、かばねのアパートで五人集まって、ほとんど無言でお酒を飲んだ。
   こな絵がなえでに耳打ちして、なえでが話し始めたのは、かばねの生命を復活させる儀式であるパーフェクトサークル、完全なる輪廻についてだった。
  その友人五人、つまりゆら、こな絵、なえで、なしお、ずいたの五人は聖なるペンタングルを再び結成して、池牛かばねの生命を永遠にする儀式、パーフェクトサークル完全なる輪廻を執り行った。ぼくはそのことについて詳しく語るつもりはない。
  集団催眠によってその五人は、かばねの死を完全に忘れ去り、あたかもかばねが生きているかのように、いや生きているものとして生きるようにしてそのことによって起こるすべての矛盾を忘れるか無視することにした。それにもかかわらず、なしおの錯乱状態はひどく、儀式の結論を受け入れたものの、かばねのいないこの町にいることに、おそらく無意識にすら耐えることができずいなくなって、おそらく全国を放浪する生活をすることになった。ぼくはなしおがかばねの死を思い出したとは思わない。ぼくは、ほかの四人に比べ、半睡状態だった。ぼくはかばねが生きているという現実と、かばねが死んでいるという現実を同時に生きているという感じがする。それはおそらくぼくがほかの人たちに比べて大変に孤独な生活を送っているからだろう。そして五人は時々集まってかばねの話をし続けて、そしてなしおがいなくなった後は、四人で集まってかばねの話をした。つまり、かばねを永遠に自分たちの手で作り上げ続けるという作業を続けたのだ。
   合掌。
   父が倒れてから、生前のかばねは、父とぼくのところによく来てくれていた。あるとき、土間から出てすぐの入り口で、かばねはぼくに少女と少年に関する質問をしたことがあった。ぼくは次のように答えた。
  「少年のところに行って、『あなたのことを愛している、アイラブユー』と答える。そして五年後だろうが、次の日だろうが構わない。なぜなら、一瞬でもいいから、愛する人とともにいる生活が送れるのなら、ぼくはそのためにすべてを捨てても構わないから。五年後の破局なんかどうでもいい。今さえよければ、今欲しい、欲しくてたまらない愛が得られるのであれば、だめになると分かっていてもぼくには我慢できない。五年間とはぼくにとっては果てしなく、飽きが来てしまうぐらいに、あまりにも長い。」
   ぼくはいつだったか、かばねに、なぜぼくのことをいまだに構うのか、なぜ来てくれるのかを聞いたことがある。それはかばねが生きていた間中、ぼくを悩ませていた疑問点だった。
   かばねは、それは分からない、と答えた。けれども、中学生の頃、わたしは悪魔と名乗る男に会ったことがある、と言った。中学生の頃、ほんとうにつらい時期があった。わたしたちにとって地獄と思えるようなそんなつらい時期があった。わたしは何をすることも出来ず、何を考えることも出来ず、わたしたちがただ滅んでいく未来のことに絶望していた。そのとき、自然と祈るようになっていた。わたしたちを無事に生きさせてください。わたしなら、なんでもするのです。なんでも考えます。なにを犠牲にしてもいいのです。ただわたしたちを無事に生きさせてくださいと。そういうとき、たぶん、来るのは悪魔だった。神様ではありえなかった。あれは、ゆらがリストカットして、こな絵が発狂しそうだった夜、その頃の話だった。わたしは夜の空の下に駆け出した。特別なところで祈りを繰り返した。そこで悪魔と名乗る男と出会った。そのときわたしは、悪魔から与えられた、ある選択肢を選んだのだ。かばねはそう言った。
   ぼくは悪魔は一体どのような選択肢を出したのか、とかばねに訊ねた。
   かばねは言った。
   ゆらがリストカットし、こな絵が発狂しそうだったそのころの晩に、わたしのところに自分が神だと名乗る男がやってきた。悪魔だと思った。わたしにはそう思えた。
   その悪魔が言ったのは、カルネアデス的状況。どのような選択肢を選んでも何かが犠牲になってしまう選択肢だった。悪魔はこのように言った。
   あなたたちのこの世の席は五つしかない。つまり、聖なるペンタングル。誰か一人が死ななければならない。あるいは自分を失わなければいけない。
   さあ! きみはどうする!
   わたしは答えた。
  わたしは死にます! しかし五年だけ猶予を下さい。わたしはあなたの言葉を完全に信用することができません。だから、五年間だけ五人が完全な幸福の中を生きていることを、いや完全な幸福の中でなくてもいいんです、この人生をその終末まで生きていけるだろうことを確認していって死んで生きたい。みんなの生きるその姿、顔を見て死んで生きたいんです! 実は五年じゃなくてもいいんです! 三年でも、一年でも。それさえ確信できたならば。今が、友達と過ごしている今が、戻ってきて、その瞬間さえ生きることができるなら、失うにしても得ないよりはずっといい。ほしいものはほしい。だめになると分かっていてもほしい。自分がその後の世界を見ることができないとしてもどうでもいい!
  ぼくはかばねの自殺についての連絡を聞いて、かばねが話したこのことを脳裏に浮かべた。かばねが本当にこの決断の通りに生きたのだとするなら、ぼくらのために、自分の命を、捨てたと言うことになる。このような夢想的な、幻想上の決断に従って。
  ぼくはかばねの自殺の理由がそのようなものであることを到底信じることが出来なかった。かばねは自分自身生きていくのが大変つらいと明らかに感じていた。そのような自己犠牲の考えがあるとしても、なかったとしても、かばねは生きていくのを大変つらいと感じていたように思えるのだ。つまりぼくがいいたいのは、かばねは死にたがっていたから、自殺したということだ。これもまたぼくにとってはとても考えたくない理由である。だから、かばねが悪魔にそそのかされて、その約束に忠実に生きたということもありうることだと考えないでもない。かばねが死に捉われていたと想像するよりも、かばねに愛されていたと想像することの方が、ぼくにとっては容易である。だから、次のように想像することも出来ると思っている。
  友人たちの幸福のために命を捧げると誓い、友人たちとすごした五年間の猶予期間に、かばねは、特殊な質問の形式を通じて、友人たちに、そのような自己犠牲の決断をした自分自身についての意見を尋ねたのである。その質問とは、次のようなものだ。
  『ここに一人の少女がいました。そしてその少女にはその胸の中に秘める、愛する少年がいたのです。しかし少女は自分の気持ちを伝えて、『あなたのことを愛している、アイラブユー』と伝えることができないのです。なぜなら、その言葉を受け取ってくれるか、肯定してくれるか、少女には全然分からなかったからです。少女はただ怖かったのです。ところが、少女が少年に思いを伝えることができずに、苦しんでいたところ、そこに、まさに突如風がビュー、ススキの穂が揺れるぅ、何が起こった。神様が降ってきたのです。そして少女に、すべての未来を教えてあげよう、と身を乗り出して、提案してくるのです。少女はいきなり現れた神様がどうして自分に始めて見たものなのに神様だと分かるようなお姿をなさっているのか大変不思議に思いましたけれど、よっぽど神々しくて、拝みたくなるような、神様っぽい感じのお姿だったんでしょうね。少女は気おされて、は、はい、とうなづいた。では、と神様は、少女にこういう完全無欠まず間違いなしの未来を教えました。つまりさ、その少女が少年のところに行って、『あなたを愛している、アイラブユー』と言ったならば、その思いは必ずかなえられ、受け入れられて、少女と少年は両思いとなって、楽しくって、嬉しくってたまらない蜜月に入るであろう、しかし、その少女と少年の楽しい年月は永遠に続くと言うほどうまくはない。それは五年ほどで、どのような努力をもはねつけ破局に至るであろう。神様はそう予言したのです。さて、きみが少女だったら、どうする?』
   かばねはそう訊ねることによって、自分の決断が、まさにじぶんがそのためにじぶんのいのちを犠牲にしようと考えている愛すべき友人たちにはどう思えるか、愛すべき友人たちだったらどうするのだろうかを試した。
   たとえば、ゆらの答えをこの意味で解釈するとこうなる。
  『わたしだったら、そんな恐ろしい決断はしない、出来ない。それに、かばねを失うつらさにも堪えることが出来ない。かばねが死んでいって自分だけが生き延びることなんてとてもそんなことは自分には耐えられそうもないから、後を追うかもしれない。』
  ゆらは後を追うことがなかった。これからもそうであるかは分からないが。だから、かばねもきっと安心したに違いない。
   こな絵の答えをこの意味で解釈するとこうなる。
  『わたしはかば姉と同じようにその恐ろしい決断をするかもしれませんが、そのために得られた架空の選択肢は、あくまでも架空の選択肢であり、現実的なものであると信じることが出来ないでしょう。もしかしたら、その選択で助かっていない無数のわたしたちがどこかにいるのかもしれません。けれども、かば姉を失って得られたこのわたしたちが生存しているという現実は、ただ果てしなく幻想的なものに過ぎないでしょう。ただただわたしたちはむなしさを感じながらそれを生きるでしょう。つまりかば姉の消滅だけがわたしたちの本当の現実ということになるでしょう。』
  でもこな絵はいちばんつよく、かばねの存在を肯定してくれた、最高の友達だっただろう。小さい頃からずーと。
   なしおの答えをこの意味で解釈するとこうなる。
  『おれはおれたちに与えられたそのような状況を信じない。なぜなら人生はおれたちにいいものであるべきだし、そうあらなければならないからだ。おれはかばねを犠牲にして存続するようなそのような世界があるということそのものを否定し、信じない。そのうえでなら、この世界を愛している。自分を犠牲にすることだって厭わない。ただしそれは、必然的に来るであろう死におびえながら、人生を生きることを意味するわけではない。ただ、おれは、自分の気持ち、そうありたいという気持ちに従って、本気の本気で真剣に行きたいし、かばねもその選択を通じてそうしていることをその意味では認めよう。』
  なしおは、中学二年生のときにかばねが生きた選択肢から生じた物語を、唯一自分も意思を持った人間として生きる事を選び、そしてその物語の美しさによって、自分自身も死ぬことを選んだ。『おまえが存在しおまえを愛し続けるという物語の美しさによっておれは死んでいくだろう。』かばねが生きていない、本当の意味で生きていない人生の空虚さを、アパートの部屋でのかばねの釣り下がった死体を見たときから、瓦礫の下に埋まって死に絶えるまで忘れることなく、苦しみ、そして愛し、そして思い、そして死んだ。かばねはそのようななしおを愛している、アイラブユー。
   なえでの答えをこの意味で解釈するとこうなる。
  『わたしはかばねの自己犠牲を必要とする世界を認める気がないが、かばねがそのときわたしたちを愛してくれたことを、とくに私を愛してくれたことを肯定する。そしてかばねが後々犠牲にならない方法をともに考えることが出来るように、わたしはかばねがわたし(たち)に協力してくれることを望んでいる。そうしてわたしたちは、かばねが死んでいくことに対して永遠に反抗し続けるだろうし、かばねの死を否定し続けるだろうし、それが失敗したときには、わたしはかばねとともに死ぬことを選びたい。』
  ところが、なえでは、かばねが死んだ後もそのかばねの偶像を愛し続けることになる。永遠になったかばねを愛する。かばねはこの一方的な変質的な愛情を持ったなえでを否定はしない。そればかりか、なぜ、彼女は社会や世界にあんなに愛されて恵まれているのに、かばねにいまだにこだわり続けているのか、よく分からない。いや、本当はよく分かっているんだ、分かっているじゃんか、五人は幼馴染なんだから。
   ぼく、ずいたの答えをこの意味で解釈するとこうなる。
  『ぼくはかばねの決断を悲しむだろう。ぼくにはとても出来ないことだ。ところが、かばねが、ぼくを含むみんなのためにそれをしたという、してくれたというそのことだけでも、ぼくはこの世に生まれてきた喜びを感じることが出来るのだ。運命に感謝することが出来るのだ。』
  ぼく、ずいたが発作の中で無限の人生を生きているだろうことをかばねは知っていた。ずいたは、かばねの、近所に住んでいた。あまりかばねのことを理解できないままにずいたは人生を終わることになるだろう。だが、かばねがずいたを理解してくれようとし、また思い続けてくれたようなそのような、結果の見えない努力の果てしなさについては忘れることはないだろう。
   かばねは自分が死ぬ前に、これほどまでの友情の奔流を、神から与えられたということに感謝するだろう。
  合掌。
  (かばねは、彼らが、その後にする、パーフェクトサークルのことを知らなかった。知らなかったが、それでもこの答えの中に、確かに書き込まれていた。)
 
 
  三章 終章―そしてみんないなくなった
 
 
 
  1 ボランティアがなしおのポケットから発見した紙切れ
 
  かばねへ。
 
  とほうもないわがままだが、かばねに本当にふさわしい男になるためにおれはこの町を去ろうと思った。
  さまざまな土地に行ってさまざまな仕事をした。人々を見た。言葉を知った。考えや生き方を学んだ。
  どうしてかばねの元を去ったのか、おれにもよく分からなかった。
  ただそうすることがかばねにふさわしい人間であることにつながっていると感じて、いたたまれなくなって、そして耐え切れなくなった。
  そう言えるのかもしれません。
  小さい頃からかばねや仲間たちから大きな影響を受けて育つことが出来て、おれは幸せだった。でもあの町はかばねにふさわしい生き方をするためにはあまりにも狭く思えた。広い世界の中でちっぽけな自分自身を、何物でもなく、ただ途方にくれるだけである自分を感じるにはあまりにも小さすぎた。
  おれにはそう思える。
  この現実を生きていくことを否定することなく、そこで生きていく絶望から逃げるということは大変だった。
  なによりもかばねがいない生活は何とわびしかった。しかしあの町に行けば愛すべきかばねが生活していると思うから生きていける。
  だからかばねもおれの後を追ってこないでくれと約束してほしい。かばねが後をおってこようとしたことは分かっている。しかしその結果はお互いにつらい結果に終わるだろうと言うことは分かっていた。
  かばねが存在し、おれがかばねを愛し続けるという物語の美しさによっておれは死んでいくんだろう。
  ここには、渡されたナイフがある。そしてかばねを描いた絵がある。
  自分は一緒にいることができない。けれども、言葉だけはあなたに残しておきたい。
  自分が去った後でも、あなたが持っていたいと思うような手紙で、支えになる言葉を。あなたが価値があると思えるような手紙を。
  しかしここにはそんな余白はもう残されていない。
  ごめんね。
  ありがとう。
  さようなら。
 
  合掌。
 
 
  2 空中庭園―水無池
 
  そいつはわたしにゆっくりとこう説明し始めるのである。
  いつのころだっただろうか。高校二年の夏休みぐらいか。とてつもなく澄み切っていたよ。
  若い娘の裸のようにすっかり晴れ渡った水無池の土手にて。
  「もしもここにマラソン選手がいるとするね、あっは」そいつは言った。
  「見事な発端だわ、言わせてもらえば」わたしは答えた。そいつはわたしの中断を無視して言葉をつなげる。
  「いいえ、百メートル走の選手でもいい。その選手が、本気の本気で、真剣にまじで、がちで走ったとすると、その選手はまず間違いなく、その人間の生体における最高の競技記録をたたき出した後、死に至るだろうね、多分? うん?」
  「異存ないよ、考えることさえばかばかしいことを除けば」わたしは答えた。
  「もし、そしたら、それが人生だったら? 人生を本気の本気で、真剣にまじで、がちで生きたとするなら? あっは、どうなる?」
  「人生? 人生って、今生きているこれのこと? いまあんたとしゃべったりしているやつ? 知っていると思うけど、わたし、そういう説教みたいな言葉を使っている人を見るとそれだけでがちで吐き気するんだけれど。・・・どうもならんよ、何かなるもんかね、ばか」
  「言わせてもらえば、ばかというときには、もっと発音に気をつけてほしいな。こころからそのひとに、自分が低脳野郎で生きている価値がないと思わせなきゃ、あっは」そいつは言った。
  「自殺だよ、自殺。人が、本気の本気の本気で真剣にまじでがちに生きたとしたら、つまりさ、バベルの塔の如きぶッとい人生を生きたとするなら、その人は、死ぬだろうね。間違いなしよ、死に至る。より正確に言うとするなら、その人は自分の死を含んだ人生の選択肢を選んでそれを生きるだろうね。つまり、意図的な自殺と言える? 言えないかなー、まったく難しいなあ、真剣にかんがえることって、あっは」
  「死ぬもんかね? そんなに必死こいて生きることができる人は、むしろ成功するんじゃない? うまくいえないけど」わたしは答えた。「むしろユダヤ人の大富豪とかになるんじゃない?」わたしは知らないけど。「それとかベンチャー企業の一部ジョージョーとかにつながったりするとかなんとか。そうなったところでわたしの人生には何も影響がないことを除けばわたしにはそう思えてならないなあ?」わたしは知らないけど。
  「ところで」
  「ストップ。『ところが』とか『つまり』とか『要するに』とか言ったりする人についてのドクターコパの意見を聞きたくならない? もしあんたが少しでも耳をダンボにできるならの話だけれど」わたしは言ったが、そいつは続けた。
  「ところで何でぼくたち普通に生きている人が『この世の最高のもの』とか『超絶的な美』とかを見ることも出会うこともできないで死んでいくかの理由って知ってる? それら超絶的に最高で、陶酔的で、秒殺しの、瞬殺勃起物(しゅんさつぼっきもん)の一級品が、どうしてぼくらにはぜんぜん開かれていなくって、一部の特権階級にだけ触れえるものであるのかってことなんだけれど。そんなこと考えたこともなかったかな、おろかな愛すべき豚君は。あっは」そいつは言った。「じつはそれを答えられたらとっても驚いちゃうなと思って聞いているんだけれど」
  「まったく、全然、検索の必要もなく」わたしは答えた。「知らんね。知らないことで喜べる知識があることについては今その存在を知ったよ」
  「良かった。ぼくが教えることができるからね。」そいつは言った。「この世の最高のものを見た人はいずれの例外もなく死んでいくからなんだ、なんと! あっは、すっげーね?」そいつは答えた。
  「え、なんて?」
  「この世の最高のものを見た人は、ひとりの例外もなく、死んでいくって言ったんだよ? 耳をだんぽにしてよ、ねえ? あっは、いわせてもらえば、きみの耳は成川トンネル並みに突き抜けてるよね」
  そいつは続けた。
  「最高は存在する。最高に美しい人間、男と女とその中間、あるいは両性的人間。見たら死ぬほど美しいのが最上級。親しくなれば死んでしまうのが次にくるかな。結婚したり、特別な姿、たとえば生まれたままの姿を見たりしたら死んでしまうのが次かな。そのほかには、芸術。たとえば、絵画とか、音楽とか、彫刻とか、建築とか、小説とか。見たり聞いたり住んだり読んだり、とにかく、触れたら死んでしまう。それだけの超絶的絶品たち。中国の言葉で言えば『神品』、まあ知らなかったと思うから言ってみたんだけれど」
  そいつは言った。
  「それに触れた人間は必ずある経過をたどって死に至る。だからそれを知っている人間は一人もいないし、それが説明されたり掲載されたりしている本や教科書や論文はない。しかし、それが存在するという事実、うわさは存在するんだから、それを求めようとする人も後を絶たないね。それを人為的に作ろうとする人だってそう。え? なんでそんなことを知っているかって? あっは、超能力でも芽生えて両耳を手を使うことなく閉ざす能力がほしいなあという顔つきをしているよ、あんた。たまらんね」
   考えていないし、聞きたくもないんですけど?
  「なんらかの意味でそれを知っていると思われたら、どうしようもなく困っちゃうな。だって、それが事実なら、ぼくは死んじゃうからね。なぜなら、最高の美を何らかの意味で知っている人は例外なく死んじゃうんだからね。ぼくは愛する人の涙に弱いんだから」
   なにが『だから』なんだっつーの! おまえが美について語るな! わたしは言った。
  「わたし、知ってるよ。ゴッホのひまわり連作とか、ムンクのマドンナ像とか。ほかにもいくつか。知っているのにわたし死んでないじゃんか、もう嘘じゃん、破綻じゃん?」わたしはしごく当たり前のことを指摘させていただいた。
  「あっはの×二十。まったく笑わせてくださるね、世間知らずで、井の中の蛙の大海知らずのまさにその蛙を地で行くお方様。そんなものはぜんぜん美ではな・・・」そこでわたしはぶちきれていつのまにかそいつのうえにいわゆるマウントポジションをとって座り込み、そいつの両頬を「ゴッホをばかにすんな! ムンクをばかにすんな!」と言いながらはたきたおしている自分に気付いたので、普段はありあまるほどわいてくる自分の自制心を超える侮辱を受けると自分はどうなるのかの答えを勉強した。
  「で、それがなんなの?」わたしはそう言った。
  「いった、痛たたた。マゾって、ひとつの才能だよね? 美徳だよね? それがいま、ぼくに分かったよ〜 痛くて嬉しい、つまりイタウレシーってがちすごくねえ? だからね? ・・・」
 

(おわり)

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